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美術館 > 刊行物 > HILL WIND > ひる・うぃんど(vol.1-10) > アカデミスム再考 『日本近代洋画の巨匠とフランス展』研究ノート

いんてるめっつお
 

アカデミスム再考 『日本近代洋画の巨匠とフランス展』研究ノート

荒屋鋪 透

 

…I looked on astounded as from his ordinary life he made his art.

We were both ordinary men, he and I.

 

Yet he from the ordinary created legends

 

- and I from legends created only the ordinary.

 

Peter SCHÄFFER, AMADEUS,

 

Act Ⅲ, Scene ix.

 

 

 昨年当館で開催された『日本近代洋画の巨匠とフランス展』(1983年10月29日-11月23日)のフランス側の作品選定並びに構成を担当され、カタログに19世紀末のフランスのアカデミスム、サロンの様相について、大変興味深い論文を寄せられたJacques THUILLIER氏が、今春アメリカで催されたLe Grand Prix de Rome: Peintures de l'Ecole des Beaux-Arts 1797-1863》(仏題名)(April 1-May27, 1984, Virginia Museum of Fine Arts, Richmond.)展に因んで出版されたLe Grand Prix de Peinture: Les concours des Prix de Rome de Rome de 1797 à 1863の序文を執筆されている。

 

 この本は、フランスのアカデミスムを考える上で、そのキーワードとなる「ローマ大賞」のシステムとその問題点をパリ国立美術学校のConservateur, Philippe Grunchec 氏が整理した労作であり、1970年以降、特にアメリカでなされたフランスのアカデミスム研究に対する本国フランス側のドキュメントの嚆ともなっている。

 

 振り返って『日本近代洋画の巨匠とフランス展』の提示した問題も又、こうした最近のアカデミスム研究のコンテクストの中で論じられようし、70年代以降の研究を今ここで概観するのも意味のないことではなさそうである。

 

* * * * *

 

 美術史学の基礎的な文献の一つであるEncyclopedia of World Art の補遺が昨年、第16巻きとして上梓された。Supplement: Word Art in Our Time と題された本巻には、最新の研究成果が網羅されており、既刊の諸巻に比して挑発的ともとれるその内容は、新たな研究指標を各分野に与えているという意味で、本巻を単なる権威ある辞典の増補版にはしていない。

 

 例えば、19世紀美術史を担当したローザンヌ大学のウィリアム・ハウプトマンは、1970年代以降に欧米で催された展覧会の新しい傾向について語り、なかんずく「レ・ポンピエ」と蔑視されて来た官展系画家達の相次ぐ回顧展を詳細に報告している。

 

 「確かに、19世紀美術に関する諸概念の最も劇的な修正は、フランスのアカデミック・アートの領域で行われている。数十年此の方、アカデミックな作品やパリ国立美術学校の信奉者達は、実際の処、せいぜい芸術的価値のない「黴臭い紛い物 retardataire kitsch 」程度に見積られて来た。今日この形勢は逆転した。アカデミック・アートは美術市場のみならす、専門的研究のほとんどあらゆる方面で「流行 a la mode」となったのである。恐らく、この反転した動向の最良の証言は、従来19世紀美術史学のほんの脚註にとり残されて来た芸術家達を扱った夥しい数の最近の展覧会であろう。」Encyclopedia of World Art, XVI, Supplement, 1983, p.230.)

 

