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美術館 > 刊行物 > HILL WIND > ひる・うぃんど(vol.11-20) > ひる・ういんど 第17号 岩橋教章の周辺

岩橋教章の周辺

牧野研一郎

 

 かつて歴史家の大林日出雄氏が東京水産大学の同窓会誌『楽水』に民芸運動で有名な柳宗悦の父、柳楢悦(ならよし)の肖像画を紹介されたことがある。柳楢悦の履歴については柳宗悦『柳楢悦小傅』のほか『三重県先賢伝』など幾つかあるが、大林日出雄氏の「柳楢悦」(『津市民文化』創刊号)がもっとも詳しい。それに拠って柳楢悦の経歴に簡単に触れておくと、柳楢悦は天保3年(1832)津藩士柳惣五郎の長男として江戸の藤堂藩下屋敷に生まれた。楢悦が国詰となった父とともに津に移り住んだのは7歳の時で、和算学者として著名であった村田佐十郎に就き和算ならぴに測量術を学んだのはこれ以後のことである。20歳のときには師とともに航海用の六分儀を用いて伊勢湾沿岸を測量している。長崎の海軍伝習所に第1期生として派遣されたのは安政2年(1855)で、そこでは西洋数学、測量学などをオランダ人に学んでいる。このとき津藩からは12名が派遣されたが、そのなかには師の村田佐十郎や、上野彦馬とともに日本における写真術の先駆者となった堀江鍬次郎も含まれていた。長崎留学をおえて津に帰ると藩校において洋数学や航海術を教授し、文久2年(1863)には伊勢、志摩、尾張の沿岸測量に加わっている。維新後は兵部省に出仕、水路測量にあたり、明治9年に初代の海軍省水路局長となった。また13年には日本で最初の学会である日本数学会社の第2代社長(学会長)に就いている。この間、明治5年に大佐、13年に少将となった。21年に元老院議官、24年に60歳で没している。日本の水路測量の父とされる。

 

 柳楢悦の経歴についてはひとまずおき、その肖像画のことにもどると、私がこの肖像画に関心を抱いたのは、それが柳宗悦の父であるということばかりでなく、大林氏が上記の文中でこの肖像画の制作年代を明治7年から13年までの間と推定されていたからである。この肖像画には年記・署名がないが近年ワシントンのジョージタウン大学教授で柳楢悦の研究者であるハウチンス博士がアメリカで発見した上野彦馬撮影による柳楢悦の肖像写真をきわめて忠実に写したものであることが紹介されている。その写真は、明治7年アメリカ沿岸測量局のタビッドソンやチトマンらが長崎で天文観測を行った際に上野彦馬に撮影させたものと推測されているもので、現在もチトマンの子孫宅にあるという。写真であるから当然柳のもとにもその紙焼きは手渡されたはずで、それを見て肖像画家は描いたものであろう。写真があれば柳の死後でも肖像画は制作されうる。しかし、大林氏はこの肖像画が海軍大佐の礼服の姿で描かれていることを重視する。勿論写真の方は大佐時代のものであるから当然であるが、もしこの肖像画が明治13年柳の少将昇任以後、あるいは死後に描かれたとすれば、それは非常に不自然なことであるとされる。海軍少将、元老院議官にまでなった人の肖像画が何故大佐時代のものでなければならないのかと。したがってこの肖像画は少将任官以前に制作されたものであるとする。

 

 しばらく大林氏の説にしたがって話をすすめる。この肖像画家の油彩を取り扱う技術は相当に熟達したもので、明治7年から13年という時代にこれだけの肖像画を描けた画家はどのような画家であったかという問題になる。明治初期の油彩画による肖像画を制作した画家としては、〈明治天皇御肖像〉や〈松田玄々堂像〉 〈西周像〉などを描いた高橋由一、〈皇后陛下(昭憲皇太后)〉〈大久保利通像〉などを描き「我が国洋画創草期における肖像画の描き手として代表的画家であった」(関千代『近代の宵像画』至文堂)とされる五姓田義松、〈勝海舟像〉〈福沢諭吉像〉を描いた川村清雄などの日本人画家の名前とともに、明治8年に来日し擦筆画により多くの明治の元勲の肖像画をのこしたキヨソネや、フォンタージの後任として工部美術学校に赴任したサン・ジョヴァンニの名前がおもいうかぶ。これらの画家のなかで柳楢悦との接点がありそうに思われるのは〈勝海舟像〉を描いた川村清雄である。

