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美術館 > 刊行物 > HILL WIND > ひる・うぃんど(vol.11-20) > 黒田清輝と明治の洋画界

黒田清輝と明治の洋画界

森本孝

 

 美術団体は数多くあるが、少なくとも中京地区において『日展』は盛況である。美術作品を「鑑賞するために出かける」という意識や、作品から「感動を受けて」帰ってくることは悪いはずはない。しかし、『日展』は特別だから「三重県立美術館でも日展を開催すべきだ」という要求が自然な形で発せられることも少なくはない。「日展の作品は上手な作品ばかり、他の団体の作品は下手」であるという固定概念にも閉口させられる。また、西洋の美術、特に印象派や後期印象派の展覧会となると多大な入館者があり、現代の抽象的なものはその逆の現象を示している。このような状況を考えるとき、黒田清輝の功罪が脳裏に浮かぶ。

 

 日本近代洋画史上、黒田清輝が果たした役割は非常に大きく、近代洋画の生みの親であり、育ての親でもあるといわれ、黒田はよく『近代洋画の父』と呼ばれる。約10年間のフランス留学を終え、明治26年(1893)に帰国して、ラファエル・コランの明るい外光派の作風と平明な自然主義を日本に持ち帰ったことは、日本洋画の新時代の開幕であった。既に帰国の前年、第4回明治美術会に『読書』が出品され、明治27年の第6回展には『朝妝』等が出陳され、その翌年の第7回展では滞欧作21点が陳列され、陰影には暗い褐色を使っていた従来の画風とは異なり、光の当たる箇所には明るい色彩を配し、影には紫あるいは淡青を使い日常的な情景を主題として素直に迫る黒田の作品は、革新的な雰囲気に満ち、展覧会場で異彩を放っていた。久米桂一郎と黒田の作風は、当時の洋画界には衝撃的であった。

 

 明治27年、黒田は久米と相談の上、洋画研究所『天真道場』を創立している。10条からなる『天真道場規定』の初めの3条に

 

一、当道場に於て絵画を学ぶ者は天真を主とす可き事。

 

一、稽古は塑像臨写活人臨写に限る事。

 

一、塑像活人の階級は技量に随ってこれを定むる事。

とある。天真とは「自然のままに」の意味で、自由の精神を根底にもつ自然主義を主張した。当時の画塾では全裸のモデルを使用することは皆無で、コンテ・チョーク擦筆によって手本を模写する方法であったのに対し、「フランスで一年でやることを五年もかかる」と、専らフランスで行われていた石膏像あるいは全裸のモデルを木炭で描く方法を導入した。東京美術学校に西洋画科が新設され、黒田が教授として迎えられたときにこの道場は閉じられているが、師弟関係などの封建的な弊害を廃し、「実力」こそが画家にとってすべてであると説いた。

 

 黒田は、フランスの正則な描法とともに、近代フランスの自由な気風と芸術家気質も日本に持ち帰っている。当時、洋画の美術団体では明治美術合が存在するのみで、黒田も帰国後会員となって出品もしていたが、パリの自由な空気を吸った黒田や久米桂一郎、岩村透らには明治美術会の旧態依然とした官僚的な組織は肌に合うものではなかった。会名は庶民的な濁り酒からとり、森鴎外、高山樗牛などの評論家や原敬ら政治家、実業家なども加え、明治美術会から離れて、明治29年(1896)白馬合を結成している。総裁も会頭、幹事も作らず、会費を集めることもせず、展覧会開催にあたっては必要経費を会員が分担するという簡単な会則しかなかった。夜を徹して酒を飲み、酒に酔うほど意気盛んとなり、誰彼なく議論を交わし、「オジャルどうしたんだ、どぶろく飲めよ、白馬白馬ああ盛んだ、どしどし飲めよ、ドイドコドン」とフランス国歌の節で大声で合唱するといったことがしばしばであった。自由奔放な会で、従来の洋画家の概念を一層するほど服装や行動は奇抜で、無邪気といえるような享楽的な画家気質を発揮していた。和田英作が「コオル天の服に赤い毛織の帯をしめ、ベレ帽をかぶリギャロツシュをはいて大道をおしまわし、銀座の函館屋に洋酒を飲む」と黒田を偲んでいる。

