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美術館 > 刊行物 > HILL WIND > ひる・うぃんど(vol.1-10) > ひる・ういんど 第9号 弓鳴ろうとするもの

弓鳴ろうとするもの

東 俊郎

 いつか東京のサントリー美術館で一点の中村彝をみたことがあった。信頼する友人Mがおしえてくれた、相馬俊子を描いた作品のうちのどれかで、腕の逞しさとルノワァル風の配色だけがかすかに記憶にとどまっている。なにしろこの展覧会では坂本繁二郎の版画『神湊』の平面的に処理されながら、これを書いている今でもなまなましく思いだされる、周囲の熱とか音を遮断してしまって、ただ眼一箇と画面だけが世界のすべてとなったところに生まれる風景=空間の体験が圧倒的で、ほかにどんな作品がならんでいたかもよく憶えていない。だいいち、中村彝といえばすぐ「藝術の無限感」とくるその「藝術」も「無限」もぼくにはうっとうしく、鼻白む言葉なのだが、それは、およそ思想というものは発祥の地からの〈距離〉に比例して過激に抽象的になり、その逆に豊かな肉体性は失なうというたとえにもれず、∃ーロッパの18、19世紀に発明された思想である〈藝術〉が極東僻陬の日本へ舶来されて、喬木だったはずのものが灌木にしかならない、そしてその自覚があるから枝ぶりだけはやけにしゃちほこばるといった貧しい風景の悪しき象徴がその言葉にぶざまにも体現されていると信じていたからだろう。とうぜん中村彝(の作品)も。むしろ江戸版画の流れをくんだ坂本の小作品にぼくは「藝術」と「無眼」をあのときは感じたのだ。

 

 しかし彝の作品を毎日見つづけているうちに、少なくとも彝に対する評価はかわった。

 

 毎日、とかいたがほんとうに見あきないどころか、さらに見ることを、しかも年代による画風の変化ではなく一箇こ閉じた作品の〈内部〉をくりかえし見ることをぼくに促すなにかがある。それは絵具の置きかた、その筆触、ひとつのもののそれ以外のすべてのものとの関係――などということだが、なんど見てもよしこれでわかったと思わせない、記憶(言葉の、そして視覚の)の襞への定着をあくまで拒む(その意味ではうえに記した坂本の作品のいきかたとは逆ということになる)、ある奇妙な力の存在に、ふうっと、これが中村彝のいうところの「無限感」なのかなという思いがよぎる。たとえば、ひとつふたつと数えられはする自然数の集合のような、ブラウン運動する色(斑・線・面)の総体としての、彼が身体のうちでもっとも心をこめて描いただろう顔のなかの無限、むしろ顔としての無限。

 

 しかし、今回書こうとすることはそれではない。それはZune-Bogenとでも呼びたい湾曲線のことだ。例をあげれば、『カルピスの包み紙のある静物』(1923)や『髑髏を持てる自画像』(1923-24)の挿し花の枝、また『アネモネ』(1916頃)、『静物』(1916)、『静物』(1919)、『雉子の静物』(1919)に描かれた 緑の皿の弓形にしなった縁がそれだし、なかでも『髑髏・・』では当該の技を構成要素とする。顔(逆立つ角のような頭髪にも注意)、の右横の楕円形とか、加速された運動であるひじかけイスの曲線などに、そのヴァリアントを認めることがでさそうだ。

静物 1916年作

静物 1916年作

 それは具象絵画のなかに人工の幾何学模様をうめこむことを、全体を撹乱しない限度において中村が楽しんだ余興ではない。喩えが変だが、出産直前の妊婦にまっすぐな棒をもたせたらこうもなるんじゃないかと思わせる底の曲線で、自然にある形態をつかんだ中村の手の圧力が頭の統制をふりきってほころび出た、むしろ生々しい感情の爪跡のように、ぼくには思われる。『田中館博士の肖像』(1916)を依頼された彝が博士の左手にもつ計算尺にそりをつけたところ、クレームがついて描きなおしたというエピソードも、 この間の事情と無縁ではないようだ。

 

(ひがし・しゅんろう 学芸員)

 

年報/中村彝展

作家別記事一覧:中村彝

(注)「みづゑ」438号、昭和16年5月号の「中村彝追悼座談会」。それによると、いったん直線にした計算尺に中村はもう一度そりをつけたことになっている。

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