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美術館 > 刊行物 > HILL WIND > ひる・うぃんど(vol.1-10) > 戦後三重の美術 県展黎明の歌

戦後三重の美術 県展黎明の歌

岡田久春

幕あけ

 「わかりました。―只今の話、モウー度確認させていたださます。会合の名称は三重県美術協会設立準備会とする。会場―津市栄町の「三徳」(さんとく)。日時―明けて早々の昭和23年1月20日午後2時から。協会規約草案は小株さん、あなたにお願いする。・・アアそれから松阪放芽社の奥山芳泉さん、上野の松浦莫章さん、四日市の片山義郎さん、志摩の岩中徳次郎さんへは私から事前に了解をとっておきます。

 

 それから県教委の小関藤一郎さん(社会教育課長―当時―)にも明日早速会ってきます。では何分ともよろしく・・・」。

 

 電話の主は中部日本新聞社(現在・中日新聞社)の坪井敦美。相手は洋画家で異色村長の(南牟婁郡神川村々長、のち昭和29年市政が布かれ熊野市長になった)小林清栄であった。

 

 当時、半年ばかりの間、県下の支局、通信局をフルにつかって調査収集した県内在住美術家名簿に坪井の精悍な眼差しが注がれる。「当面の連絡諸経費、事務局費などはうち(中日)が覚悟しなきゃならんだろう-」支局員の誰にともなくポツリ呟く。「そうだ……この際、三重県美術協会設立だけでなく、三重県展の開催、更には三重県美術会館建設についても構想していくへきだろう-。」 世は敗戦時の飢餓地獄にありながら、精神(こころ)は烈々としてわが郷土に新しい時代の芸術を興さんとする黎明の季節(とき)であった。その幕あけをかってでようとする坪井の瞳には、10年越しに戻ったこの支局の壁面のシミ一つもが懐かしく快かった。あの窓辺の、米兵に群がる女たちの嬌声も今は途絶え、夜の帷に珍らしく雪の華がヒラヒラと舞っていた。

 

「三徳」でのつどい

 「第一條、本曾は三重懸美術協曾と称し事務所を津市榮町1の6中部日本新聞社三重支局内におく。第二條 本曾は三重縣における總合美術文化の高揚を圖るを以って目的とする。第三條 本曾は三重縣在住の美術工藝作家にして各部委員会の承認を得たる者を以って組織し本曾の事業を援助する人を賛助会員とする。第四條 本曾に左の部門を設ける。〔一〕日本画部〔二〕洋画部〔三〕彫塑部〔四〕工藝部。-(中略)一第九條 本曾は左の事業を行う。總合美術展(年一回以上)各部展および小品展(随時)研究会、講習会、講演会の開催、曾報、名簿などの発行その他。-(中略)一第十四條 本曾曾則は昭和23年1月20日を以て成立する。(拍手々々)

 

 焼野が原と化した津の市街のなかで奇しくも焼け残った料理旅館『三徳』が初会合の場所であった。県下各地から集った美術家約30名、先程からの喧喧諤諤の議論も漸く一段落ついて、「御賛成の方、今一度拍手をお願いいたします-」小林清栄の凛とした一声。

 

 「よしやろう、やろうじゃないか!」立場、経歴、主義、主張を超えひとりひとりの戦後に新しい燈がともる瞬間であった。 浜辺万吉(洋画)山本道乗(洋画)小林彦三郎(日本画)板倉白竜(彫刻)三谷素高(彫刻)日根野作三(陶芸)岸園山(陶芸)ら三重生え抜きの作家のほか、中出三也(洋画)久米福衡(洋画)西田半峰(銅版画)片山義郎(彫塑)古市席佐緒(日本画)ら、いわゆる疎開作家の貌が混ることによってこの揚の雰囲気はより熱気のあるものとなった。爾来30数回の『三重県美術展覧会』につながる始発の牽引車としての「三重県美術協会」の出発であった。

 

第一回展

津市・県議会議事堂 (昭和23年)4月15日~4月19日
松阪市・松阪市役所 4月21日~4月25日
上野市・阿山高等女学校 4月29日~5月3日
四日市・富田小学校 5月6日~5月9日

 『第一回三重県美術展覧会』(主催)三重県美術協会・三重県(後援)中部日本新聞社。四会場いずれにおいても作家自らが各々釘、金槌、弁当持参、軍靴や地下足袋の装束(いでたち)にて、木端(こわ)打ちつけ急ごしらえの壁面づくり、張りめぐらすドンゴロスすらなく祭礼用の紅白幕を使用したとは今もっての語り草である。

 

 昭和22年早春偶々、南牟婁郡神川村々長の小林清栄が県庁からの帰路、松阪駅頭に飾られた何枚かの“絵”に眼を止め、これがきっかけで新長室に憩い、駅長深田新吉より当時三重県下で唯一の美術団体活動をはじめていた『放芽社』(同人は古市麻佐緒、奥山芳泉、飯田貞重、草深香畦、橋本綵可ら日本画家)のことなどを聞いたのである。心に深く期するものがあった小林は、直ちに、かねてより知己の間柄であった久米福衛、黒部武雄、長曾根八郎、中出三也らに檄を飛ばし、新日本工業社長後藤脩(先代)の肝入りで松阪「和田金」に会した。その結果、『放芽社』の日本画家五人、それに小林を含めた前期五人の洋画家と併せて十画家で『丹松曾』を組織したのであった。この辺の事情についてはいずれ機会を見て稿を改めたいが、小林はさらに気鋭の中部日本新聞三重支局長坪井淳美と出遇うことによって志摩の岩中徳次郎、上野の浜辺万吉、萩森久朗、桑名の佐藤昌胤、石垣彰夫、津の林義明、内山市郎、亀山の足代義郎、四日市の片山義郎、岡田喜男、一志の西田武雄(半峰)、度合の坂口晴風、伊勢の板倉白竜らと接触するなどその環を県下一円に広げ『三徳』の会合へと発展していったのである。 

 
満天下、花萬朶――

 

美術の花も開くことです

 

切に皆様の御健斗を――

 この年、昭和23年4月に創刊された協会機関紙『三重美術』編集後記の一節である。編集兼発行人は島田勝己。ちなみにこの藁半紙使用の粗末な『三重美術』は定価金三十五圓、(本号に限り)特別一圓、二十餞とある。

 

(おかだ ひさはる)

「三重美術」創刊号

「三重美術」創刊号

昭和23年(1948年)4月1日発行

 

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