 1974年、スイスのヴィンタートゥールで開かれた『シャルル・グレール:もしくは失われた幻想展Charles Gley ou les Illusions Perdues ,Winterthur,1974.)』カタログに於いて、グレールの出世作《失われた幻想(夜)Les Illusions Perdues ou Le Soir, 1843.)》の図像学的解析を行い、その綿密な暗喩として仕組まれた寓意のイマージュから、画家の精神的苦悩を読み取ったハウプトマンにしてみれば、一部で囁かれる官展系画家作品の市場での急騰―近頃ではRichard W Walker, “Million-Dollar Bouguereau, ;ART News, October, 1983, p.20-22., p.20-22.の報告などがある。―を諦観ばかりは出来なくなったのだろうか。いずれにせよ、ハウプトマンが74年のグレール展カタログで意図したことは、グレールが―人気作家として、当時人口に膾炙した作品を寸暇を惜しんで制作していたブーグロなどとは異なり、―もっぱら、この1843年の一点の成功作に甘んじ優れた多くの弟子達―その中には、モネ、ルノワールら若き日の印象派の画家達もいた。―に囲まれながらも、中央画壇の中にあって寡黙を固守し、その時代、既に沈滞し死に瀕していたアカデミックな様式と図像を借用しながら、腐って崩れる寸前の果実から漂う厭世的な雰囲気を、完璧に吟味した諸技功でものした、その画家の多面性を強調することにあったのだ。

 

 ともあれ、我々は本辞典修撰者バーナード・マイヤーズが序文で述べる様に、19世紀美術史を、ダヴィド―ドラワロワ―クールベ―マネーセザンヌといった、フランスの芸術家によるアクシスで捕え、新古典主義から後期印象派へと敷衍される、様式変遷の直線的パターンを辿るものとしてだけでは最早説明出来ない、複合的要素から成る一つのエポックとして分析する新たなパラダイムを手に入れているといえよう。

 

 そうした範例となった重要な展覧会として、ハウプトマンは1973年パリの『エキボック展Equivoques, Paris, 1973.)』、1974年パリの『1874年のリュクサンブール美術館展Le Musee du Luxembourg en 1874.)』、1978年フィラデルフィア及びパリの『第二帝政展The Second Empire, Philadelphia, Paris, 1978.)』をあげている。

 

 別ても先二つの展覧会が試みた、アカデミシャンやサロン系画家の紹介の労を踏まえて企画された『第二帝政展』は特記されるペきであろう。従来19世紀フランス美術史の中で、この時期(1852-1870)は芸術的には、特定の事件を除いて、然したる収穫物のない、月並な様式の時代と見做されて来た。それというのも、ルイ・ナポレオンの文化政策の根底にあった諸芸術の国家統制にこたえて、美術支配機構が、ルイ=ウィリップの七月王政時などに較べて強くなり、画壇の前面に出ることによって様式や手法にある程度の制約が置かれたからである。ただ、それでも尚したたかな芸術家達は、その枠内で伝統的な価値体系を遵守しながらも、自らの独創性を発揮し、新鮮な感覚を古い体系に融合させる努力を怠らなかったという事を、この展覧会は証明してみせた。展示された絵画、素描、彫刻、写真そして工芸品を含めた広範域のジャンルによる作品群は、確実に前述した悲観的通念を一掃したからである。

 

 「第二帝政期の美術は……異なった視野と概念を持った芸術家が、過去の芸術に、その時代の芸術の機能に関する、独自の見解を融合させたシンタクスを確立しょうとした示唆的な変動期となったのである。(op.cit., p230)

 ハウプトマンが指摘する様に、19世紀の残りの数十年間に美術史上画期的な実験、印象主義、後期印象主義が起ることを考え合わせてみると、第二帝政という時間の帯が、改めて美術史上の見逃せない一つのリンクになっていることが分かる。

 

 

 第一回落選展覧会にエドゥアール・マネが《草上の昼食》を発表した1863年は、まさにこの第二帝政期に近代美術形成の分水嶺となった年だが、美術史家のアルバート・ボイムは今一つ画壇を大きく揺がした事件、パリ国立美術学校の1863年改組に焦点をあて、美術教育の現場への美術支配機構の関与の問題に論及した。(Albert Boime, “The Teaching reforms of 1863 and The Origins of Modernism in France;”Art Quarterly, Fall 1977, pp.1-39.)

