このページではjavascriptを使用しています。JavaScriptが無効なため一部の機能が動作しません。
動作させるためにはJavaScriptを有効にしてください。またはブラウザの機能をご利用ください。

サイト内検索

美術館 > 刊行物 > 研究論集 > 第2号(1987年3月発行) > 七世紀後半における初唐様式の伝播・普及とセン仏制作 毛利伊知郎 研究論集2

no.2(1987.3)
[論考]・・・

七世紀後半における初唐様式の伝播・普及とセン仏制作

毛利伊知郎

はじめに

我国七世紀後半の天武朝・持統朝を中心とした時期は、朝廷を中心に造寺造仏が以前に増して盛んに行われるようになり、畿内にとどまらず、各地方にも寺院が次々に造営されるようになった、仏教史上重要な時代ということができる。

また、この時期には、彫刻史の上では、初唐の新しい様式が我国に及んできて、その新様式にならった優れた作品も多く残っている。しかし、薬師寺金堂本尊の造立年代をめぐる論争からも窺えるように、この七世紀後半から八世紀初頭にかけての彫刻史の編年は研究者によって異説が多く、日本古代彫刻史研究のネックにもなっている。

 

「セン」は「土」ヘンに「專」

ところで、粘土を陰刻の原型に押し当てて型取りし、素焼きを施されて造られるセン仏は、我が国七世紀後半から八世紀前半にかけての、遊仏表現の一つとして古くから注目されている。我国の摶仏は、これまでの報告によると、東は宮城県の陸奥国分寺跡から、西は大分県の虚空蔵廃奇跡に至るまで、全国各地の寺院址から発見されており、遺品の数も多い。▼1

 

しかも、それらの多くが、程度の差はあっても、写実的な造形表現を特徴とする初唐様式を示していることも周知の事柄であり、初唐様式の地方への伝播・普及という点において、セン仏が果たした役割は大きいと考えられる。また、セン仏は、技法的にも近い関係にある、塑像と同じ遺跡から出土することもあり、その場合、出土した遺跡によっては、ある程度年代を推定することが可能で、両者は七世紀後半の彫刻史研究において等閑視できない存在である。

 

そこで、本稿では、そうした各地から出土したセン仏のうち、筆者の目に触れた夏見廃寺と天華寺廃寺の資料を中心に、塑像の遺品にも触れながら、七世紀後半における、初唐様式の我が国での伝播・普及の一側面とセン仏の果たした役割について考察を試みたい。

▼1 セン仏に関する主要文献、及び全国のセン仏出土地については、『研究発表と座談会 川原寺裏山遺跡出土品について 仏教美術研究上野記念財団助成研究会報告書第四冊』(昭和五十二年)所収、難波田徹「セン仏について」に詳しい。また、我国出土のセン仏全般については、久野健『押出仏とセン仏 日本の美術一一八』 (昭和五十一年 至文堂)も参照した。

一、
 

最近新たに知られるようになったセン仏資料として、まず注目されるのは、三重県名張市の夏見廃寺出土のセン仏であろう。
 夏見廃寺は、戦後間もない昭和二十一年に、京都大学による発掘がおこなわれて、塔心礎や金堂跡の確認が行われ、多くのセン仏や古瓦類が発見されたことで注目を集めるようになった。▼2

 

この調査の後、文献面から夏見廃寺についての研究も行われるようになり、昭和二十六年、毛利久氏は、『前田家本諸寺縁起集』所収の「薬師寺縁起」に大来皇女が、天武天皇のために神亀二年(七二五)に建立したと記される「昌福寺」が、この夏見廃寺にあたるとの説を唱えた。▼3

 

これに対し、藪田嘉一郎氏は、昭和二十八年に、異議を唱え、この昌福寺は、神亀二年(七二五)以降に造営が始まった寺で、夏見廃寺から出土する白鳳期の瓦やセン仏は、昌福寺の前身寺院のものであろうと主張した。▼4その後も夏見廃寺の建立年代については、朱鳥元年(六八六)から大宝元年(七〇一)の間とする久野健氏の説▼5なども提出され、現在に至っても決着をみていない。

 

