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美術館 > 刊行物 > HILL WIND > ひる・うぃんど(vol.11-20) > アーモリ・ショー『マン・レイ展』 研究ノート2

アーモリ・ショー『マン・レイ展』 研究ノートⅡ

荒屋鋪 透

 

 1911年、12月17日、ニューヨークのマディソン画廊で展覧会を開催したウォールト・クーンは、前年のアンデパンダン展を共に企画したヘンライ、画家でマディソン画廊主ヘンリー・フイッチ・テイラー、エルマー・マックレ-、ジェローム・マイヤースらと更に大きなアンデパンダン展の計画を練っていた。この発案が数日後、アメリカ画家彫刻家協会A.A.P.S.の設立を促し、A.A.P.S.は、後にアーモリ・ショーと呼ばれる大規模なモダニスト展の準備委員会となるのである。

 

 A.A.P.S.25名の委員の中には、7名のナショナル・アカデミー・オブ・デザインN.A.D.のメンバーが含まれていた。A.A.P.S.会長にはN.A.D.の重要なメンバーであり、アメリカ印象主義の画家オールデン・ウィールが就任し、副会長には矢張りアカデミー会員であったガトセン・ボーグラムが選出された。発起人のひとりであったにも拘らず、ヘンライ自身は当初からA.A.P.S.の中で一歩引き下がった存在となってしまった。ヘンライは1906年5月、N.A.D.のアカデミー会員となっていたのである。A.A.P.S.の委員にはアメリカ美術界の新参者こそいなかったが、当時アカデミー内に蔓延していた、「権威ある観念の孕んだ脆弱さ」を一掃したいと望むアカデミー会員が含まれていたことも又事実である。A.A.P.S.の設立趣旨書には、「アメリカ及び諸外国の美術作品による、確保出来うる限りの最良の現代美術を展観することによって、アメリカに於ける芸術運動に視野を広くもった関心を喚起する。」と謳われている。ただ、アーモリ・ショー準備の過程で、A.A.P.S.とN.A.D.の歩調を合わせるという目論みは、そもそもモダニスト展発案時点からのA.A.P.S.内一部委員の反アカデミー的体質の故に、矢張り実現不可能な理想として消滅してゆくのである。そしてアメリカの芸術家の間に起った、こうしたいくつかの歩調の乱れは、モダニスト展(アーモリ・ショー)自体の性格に直接影響し、その内容を大きく変更きせていく結果となる。

 

 A.A.P.S.内に生じたN.A.D.委員と反アカデミー派委員との軋轢は、まずウォールト・クーンが新聞紙上に発表した活動方針の抜粋から起った。クーンが新聞社に送付した内容は、アカデミーの嗜好に順応することのない芸術家に作品発表の場を提供するという、反アカデミーの色合の濃いものてあった。この記事が掲載されたことによって、N.A.D.委員であり、A.A.P.S.会長であったオールデン・ウィールは辞任することとなった。新会長にはアーサー・B・ディヴィズが就任した。ディヴィズはウィールよりラディカルな政治力の持主で、モダニスト展実現のための資金調達に東奔西走した。彼はパトロンになりうる政財界人にアプローチしたのである。ディヴィズはA.A.P.S.会長就任後、まるで人が変わったように、精力的に展覧会を組織しはじめた。1912年5月、A.A.P.S.はコレクターのジョン・クウィンの肝煎りで、ニューヨークの第69連隊兵器庫を1913年2月15日から3月15日の期間、展覧会場として借り受けることが出来た。

 

 ディヴィズはモダニスム美術を、19世紀から20世紀初頭にかけての美術史の中に位置づけた展観を行うことによって、観者が違和感なく様式の変化の足跡を辿れるようにとの配慮を試みた。これが、それ以前にもスティーグリッツのフォトセセッション画廊(291画廊)で頻繁に行われていた、小規模なモダニスト展と、アーモリ・ショーが明確に袂を分かつ部分であった。ディヴィズはクーンと共にヨーロッパ視察に向い、アーモリ・ショーのモデルになるいくつかの重要なモダニスト展を訪れている。一つはケルンのソングーブント展Sonderbund Internationale Kunstausstellung, Koln, Stadtische Ausstellungshalle, 25Mai-30Sept., 1912.である。このケルンの会場には、ゴッホ、セザンヌ、ゴーギャン、クロス、シニャック、ピカソ、ムンク、フォーヴィスムやドイツ表現派の画家の作品が一堂に会していた。ケルンの次にディヴィズとクーンは、オランダ、ミュンヘン、パリを訪問し、パリでは当時その地で制作活動を行っていた多くのアメリカの芸術家に出会っている。また彼らは、パリのコレクター、画商にも接している。

 

 最後に二人が訪れたのは、ロンドンでロジャー・フライが企画したグラフトン画廊に於ける第二回後期印象派展Second Post-Impressionists Exhibition, London, Grafton Galleries, 5 Oct.-31 Dec., 1912.であった。ディヴィズはこのフライの企画をケルン、ゾンダーブント展同様、アーモリ・ショーのモデルとして採用した。1912年11月までに、二人は合衆団にセザンヌ、ゴッホ、ムンク、ルドン、デュシャンの絵画、レームブルックとブランクーシの彫刻等、多くのヨーロッパの美術作品を送付していた。

 

 アーモリ・ショーはもともと、ヘンライの無鑑査、無褒賞の理念に貫かれていた筈であったが、A.A.P.S.委員にアカデミー会員が含まれていたことから、作品選定上でもN.A.D.委員と反アカデミー委員との間に衝突が起った。アカデミー会員で彫刻家のボーグラムが、展覧会出品作選定委員として、アカデミックな彫刻の展示を主張したのである。ディヴィズとパッチはボーグラムの選定を非難した。結局、ボーグラムはアーモリ・ショーのオープニング前夜にA.A.P.S.副会長の職を辞任するのである。アーモリ・ショー巡回中から巻き起った、このモダニスト展への批判の発火点は、こうした準備段階で生じたN.A.D.委員と反N.A.D.委員との間のトラブルの結果、A・A・P・S・を脱会したN.A.D.委員周辺からのものと考えられる。 

 

 こうした様々な困難があったものの、アーモリ・ショーの展示は1913年2月13日に開始され150名を動員して2日間で1,300点の作品の展示作業を終了した。兵器庫(アーモリ)内の壁面長は2,400フィート(約732m)であった。建物の構造上、ディヴィズが当初意図した、正確な19世紀から20世紀にかけての年代順の配列は不可能であったのだが、概ね彼の計画通りの陳列がなされた。アーモリ・ショーは公には「モダンアート国際展、The Inter-national Exhibition of Modern Art」と呼ばれることになる。

 

(続く)

 

(あらやしき・とおる 学芸員)

ロバート・ヘンライ

ロバート・ヘンライ

 

アーモリ・ショー:モダンアート国際展 1913年

アーモリ・ショー:モダンアート国際展

1913年

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