 

 ボイム(U.C.L.A.教授)は、先にアカデミーの制作法に関する著作によって、一躍フランスのアカデミック芸術再評価の先鋒となっていたが、(Albert Boime, The Academy and French Painting in the Nineteeth century, London, 1971) その著作の中で彼は、クーチュール、グレールが指導し、後の印象派の画家達が通った私設アトリエに注目し、その工房のカリキュラムを再検討することによって、アカデミックな教授法に於ける「オイル・スケッチ」の重要性を強調した。この事はアカデミックな制作に叛旗を翻した印象派の理論武装が既に修業時代に萌芽していたことを裏付けている。 エドゥアール・マネの師であり、《頽廃期のローマ人》の画家トマ・クーチュールは、1980年のボイムの著作で所謂 juste-milieu 画家の中での位置付けと、教育者、芸術家としての実像が浮彫りにされた。(Albert Boime, Thomas Counture and the Eclective Vision, New Heaven, London, 1980. )ボイムの視点は、忘れられたクーチュールを復権させることではなく、寧ろクーチュールの哲学上の概念と、制度化されたアカデミックな規範の桎梏から離反してゆく一人のサロン画家の姿を時代のコンテクストの中で捕えることにあった。著者自身の言葉を借りるならば「歴史の過程の中で、ひとりの芸術家とその歴史との関わり合いを論証すること」がポイムの主要な関心事であり、Burlington Magazine, April.1981, p.239)それによって、従来19世紀美術史で悉く無視されて来た側面に光をあて、それを新たな方向から眺め、その時代の解釈に今だに執拗に粘着している偏見を除去しようとするのである。こうした、アカデミックな規範をその内部から批判する先駆となったクーチュールの関心は、アメリカに於いては既に、ボイムの著作を待つ10年前、1970年にメリーランド大学が主催した『トマ・クーチュール展Thomas Cauture :Paintings and Drawings in American Collections. University of Marcyland Art Gallery, 1970.)』を端緒としている。この企画によって、クーチュールは技功的にはその多様なオイル・スケッチの画家として、そして主題の上では、現実世界と空想上のものを、主観的なものと普遍的なものを巧みにブレンドする画家として我々の前に姿を現わしていたのである。

 

 ところで、こうした最近のアカデミック・アートへの関心の高まりを是認しながらも、その方法にいくつかの警鐘を促しているのはカール・ゴールドスタインである。(Carl Goldstein, “Towards a Definition of AcademicArt”,Art Bulletin, March, 1975, pp.102-109.)19世紀美術史に於いて、特に今日アカデミック・アートが取り沙汰される理由は、それが17、18世紀美術史とは違った役回りを強いられていたためであり、プログレッシヴな一握りのアヴァンギャルドを執拗に牽制し、世論から抹殺しょうとする悪役としての古いアカデミスム像を洗浄しようとする気負いは、ともすれば先鋭的アカデミシャンを強調する方に気をとられ、伝統的なアカデミー本来の意味、つまリ17世紀以来の西洋古典主義の殿堂としての機能を軽視する結果に陥るのではないか、と云うのがゴールドスタインの危惧である。展覧会という場が飽くまで作品を主体とした美術史考察の手段と見るならば、そこに提示された作品群が垣間見せるアカデミックなパフォーマンスこそアカデミーの実体であろうという向きには、些か水を差された観のあるこうした指摘も西洋文化のバックボーンとして現在も尚アカデミスムが健在であることの証しと見るならば、大いに歓迎すべきものであり、近年上梓されたいくつかの17、18世紀美術に関する著作は、明らかに19世紀美術史学に於けるアカデミスムヘのアプローチを踏襲した体裁を採っている(Philip Conisbee, Painting in Eighteenth-Century France, London, 1981.第一章のThe Artists Worldなど)。一つの研究が時間を限定した枠組に固執せず、絶えずマトリックスなシステムの中を縦横に照応してゆく、こうした学際的な自由を獲得することこそがアカデミーの本来的意義であろうから。

続く

 

 

(あらやしき とおる・学芸員)

シャルル・グレール作 《失われた幻想(夜)》1843年

シャルル・グレール作

《失われた幻想(夜)》1843年

 

 

トマ・クーチュール作 《退廃期のローマ人》1847年

トマ・クーチュール作

《退廃期のローマ人》1847年

 

 

ウイリアム・ブーグロー作 《聖家族》1875年

ウイリアム・ブーグロー作

《聖家族》1875年

 

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