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美術館 > 刊行物 > HILL WIND > ひる・うぃんど(vol.1-10) > デイヴィッド・ホックニーの絵画

 

デイヴィッド・ホックニーの絵画 現代版画ロンドン・ニューヨーク展から

中谷伸生

 

 今春に翻訳出版された自伝的絵画論『ホックニーが語るホックニー』(小山昌生訳、パルコ出版)の冒頭において、イギリス現代美術界の旗手、デイヴィッド・ホックニーは、喜び勇んでこの書物を手にした読者に対して、「画家が自分の作品について語る内容よりも、画家が仕上げるもののはうを信じよ」という、いささか冷笑的な見解を述べている。彼の単純明快な主張は、今さら声を大にして話すまでもなく、視覚芸術の本質を鋭く突いた、しごくもっともな主張である。確かに、ある対象に一義的な観念あるいは概念をあてはめるために使用される「言葉」というものが、本来、言葉にならない視覚的世界を表現しようとする美術作品を説明できるはずはない。こうした考え方は、近代の芸術論の出発点にして、到達点でもある立場を明らかにしている。そしてこれを、芸術作品と作者の主義主張、さらに芸術作品と一般文化史的事実との関係にまで拡大して考えてみると、この芸術をめぐる本質的な議論は、たとえば近年流行の文化史的方法を標榜する多くの美術史学者達にとっては、常にその曖昧模糊とした不確定な方法の基盤を揺すぶられる、極めてやっかいな問題なのである。私はこの明晰な頭悩をもつホックニーという画家の作品を、敢えて彼の語る言葉を援用しながら説明したいと考えてみた。結論を先取りすれば、彼の主張の中で、次の回想的文章が、ホックニー芸術の起爆剤というべき性格を鮮やかに浮かび上がらせていると思われる。

 

 僕が11歳のころ、父が古い自転車を塗装していたことがあった。第二次大戦のあとで、世の中はようやく新しい自転車の買える時勢になっていたが、それはいずれも輸入品だった。そこで父は古いものを買ってきて、新車並みに塗りかえていたのだ。僕はそうした父の仕事をよく眺めていた。刷毛を塗料にひたして次々に塗ってゆくあの壮快さ、僕は今でもあれが好きだし、その当時も大好きだった。ここには、いわくいいがたい何かがある-絵を描く人なら誰でもこれは大好きだと思う。画筆に絵の具をたっぷり含ませ、何かに痕跡をつけるというのは、たとえ一台の自転車であっても、ぞくぞくするほどの快感だ。僕は今でも一枚のドアをただ一面一色に塗るだけで、まる一日過ごせる。(小山訳)

 

 ホックニーは1960年代の初頭に、ピカソやデコビュッフエ、またアメリカ抽象表現主義の画家デ・クーニングらの影響を受け、キャンパスに自己のイメージを直接たたきつけるような作品を措いた。だが抽象表現主義のスタイルは、彼の気質に合わなかったとみえて、すぐさま彼は新しい美術の言語の開拓へと乗り出すことになる。先輩画家キタイの作品に強く刺激されたりした後に、英語の文字をそのまま画面に措き込んだ「タイガー」(60年)という作品を制作する。この作品は抽象表現主義的作風を留めてはいるが、描かれたtygerという文字によって、それまでの彼の作品を乗り越えようとする新機軸を耶白に示した。60年から62年頃にかけてホックニーは、故意に稚拙な措法を使った「児童画」の手法をもちいたり、「生きた色彩の帯」と彼自身が呼ぶカラー絵はがきの効果を利用したり、また同時代のポップ・アートの手法を駆使したりしている。この時期にホックニーの絵画観はおおよそ確立されたように思われる。彼はまず線描で対象の輪郭を描き、そのあとで、色面によって空白部分を埋めてゆくわけであるが、そうした遺り方は、固有色を放棄したいわゆる「ぬり絵」の描き方である。注目すべきは、彼の作品が常に具象的イメージに対して、付かず離れずの相対的な距離を保っていることであろう。すなわち描かれる対象に属する自然(固有)の性質を活かしながら、そこから分離した形象と色彩をコラージュ風に再構成するわけである。「絵画は内容を備えていなければならないという意味において、僕はまったく伝統的な芸術家である。(中略)僕の絵は、内容をもち、つねに、ある主題と多少の様式とを併せもつ」と語るこの画家は、内容と形式のバランスを微妙に保つ絵画を絶えず想い描いていたといえる。そのために彼の立場は、20世紀中頃に隆盛を極めたアメリカ抽象表現主義、あるいはミニマルアート、さらにポップ・アートの領域においても、主として内容を排除する、フランク・ステラやジャスパー・ジョーンズらの〈形式〉偏重主義とは一線を画している。こうしたホックニーの芸術観は、あらゆる時期の作品を一貫しているもので60年代末からポップ・アーティストの作風から離れマチスにも匹敵する絶妙の描写カを駆使した、友人達の肖像画の迫真的な自然主義絵画へと踏み出し、そうした志向が、物語り芸術としての「6つのグリム童話」(69年)の挿絵を描くに至ったことも、彼の絵画理論からすれば、当然の帰結であるといえよう。ホックニーが70年代の初頭にポップ・アートの様式から一時的に身を退ぞけたのも、彼の線の魔術師のような抜群のデッサンカと、絵画の内容に対する深い洞察力との二つの才能が、ポップ・アートの狭い領域に彼を閉じ込めることを許さなかったからではなかろうか。