 

 勝海舟と柳楢悦とは長崎の海軍伝習所以来の親交があり、明治海軍においては上司であり、柳楢悦が迎えた三度目の夫人勝子は勝の世話による。しかし川村清雄が明治4年以来のアメリカ、イタリア留学を終えて日本に帰ってきたのは明治14年のことであるから大林氏の説に従えば、この肖像画の作者は川村清雄ではありえない。また由一や義松の作風とこの肖像画とはおおきな隔たりがあるように見える。

 

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 森鴎外の『西周伝』は西周の没後その日記をもとに編まれたものだが、そのなかに文久2年(1863)オランダ留学に向けて咸臨丸で江戸品川沖を出航し長崎でオランダ船カリップス号に乗りかえるまでのことが詳しく記録されている。江戸を発ったのは6月18日、機関の故障や麻疹の流行で長崎に着くのが8月23日と2ケ月を越える航海であったが、この記録のなかに、「之艦は特に周等を送るのみならず、亦官命ありて長崎に赴くなり。又命を承けて伊勢の沿岸を測量するもの7人ありて、同じく乗りたり。将に志摩団鳥羽港に至りて辞し去らんとす。」とあり、また「(8月)三日夜半航路を錯りて志摩国的矢浦に至る。鳥羽を距ること五里なる可し。滝留八日に至る。測地官をして上陸せしめ、其行李を搬送す。」とあって、鳥羽に入港すべきところを航路をまちがえて的矢浦に着いてしまったこと、そこで沿岸測量のため7人の測地官をおろしたことが述べられている。この7人とは、『日本水路史』(海上保安庁編)によれば、幕府軍艦操練所から派遣された測量官福岡金吾、塚原銀八郎、渡辺信太郎、宮永扇三、長田清蔵に絵図方の野村総右衛門、岩橋新吾であった。岩橋新吾とは水彩画『鴨の静物』(明治8年作・当館蔵)唯1点で日本近代美術史にその名をのこす岩橋教章のことである。これら一行7人に津藩から柳楢悦らが参加して伊勢・志摩・尾張の沿岸測量が実施されたのである。この時には、これら測量官の行く先々には次のような通達がなされてもいる。

 

海路測量従事者便宜供与者達

 

一 追々御軍艦御打建相成以来航海往復も度々有之候付は、海路険易熟知致し候儀必要之儀付、以来航海之節、難破没之患無之ため此度御艦組之者被差遺、伊勢志摩尾張三カ国海路測量致し候筈付、見通し場所目印杭を打、海岸地上陸歩行等も致し、模様次第城下并寺社境内江も罷越、杭打等致し、時宜ニヨリ紀州江も相越候儀可有之候間、其節差支無之様可取計候事

 

六月二八日
三井則右工門

 

(『松坂市史』史料篇「御用留 小津家文書」 文久2年)

 

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 岩橋教章は天保6年(1835)松坂の医者木下新八郎の子として生まれ、父の没後祖父に伴われて江戸に行き、岩田家の養嗣子となり、狩野洞庭について絵を学んだという。ここまではそれ以上のことはわかっていない。文久元年(1862)10月、その画技をかわれてか、軍艦操練所(1857年幕府が築地に設立した海軍兵学校)絵図認方出役を任命されている。官職に就いて最初の仕事が故郷の沿岸の測量だったわけである。この頃の教章の絵がどの様なものであったかは、「文久年間、教章海軍操練所に於て日本全国を描画し操練所に掲げありしに、或る外人来りて之を一見し、こは西洋人に描かせし哉といふ。否日本人なりと言えども、彼一向聞かず西洋人なりと言いしよし伝へ聞けり」という、教章の子・章山の追憶によって窺い知るばかりである。

