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美術館 > 刊行物 > HILL WIND > ひる・うぃんど(vol.11-20) > ひる・ういんど 第19号 『距離の夜』異聞──第2回具象絵画ビエンナーレから──

『距離の夜』異聞 ─第2回具象絵画ビエンナーレから─

東 俊郎

 
「近くにあるものをきわめて遠いものとし、遠くにあるものをきわめて近いものとすることによって、 われわれの心にその両者をともに把握せしめること。」

 今回の展覧合カタログのなかの『具象絵画大體』で、川口起美雄の「距離の夜(フランチェスカ・ブランディの削象)』の中央のひとりの女がひらく本の題“DIE ERLEUCHTETEN”にふれ、それをなにげなく啓蒙と解してしまったが、これではフランス革命前後の所謂「啓蒙主義」の啓蒙とのちがいがわからない。しかし、画面右手のべつの女性のもつ書名が、“DIE FR-EIMAUREREI”/フリーメイソンの制度とするなら、この絵をつつむ全体の雰囲気からいって、秘密結社や神秘思想とのつよい関連のもとに、DIE ER-LEUCHTETENということばをうけとるほうが深切だった。DIE AUFK-LARUNG とはかいてなくてDIE ERLEUCHTETENなのだから。

 

 たとえば、ちょうど読みかえしていたトルストイ『戦争と平和』の、ピエ-ルがフリーメイソンに入会する儀式のくだり(第2巻2章)が、脳裡のどこかにひっかかっていたのかもしれない。アルコールランプのかすかな光に照らされた、七箇の燭台と髑髏をおいた机と、太陽と月と分銅と方解石などを描いた絨毯があり、璧には赤い星がはめこまれている部屋での秘密の儀式。彼は導師から謎めいた言葉をかけられ、「探す者」とか「苦しむ者」とか「求める者」とよばれつつ同時に結社の目的をおしえられるのだが、そのひとつに「同志の心の啓蒙」があった。その英訳でしめせば、“Hence we have a secondary aim,that of preparing our brethren as far as possible toreform their hearts,to Purify enlighten their minds・・・” というところ。

 

 しかしそれはそれとして、まさにこっちの蒙を啓いてくれたのは、この方面のいささか事情通らしいプログレッシヴ・ロックと怪奇幻想好みの知友で、彼によれば、DIE ERLEUCHTETENは啓蒙というより照明(派或は結社)と訳すほうがいいとのこと。すでに哲学のことばにあるネオ・プラトニズム系列の「照明説」ともむすびついている(のだろう)、ドイツ語でべつにDIE ILLUMINATENともいわれて、既成のキリスト教緒宗派に反対した啓明結社又はそれに類した存在をこそ、なによりもまずおもいつくべきだったのだ。もちろん、そうしたほうが、川口の作品もすっきり了解できたのに。つまり、あえてドイツ的なといっていいだろう神秘主義とか神智学へかたむくその思考が。

 

 もっとも、いそいでつけくわえると、「神智学と神秘主義とは一つではなく、二つのものなのである。」**そうだ。サンマルタンとフランツ・フォン・バーダー、ヤーコプ・ベーメ、メーストルなどにふれながら、そうかたったのは他でもない、『読書日記』におけるE.R.クルティウスだった。このクルティウスだが、『読書日記』を通読してみると、ドイツ・ロマン主義への親炙はもちろん、それをこえて曖昧雲のごとき神秘思想へのただならぬ関心を感じとることはむずかしくないので、たとえば、『光の父としての電光について』をかいたバーダーの独仏における研究の足跡をていねいにたどるなかで、つぎのことばは記憶にのこる。

 

 バーダーは、ゴシックおよび古ドイツ的絵画は「純粋にドイツ起原」のものであったとするロマン主義的見解をもっていた。この二つと「古ドイツ的自然学ないし自然哲学」とをかれは並べておく。これは「同時に神学であり、その神学は同時に自然哲学であったのである。」これは「ある時には神智学、ある時には錬金術、ある時には神秘主義となづけられた・・・

 

 はなしはおおきくなったようだが、川口起美雄からはなれたわけではない。この引用も、川口起美雄の作品への迂路に迂路をかきねたとしてもついにゆきつくはずの注とみたてたい。川口はたぶんウィーン幻想派、たとえばエルンスト・フックスの絵画からおおくをえているのだろうし、そのウィーン幻想派の起源をさかのぼれば、ゲルマニスムスに特殊な思考のうごきと色合に必至にながれこむのだから。

 

 で、もうすこしバーダーにつきあうことにして、彼が生の運動の根元を「暗い燃焼」「暗黒の火」「不安の熱」などのことばをもちいつつ、それが電光をつうじて光へと救済されるとして、自他の救済の装置としての光の意味のおもさをクルティウスは示唆する。物性をこえた、それ自身がいきもののような光。そしてその対抗者である闇も。LICHT UND FINSTERNIS──それもまた川口作品の本の背表紙に記されたことばだし、ふりかえってみれば、たしかに、内からとも外からともさだかにきめかねる光の感覚が川口にはあって、地中海精神がはぐくむ魂の真昼のそれとは対照的に、その時刻は真夜中をさすとしても、「手袋の裏もまた手袋」、ともに空間いっぱいにその光は充満する。ただ、地中海精神をヴァレリイに代表させればその光が虚無にかがやくとき、川口をつうじてぼくらへ至る光は、デューラーの版画『メランコリア』のように、事物のすべてを象形文字に変ずるといえようか。ぼくらを飛べない天使にして。 

 

(ひがし しゅんろう・学芸員)

川口起美雄 『距離の夜(フランチェスカ・ブランディの肖像)』

川口起美雄

『距離の夜(フランチェスカ・ブランディの肖像)』

 

Tolstoy, "WAR AND PEACE", translated by Rosemary Edmonds, Peuguin Classics, 1982, p.418.

 

** E.R.クルティウス『読書日記』、生松敬三訳、みすず書房、1973

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