 

 60年代の中頃、初めてカリフォルニアを訪ずれたホックニーは、ロサンゼルスの街に氾濫する、雑誌や写真(中でもポラロイド写真の映像)などのマス・メディアに惹きつけられた。この時期にジョン・リーチーのホモ.エロティツク小説『夜の都市』(City of Night)に深い興味を示すことになるが、このカリフォルニア滞在の体験が作品化され、ホックニー芸術の一頂点を示す「ロサンゼルスの屋内の光景」(63年)をはじめとする、シャワーを浴びる男達が描かれる。これらの作品に見られる〈くすぐったい〉ような雰囲気とやわらかい水のイメージは、60年代後半から70年代初頭に至る時期に次々と制作された〈プール〉の作品群に繋がってゆく。ここに見られる特徴は、何よりもポップ・アートの主たる表現様式である〈平面〉のリアリティーの追求である。もっともホックニーは、自然の外観を放棄することなしに、人物、静物、風景など、すべての対象を二次元のフラットな色面に還元する。この手法は、彼と同様に、いかに描く対象を変形、歪曲、抽象化しようとも、決っして内容の層を作品から駆逐しなかった、フランシス・ベーコンの抽象主義絵画における残滓ともいうべき、〈深きのイリュージョン〉に対する反対表明といえるであろう。彼はカーテンというモティーフが、〈平面〉であるが故に面しろいと気づき、次のように語っている。

 

 絵画における平面性についてのあらゆる哲学的な事柄は、よくよく考えると、リアリティーについてのことだ。錯覚をひとたび切り捨てれば、絵画は完全に “リアル” となる。カーテンという概念でみれば、同じなのだ。

 

 われわれは今やホックニーの作品が示す絵画的な面しろさの本質に触れる地点にたどり着いたようである。

 

 70年代以後、ホックニーは、形態的に均衡のとれた古典的構成を誇る画面を創り上げることになるが、そこにはピエロ・デルラ・フランチェスカやダヴィッド、あるいはまたフェルメールらの様式を想起させる端正で隙のない構図が見られる。その後、一転してマチス風の激しい表現主義的作品へと向かっているが、この20世紀における素描の巨匠であるマチスに対する敬愛の念は、初期の時代から彼の作品の底流に存在し続けたものであった。一切の無駄を省いた単純化の天才マチスと同様に、ホックニーは周囲の目に見える自然を楽々と手玉にとり、本質的にリアルな平面に変貌させてしまう。形式と内容、言い換えれば、抽象的形態と具象的イメージとを重ね合わせて、画面全体をポップ的なアクリル絵の具の質感で統一するのである。ここに述べたホックニーの作品とその制作方法は、絵画の二次元性と日常目に映るヴィジョンの世界との二重性を彼の画面において直視したときに、われわれにとって極めて容易に理解することができるはずである。端的にいって、ホックニーは、一枚の画像の中に、形態、色彩、日常的意味、象徴的内容といった様々な層を塗り込めて、昔の巨匠たちが完成させた〈密度〉のある作品を、現代の様式でもって実現させようとしたのである。

 最後に私はもうひとつ、彼の作品と彼の内面の感情とをしっかり繋いでいるホックニーの核とでもいうべき部分に言及しておこうと思う。先にも述べた〈くすぐったい〉ような水と男のイメージ、内面に鬱積している感情を吐き出すことですっきりした時に味わう、あの爽快感、これらホックニーの様式がわれわれに垣間見せる爽やかな印象こそ、このエッセイの最初に引用したホックニーの言葉、すなわち「刷毛を塗料にひたして次々に塗ってゆくあの壮快さ」という彼の感情を何にもまして直截に説明してくれるはずである。

 

 

(なかたに・のぶお 学芸員)

タイガー(1960年)

 

シーリア(1973年)

 

6つのグリム童話(1969年)

 

ロサンゼルスの屋内の光景(1963年)

 

セーヌ街(1971年)

 
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