 

 以後維新までは測量・地図の作成に従事し、函館戦争に従軍、赦免されて新政府の海軍操練所・兵学校に製図掛として出仕している。海軍兵学校編『海軍兵学校沿革』の明治4年末の職員名簿には製図掛の筆頭に兵学権大属 岩橋教章 とあって、その下に8名の名があり、そのなかには橋本雅邦や狩野昭信らの名もみられる。明治6年にウィーンに地図の作成に必要な石・銅版画の技術を習得するため派遣されている。翌年帰国後もその技術を生かし地理寮、紙幣寮などの官職についた後、明治16年にこの世を去っている。志賀重昂は『世界写真図説』で教章を「本邦地理製図法の祖」とし、また西村貞は『日本銅版画志』において「明治初年の幼稚なる銅版法の面目を一新せしめて、よく鋼鐫の技術を世界的水準にまで高めた人」としている。こうした岩橋教章への評価は、柳楢悦への「水路測量の父」という評価と好一対をなしている。(岩橋教章の詳しい事績については三輪英夫氏の「岩橋教章筆鴨図」『美術研究』321号を参照されたい)

 

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 岩橋教章の生涯は技術者の一生であって、画家のそれではないことは今日まで伝わる作品がその卓越した銅版技術を駆使しての地図を除けば、『鴨の静物』1点のみであることからもわかる。地図以外の銅版画作品としてはウィーン滞在中に制作された風景画『墺国の冬』や帰国後の『西洋婦人図』『鹿図』が『正智遺稿』に掲載きれているが、いずれも関東大震災で烏有に帰したという。それでは教章はその抜群の描写力を油彩画にふるわなかったのだろうか。『日本銅版画志』によれば東花堂五翁が明治10年に刊行した『皇国王名誉人名録』に「油繪 永田町壱丁目拾壱番地 岩橋赦(まま)章」とあるという。
そこでこの著者は、教章が当時油彩画においても有名であったものと推測しているが、その作品をかつて見たことがないとも記している。確かに銅版画の技術に比べれば油彩画の材料に精通することはそれほど難しくはない。そのうえ教章には『鴨の静物』にみられるように当時としては抜群のデッサンカを持っていた。油彩画を描いたとしても不思議ではない。 

 

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 柳楢悦の肖像写真を撮った上野彦馬は天保9年(1838)蘭学者上野俊之丞の子として長崎に生まれポンペの舎密(化学)試験所で化学を学び、また先述の海軍伝習生として長崎にあった津藩士堀江鍬次郎とともにフランス人写真師ロッシュに湿板写真の実技指導をうけ、津藩主藤堂高猷の援助により写真機を購入、万延元年(1860)江戸の津藩邸において藩主らを撮影したことで知られている。翌文久元年には堀江とともに来津し、藩校有造館で堀江とともに化学を教授し、文久2年1月津の岩田町伊勢屋治兵衛を版元として『舎密局必携』(3巻)を刊行し、その第3巻付録には写真術についても記している。この年の秋に彦馬は長崎に帰り撮影局(写真館)を開業している(堀江鍬次郎及び上野彦馬については茅原弘氏「堀江鍬次郎」(『津市民文化』第5号)に詳述されている。)

 

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 上野彦馬が撮影した柳楢悦の肖像写真をもとに岩橋教章が描いた肖像画??もしそうであれば、幕末維新期において活躍した、三重県に深い由縁を持つ各分野の先駆者たちの理想的な結合がこの肖像画ということになるのだが。岩橋教章がこの肖像画を描いたという確証はない。ただこの3人が柳檜悦を軸として交錯したという事実があるだけである。

 

(まきのけんいちろう・学芸員)

 

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柳楢悦(ならよし) 肖像画
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