原田 光 中村彝展のポスターになった「女」という絵は、彝が日暮里の下宿屋、晩翠館にいて描いたものである。明治44年、24才。下宿屋の女中がモデルになった。女というありふれた存在から肉体だけを取りだしてきて、これだけ重苦しいまで官能的に女を見るということは、当時としてめずらしいことだったのだろう。文展に並んだこの絵を見て、「我々若い血汐の脈打ってゐる人間には深く胸に触れる処がある」と、感じた人たちがたくさんいたと考えることができる。頭脳を欝血させて、これを眺める人がいたわけである。明治44年におけるこうしたタイプのヌードの出現は、女の風俗史のつつしみ深い常識を挑発した一つの事件であった。絵の中に裸体があるというだけのことなら当時といえどもめずらしいとはいえず、西洋女の猿まね式のものや、風呂屋の一場面ふつうのものは見当たるわけで、おまわりさん以外、誰もそれに特別血を騒がせたということもなかっただろうが、裸だけがどんと正面を向いて挑戦してくるようなこの女の前では、明治人の視線は大いにたじろいだと想像でさる。この威嚇するような肉体の登場を、西洋の影響によるものだとか、ルノアールふうの官能表現を身につけたものだとかと考えて、目の前の裸から知的に目をそらせてしまう前に、普段この女は、頭の上に日本髪をのせ、着物の裾を端折って、下宿の玄関先に水を打ったり、縁側の雑布がけに汗を流したりしている明治の純粋日本女のはずだと、彼女が額縁の外に出ている時のことを想像してみるのは必要なことだと思う。その彼女とつきあうにあたって、元結いをほどいて肩先まで髪をたらさせ、双肌ぬがせて着物は腰のところに束ねてみる。それだけのことで、ありふれた娘の日常が、またたく間に女の官能へと転じてゆく新鮮さに、彝は若い血汐を欝血させたに違いない。この一瞬の新鮮なめまい、女にたいする自己発見を永続的に網膜へ焼きつけること、絵の力は、まず素朴にそこにある。 しかしその一方で、この絵には一つの作為があると、ぼくは思う。視覚による女性体験の鮮烈な意味を、あるところで積極的な追求の矛先からそらし、それを慎重に隠蔽しようとはかっているようなところが、ここにはある。裸の正面を視野いっぱいに溢れさせてくる女の非日常的なふるまいの手前に、コーヒー・カップやテーブル掛けなどを配置することによって、どことなく家庭内的な、日常的時間の流れのなかで継起するできごとの一つ、といった雰囲気を前面におし出し、それをむしろ大切に描いているところがある。コーヒーを前にして裸女が頬づえなんかついたりしている、このぎこちない身振りの演出が、官能の徹底追究の姿勢をにぶらせている、というと言いがかりになるだろうか。娘が演じる裸が、現実にゆさぶりをかける方向へ感覚を導くのを危惧して、周囲の小道具に主要な役割りをわりふり、彝はこの絵に、日常的整合性を与えたのだと思う。時代の常識を超えて、女性史の末端に肉体の讃歌を導きこんだ自分の視覚的尖鋭さを、時代の良識人たるもう一人の自分がおさえこみにかかった結果、絵は矛盾をはらみだし、作為的なぎこちなさをかかえることになった。 ここで、彝にとってのルノアールが一体何であったかを考えると、この絵は思うほどルノアール的だとはいえないことに気づく。表面上、主題も描き方もルノアールに見ならったことを感じさせはするが、根本のところで、そんなこととは関係ないばかりか、むしろ非ルノアール的な常識人の配慮が、現実にたいして働いているのである。彝のルノアールヘのこだわりは、描き方の上に現れる以上に、ルノアールの眼で現実を眺めるふりをしながら、自分の中に同居する尖鋭な感覚と経験的良識との間に、妥協点をさぐろうとするところからきている。