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美術館 > 刊行物 > HILL WIND > ひる・うぃんど(vol.11-20) > ひる・ういんど 第18号 三重の陶芸

 

三重の陶芸

森本 孝

 

 室町時代の頃、日本では粗末な雑器が焼成されるのみで、中国大陸から渡ってきた「唐物」が珍重されていた。茶道が盛んになるにつれ茶人たちは雑具のなかから美を見い出し、やがて、釉薬も形態も極めて端正である「唐物」に比すれば、全く異質な「焼物」を創造している。中国から招来した文化を吸収することに努めてきた日本が、独自の純粋な美意識を確立させたことをも意味し、純日本的芸術の誕生と関連している。三重の歴史と風土が生んだ工芸のなかで、最も優れたものといえばおそらく古伊賀であろう。桃山時代から江戸初期に焼かれた古伊賀も上記の特質を備えたもので、強烈な箆目や変形が付けられ、高火度の窯のなかで長時間焼成されて生まれたビードロ釉、歪み、割れ破れなどが見所となり、古伊賀は激しさや強さを内に秘めた豪壮さに満ちている。

 

 

 莫大な財力と労力を費やして完成させた桃山期のやきものの伝統も、江戸幕藩体制の確立に従い途絶え、以後その再興は度々試みられても、単なる写しものに終らない、桃山時代の茶陶に匹敵する「陶芸」が復興されたのは、明治・大正を経て、昭和に入ってからのことであった。「やきもの」の生産量について考えてみると、江戸末まで増大の傾向が強く、少人数による「やきものづくり」も、幕末期には日本各地で産業として窯業が開始されている。三重県内においても、この期に竹川竹斎が古萬古を復興させ、地場産業としての発展を図ろうと射和萬古をおこしたが、次第に窯業経営は財政的破綻をきたしたといわれている。萬古焼の諸窯と称されるものは数多く存在するが、元文年間(1736-41)に沼浪弄山が始めた古萬古の主たる陶器が赤絵で、仙盞瓶のなかに優れたものがのこされているほか、南蛮などの写しものを得意としていた。弄山と縁故ある竹斎が、弄山の陶器伝書を入手して専門陶工を集めて再興を試みた射和萬古は、古萬古の系統といえよう。

 

 また、安永・天明(1772-88)の頃に焼かれた古安東もこの系統であるが、有節が起こした萬古焼も古萬古の系譜とされているが、有節の得意とする細密な絵付や木型による急須づくりは、弄山の古萬古の伝統と称することは陶抜からみれば難しく、古萬古とは異なる。新らしい萬古焼の始まりとし、以後県内各地で始められた萬古諸窯は、この有節萬古を起点と考えるほうがむしろ的確であるように思われる。

 

 幕末から明治を迎え、万国博覧合に日本から出品したもののうち、「やきもの」が予想以上に好評を博したことから、国の富国強兵政策の一環として、やきものは輸出製品の重要な品目のひとつとして注目を浴び、萬古焼も時の流れに乗ってその生産高は飛躍的に増大していった。

 

 明治40年に文部省美術展覧会が創設されて以来、工芸家にとって念願であった官設の展覧会における美術工芸部の設置が、昭和2年の第8回帝国美術院展から新設されることになり、この帝展を舞台に板谷波山、清水六兵衛、楠部弥式らが活躍し、また一方では、荒川豊蔵、加藤唐九郎、金重陶陽、中里太郎右衛門(無庵)らが、美濃、備前、唐津といった古窯を復興させつつ、自らの個性を確立し、三重においても川喜田半泥子が出て、素人ながらも専門陶工では到達しえない自由奔放な茶陶を造っているが、この昭和初期の頃をもって、芸術としての「工芸」の確立と考えられよう。なお、三重県学事文書課に設置された県史編さん室所管の文書のなかにある、明治期に開催された内国勧業博覧会に関する史料を見ると、やきものづくりは産業として把握されていたことが理解できる。工芸の概念は工業と未分化のまま曖昧であって、芸術の観念の成立とともにかなり遅れて確立されたのであろう。しかし現在において、「工芸とは何か」とは、「用」をいかに考えるかによって、種々の概念を生み、ま仁、伝統を重視するか、新たなる創作を目指すかによって、数多くの美術団体が誕生し、また対立関係も生じている。手工的熟練技術習得を唱える民芸を除き、工芸家は手工職人とは異なる意識を持ち、「用」あるいは「伝統」を意識しつつ、絵画や彫刻と同じように個性溢れる美的世界を創造することが要求される時代が現在であるといえよう。

 

 叩きの技法などを駆逐した焼締陶を追求する伊藤圭、古伊賀の持つ風格に迫ろうとするかのような高山光、可塑性を生かして柔らかい1枚の陶板を自らの意志によって自由な造形を創造している林克次、走泥社を舞台に意欲的なオフジェを発表する森一蔵、森有節が始めた盛絵の技法を用いて装飾性の高いオフジェを造る山田耕作をはじめ、伊賀においては多くの作家が古伊賀写しに始終しているなかで、「伊賀壺」に見られるように古伊賀の持つ特性を生かしながらも古伊賀にはない形態を求める谷本光生など、「三重の美術・現代(工芸)」開催を通じ、今後の制作に期待される作家が三重にも多く在住していることを知った。  

 

(もりもと たかし・学芸員)

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