 

 明治28年(1895)には、京都での第4回内国勧業博覧会に黒田が出品した『朝妝』をめぐり、裸体画事件が起きている。審査総長は九鬼隆一、黒田も審査官を仰せつかっていた。警視庁は異様なまでに目を光らせ、九鬼隆一は、後の明治40年の東京勧業博覧会に出品した中村不折の裸体画に対し皇室の尊厳を傷つけたという理由で強烈に攻撃した人物で、『朝妝』の公開可否の議論が沸騰した。それで黒田は、次のように強い信念を久米桂一郎、合田清の二人に宛てた書簡に吐露した。「オレの裸体画で議論が大層やかましく為り、余程面白い。警官などが来て観ると云騒ぎよ。・・・いよいよ裸の画を陳列する事を許さぬと云事になれば、以来日本人には人間の形を研究するなと云渡す様なものだから全く考えもんだ。就ては審査総長がどう云裁判をするか知らん。いよいよ拒絶と来ればオレは直に辞職して仕舞ふ迄だ。世界普通のエステチックは勿論、日本の美術の将来に取って裸体画の悪いと云事は決してない。悪いどころか必要なので大いに奨励す可きだ。始終骨無し人形計かいて居て、いつ迄も美術国だと云って居られるか。・・・道理上オレが勝だよ。兎も角オレはあの画と進退を共にする覚悟だ。」世論も反対論が強いなかで、黒田の強硬な姿勢が陳列継続を認めさせることになり、しかも、この作品は妙技二等賞を授与さることになった。黒田の場合、義父黒田清綱は子爵であり、当時の文部大臣公爵西園寺公望、内務大臣野村靖と黒田が親しい関係であったことが、こういった結論を出すに至った大きな要因にもなっていた。

 

 東京美術学校に西洋画科が新設されたことや、その指導者に黒田が就任したことにも、黒田が子爵の出であったことが根底にあった。こうした位置にあり、また作家としての実力も備えていた黒田は、東京美術学校において絶対的な存在であった。明治34年から美校校長を勤めた正木直彦は当時の黒田を回想して「黒田は、十分なる技量があると共に、一種旺盛な統制の威力をもってゐた。学生は彼を呼ぶにメートル─お師匠さん─と言い、珍しくそこには昔風の厳粛な師弟の空気が満ちてゐた」と記している。

 

 明治40年に文展が開設され旧派と黒田の率いる新派との間で対立は激化したが、回を重ねていくうちに新派は優位に立ち、文展は外光主義が主流となり、官展アカデミズムを形成し、黒田は洋画界の重鎮となった。

 

 黒田の才能について久米桂一郎は「自然のままに絵画に近づき、植物の芽が大地に育てられるように大きく成長し」(『故黒田清輝とフランスに居た頃』)ていったと回想している。確かに法律を学ぷために渡仏した黒田が短期間にコランの外光派の画風をこなしているが、コランが印象派の正統ではなく、印象派の技法を写実的な描法のなかに生かすアカデミックな作家であり、印象派に対する黒田の評価もコランに依っていたと思われる。(日本に印象派あるいは後期印象派が紹介されたのは、黒田の帰国から約20年後であった。) 前述の裸体画事件をはじめ没する直前まで、雑務に忙殺されながら、さまざまな問題が生じるたびに、自らの理念に基づき、日本の美術及び美術教育の発展に大きく貢献している。しかし、黒田が絶対的であったため、正されなければならないことが引継がれていった。

 

(もりもと たかし・学芸員)

 

年報/黒田清輝展

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