要するに、ありのままの周囲の日常を、ルノアール風にも西欧風にも作りかえ得るふりをすることによって、絵の中に西欧風の舞台をこしらえ、そこに登場する彼の激しい視覚の欲望を舞台内に限定し、明治44年、東京という情況から、欲望を棚上げにしてしまう配慮を慎重におこなっている。同じ欲望に刺し貫かれていても、萬鉄五郎の「日傘の裸婦」(大正2)や劉生の「南瓜を持てる女」(大正3)など、彝の「女」とほとんど同時代の裸体・半裸体では、その欲望が時代的現実に突きあたり行き悩んでいるのと並べてみると、彝の場合は、現実がヴェールのむこうへ遠ざけられているふうなのだ。時代に比べて先行しすぎる感覚の過剰を、時代の常識と中和させるためのヴェール、ルノアールもセザンヌも、コーヒー・カップやテーブル掛けでさえ、そのために用いられているという気がする。萬や劉生の作品のように、大いなるみじめな失敗作といったものが彝にないのは、現実に差しむかった時の姿勢の違いによっているのであろう。こういう考えに立つと、「女」に現れる裸から小道具にいたるまでのすべてが、西欧ばりとみえて、彼女から日本髪の女などを刺激的に想像するのは、ひどく不躾けのことと思われかねない。それが彝の用いる作為なのだと、ぽくは思う。この絵の官能表現をヨーロッパ式のものだと思いこませることによって、官能にたいする抑圧も同時に働いているという絵画制作における現実的側面を見失なわせる。 絵のなかに、コーヒー・カップがあるかないかだけのことが、それほど訳あることか、と問われると、こんなふうに強弁しているぼくは突端にたじろがざるをえないが、彝の場合それはやはり重要なのだ。彼の絵にはこれに類する小道具が他にもいっぱい出てくるのである。そういう小道具が、すべてバタ臭い輸入品じみているということが大切なのだ。15才の女学生を描いた、裸の俊子も洋服の俊子も、ソファーや璧かけなど西洋風の調度品にもたれかかっている。彝と俊子が共謀して、豊満な肉体を誇示してみせても、周囲の道具立てによって、現実的な波紋はあたうる限り避けられルノアール風、セザンヌ風という看板の下で、現実は理想的現実へと転化する。田中館博士のガウン姿、主題から何から西洋式のエロシェンコ像、最晩年の「髑髏を持てる自画像」にいたっては、すべてがバタ臭い小道具だらけの中に、ドミニコ派の修道僧とでもいいたいような自分自身が現れる。まだまだある。絵の中にちょくちょく現れるバロック式の椅子、帽子掛け、自分で発案したゴシックふうの細工物、パリに行った友人への「静物や人物画のバック等に用ゆべきタピ(タピスリー)」の注文、「プロヴァンスの景色でも見るような」真赤な屋根のハイカラ・アトリエ、翻訳口調の絵画理論・・・、こういうものを周囲に配して、洋風の虚構にとじこもることを好んでいる。このいささか脱現実主義的好みから生じた主題が、彝の絵を破綻なくまとめ上げているといえるのである。 生涯一貫したこの趣味性は、重度の結核患者に終始し、世間とあまり交渉せずに生きた彝の、大きな現実とかかわりあることだろう。現実から肉体を隔離された分だけ、精神の力において、理想的現実に加担したといえるかもしれない。それを、病床に釘づけになったままでの、ヨーロッパ留学の体験と言いかえることもできる。病衰のはての不便な自己を、宗教的理想主義といった西欧的コンテキストに重ね、すりかえて描いた「髑髏の自画像」は、病床における留学の、いつわらざる映像化である。この絵が、悲劇的にも喜劇的にもみえるのは、時代における彝の立場自体が、幾分道化的であったからではないか。ここになおかつ、セザンヌ的反映を見ようと、レンフラント的こだわりを読もうと、そういうことにかかわりなく、彝は彝として、そんなふうに精一杯時代と対応し、自律していたのだと思う。 (はらだ・ひかる 神奈川県立近代美術館学芸員) |
女 1911年作萬鉄五郎 日傘の裸婦 1913年作髑髏を持てる自画像 1923年作 |