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美術館 > 刊行物 > その他 > その他(報告書など) > 1. 前置き 20世紀後半のスペイン美術とバレンシアの作家たちをめぐる覚書 石崎勝基


I. 前置き

スペインの美術と聞いて美術に関心のある人が思いうかべるのは、たとえば16世紀のエル・グレコであり、17世紀のベラスケス、18世紀末のゴヤ、そして19世紀末から20世紀初頭でガウディ、ピカソ、ミロ、ダリといった名前だろうか。詳しい人ならば、17世紀の芸術家としてさらに、スルバラン、ムリーリョ、リベーラなど、20世紀前半からグリスやゴンサレス、戦後の画家としてタピエスやクラベーの名をつけくわえるかもしれない。これらの作家の多くはヨーロッパの美術史上重要な作家と見なされており、しかもその作品は、しばしばきわめて強く烈しい印象を与える。エル・グレコやゴヤの表現主義的な作風、ベラスケスのレアリスムおよび光と空気の描写などを例にあげるだけで充分だろう。

色彩の華やかさよりは、黒と白、光と闇の強い対比を選ぶことが少なくない、こうしたスペインの美術の特性を、イスラムの統治と国土回復運動、反宗教改革、広大な植民地を抱えた帝国とその失墜、内戦とフランコの独裁など、これも複雑な経緯をたどってきたスペインの歴史と結びつけて説明することも、しばしば行なわれてきた。

ところが、美術に話をもどすなら、上にならべたような名前が浮かんだとして、しかしそれは必ずしも、何らかの連続した流れとしてとらえられるよりは、それらの作風が強い印象を残すだけにかえって、そのつど間歇泉のごとく突然飛びだしたかのような感を与えはしないだろうか。もとよりこれは、単なる情報不足あるいはかたよりによるところも少なくない。たとえば、イタリア・ルネサンスの美術はある程度親しまれているとして、19世紀のイタリア美術といわれて一人でも画家の名前をあげることのできる人がどれだけいるだろう。レンブラントやフェルメールを知っていても、18世紀のオランダ美術のイメージを作れる人は、美術史家でもほとんどいまい。これが東ヨーロッパ、さらにアジア、アフリカと範囲をひろげればひろげるほど、一般に美術史の主流としてなじまれているものが、いかに大きな欠落を抱えているか気づかされることになる。もちろんここには、質的評価、文化的植民地主義、ジャンルのヒエラルキア、フェミニスムの問題をはじめ、さまざまな因子がからまりあっており、単純に割りきるすべはない。


だとしても、『100の絵画』展のカタログを準備する段階でいやおうなく気づかされたのは、スペイン人たちが自分たちの美術を前にした時、そのアイデンティティー、すなわち、スペインとは何か、スペインの美術に固有の要素は何かということをきわめて強く意識し、問題と見なしていることだった。しかもそうした意識はとりわけ近代において、16ー17世紀のいわゆる黄金時代以降の国力の衰退がかつての繁栄を知るからこそいっそう、複雑な感慨につきまとわれてきたようだ。それゆえフランシスコ・カルボ・セルラリェールは、「スペイン美術の歴史的意識」を扱ったエッセイを、「『スペインに負う何があろう?』啓蒙主義者ニコラ・マッソン・ド・モルヴィリエ神父の問いは、ただ一つの回答を暗黙の内に予想していた。すなわち、何もないというのだ」という文から書きおこしたのであろう(1)。そしてセルラリェールはスペインの現代美術を貫く特性の一つを、<エクセントリックさ>に見ようとする(2)。複雑な歴史意識をもたざるをえないがゆえに、それが表現として形をとる時、極端な性格を帯びてしまうというのだ。もとよりこうした議論をあまり一枚岩的に受けとめてしまうのは危険だろうが、外部からの視線ではなくスペイン内部から提出されること自体をもって、彼らの意識の複雑さのあかしと見なせなくはあるまい。

1. Francisco Calvo Serraller,‘Del futuro al pasado: La conciencia histórica del arte español’, Del futuro al pasado. Vanguardia y tradicion en el arte español contemporáneo, Madrid, 1988, p.17.

2. id., p.27-29, etc.

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