こうした文献面での夏見廃寺の探求には、史料の乏しさやその信頼度の低さによる限界があり、当寺の造営年代等の検討は、出土遺構・遺品の精細な検証によるほうが、より具体性が大きいのではないかと考えられる。

 

ところで、京都大学による調査は、正式の報告書が発行されず、その後、遺跡は放置されてきたが、昭和五十九年度から名張市教育委員会による発掘調査が三年度にわたって行われ、新たにセン仏をはじめとする大量の遺物がみつかり、金堂および塔の平面も確認されるに至った。▼6

 

セン仏は、いずれも断片であるが、合計四〇〇点程の断片が発見され、しかも出土場所が、いずれも金堂に近い地点に限定されていることから、塔には噂仏は用いられず、すべて金堂で使用されたものと考えられている。

 

これらのセン仏は、大形セン仏、方形三尊セン仏、独尊セン仏、連座セン仏の四種に大別することができるが、そのうち最も注目されるのは、大形セン仏である。

 

この大形セン仏と一般に呼ばれるものは(図1)、多くの断片に割れているために、全体の図像や大きさは明らかでないが、法隆寺綱封蔵伝来のセン製阿弥陀五尊像面(図2)に近い姿のもので、多くの眷属脇侍を従えた阿弥陀三尊像を中心とする多尊形式の像であったと思われる。また、これと近い図像を示していたと考えられるセン仏の断片は、当麻寺講堂跡や藤原宮跡からも出土している。

 

しかし、夏見廃寺からの出土品中には、法隆寺像には見られない、忿怒形の神王像や迦楼羅を連想させる像、奏楽飛天が配された須弥壇、獅子の頭部などが含まれている。当初の図像形式は明らかにし難いが、これら様々な断片の存在から見て、複雑な多尊形式の阿弥陀説法図を構成していた可能性が強い。

 

こうした大形の多尊形式のセン仏は、上記の法隆寺網封蔵伝来像以外には、他に現存作例がなく、全体像を総合的に検討することは困難であるが、多尊形式による尊像構成や造形表現には、法隆寺金堂壁画にも共通する点も認められ、初唐様式の影響を色濃く受けた大規模なセン仏ということはできるだろう。

 

また、その用途については、法隆寺網封蔵伝来像に見られるように、厨子におさめられて、礼拝されたとも考えられるが、夏見廃寺の場合、他の形式のセン仏も多く発見されている状況を考慮すると、あるいはセン仏で荘厳された壁面の中心にはめ込まれていた可能性も考えられるのではないだろうか。

 

この大形セン仏に関して問題となるのが、現在、京都の藤井有隣館と奈良の唐招提寺に所蔵され、一般に、夏見廃寺出土と呼ばれている二点のセン仏(図3・4)である。藤井有隣館の像は、顎髭を生やし、右手に宝剣を持ち、左手を腰に当て、身体をやや反り気味にして立つ、鎧をまとった天部像で、下部には、夏見廃寺出土中に見られるのと同様の、奏楽飛天の配された須弥壇が表されている。一方の、唐招提寺伝来の像は、右肩と頭部が欠けているが、大衣を通肩に着し、胸前で説法印を結び、左足を外して蓮華座上に結跏跌坐する如来坐像である。この像にも、下部に香炉を礼拝する供養者や奏楽飛天の表された須弥壇を見ることができる。

 

これら二像は、図像の他、写実的な造形表現の特徴、下部に設けられた須弥壇部の意匠などの類似を根拠に、夏見廃寺出土の品と考える説が有力であったが、最近発掘された遺品と比較すると、これらを夏見廃寺出土のものと断定するためには、さらに検討を要すると思われる。

 

その理由としては、唐招提寺・藤井有隣館像では、下部の須弥壇部も、像本体と同一のものとして造られているが、最近発掘された須弥壇は、この部分が上部の本体とは切り離して、別個のものとして造られたことを示しており、こうした構造上の相異が先ずあげられる。また、図様の鮮明度においても、唐招提寺・藤井有隣館像の須弥壇部の表現は、夏見廃寺出土品に比べてやや鮮明さに欠け、同時の作とは考えにくい点があげられる。▼7こうした点から、従来、夏見廃出土と見る説が有力であった唐招提寺・藤井有隣館所蔵のセン仏は、夏見廃寺の像と同じ原型から造られた像であるにしても、夏見廃寺に安置されていた像と断定することには、問題があると考えられる。

 

また、この大形セン仏に関して注目されるのは、その一部に付属していたと推測される干支の陽刻された断片が、出土していることである(図5)。これは、いわゆる造像銘記の一部に当たるのかどうかも明らかでない小片であるが、現状では、表面に縦横約七㍉幅の罫線を引き、各区画に一文字づづ記されている。文字は、鮮明さに欠け、判読に困難を伴うが、現在のところ「甲午年口口中」と読む説がある。▼8もし、これが「甲午」であるならば、出土品のスタイルから見て、これを持続八年(六九四)に置くのが最も適切で、従来、異説の多かった夏見廃寺の創建年代に一つの目安とすることができる。しかし、二番目の文字は、「申」とも読めるようであり、更に他の読み方を想定することも不可能ではないと思われ、この銘文の判読にはなお検討を要すると思われる。

 

夏見廃寺出土のセン仏には、いわゆる方形三尊セン仏も数多く含まれている(図6)。これも、断片ばかりの出土であるが、定印を結んだ如来倚像と、合掌して直立する脇侍菩薩立像からなる三尊を中心に、天蓋や飛天・菩提樹などを周に配した、華やかな構成を示している。この種の方形三尊セン仏は、川原寺や壺坂寺(南法華寺)などでも発見されているが、夏見廃寺のものは、天蓋や光背などの意匠が、より複雑化し、華麗な表現になっている点が特徴的である。

 

この方形三尊セン仏は、金堂の壁面にはめ込まれて、堂内を壮厳していたものと推測されているが、定印を結んだ如来坐像を表した、小形の独尊セン仏(図7)も、方形三尊セン仏を取り囲むような形で、壁面にはめ込まれていたものと思われる。夏見廃寺の独尊セン仏には、大きさや表現を異にする三種類があり、また、上下二段に独尊如来坐像を配した連座セン仏も発見されている。

 

このように、夏見廃寺出土のセン仏は、バラエティーに富み、セン仏が古代寺院でどのように使われていたかを考える上で、貴重な資料を提供している。最近、同寺からは、丈六仏級の大形の仏像に使用されていたと思われる、塑造の螺髪や、衣文の一部が発見され、セン仏と塑像という似通った材料を使用する仏像が安置されていた点は、古代の地方寺院に於ける造仏技法の種類を考える上で一つの示唆を与えてくれる。

▼2 この時の出土作品は、現在も京都大学文学部に保管されている。

▼3 毛利久「薬師事縁起の一記文と夏見廃寺」『史跡と美術』二一五 昭和二十六年及び「夏身寺の異説について」『史跡と美術』二三八 昭和二十八年。『前田家本諸寺縁起集』所収『薬師寺縁起』には、次の通り記されている。

「大来皇女。最初斎宮。以神亀二年。奉為浄原天皇建立昌福寺字夏身。本在 伊賀国名張群。」

▼4 藪田嘉一郎「夏身寺について」『史跡と美術』二三五 昭和二十八年及び「再び夏身寺について」『史跡と美術』二三九昭和二十九年。

▼5 ▼1記載の久野氏著作。

▼6 名張市教育委員会編『夏見廃寺 第一次発掘調査概要』(昭和六十年)、『同 第二次発掘調査概要』(昭和六十一年)。及び『同 第三次発掘調査概要』(昭和六十二年)。また、出土したセン仏のうち、主要なものは、昭和六十一年十月十二日から十一月十六日まで三重県立美術館で開催した「三重の美術風土を探る─古代・中世の宗教と造型」展に出品した。

▼7 こうした図様の鮮明度の問題については、大脇潔「セン仏と押出仏の同原型資料─夏見廃寺のセン仏を中心として」『MUSEUM』四一八(昭和六十一年一月)を参照。

▼8 ▼5記載の『夏見廃寺 第二次発掘調査概要』がこの「甲牛」説をとっている。

(図1-A)夏見廃寺出土大型セン仏断片
(図1-A)夏見廃寺出土大型セン仏断片


(図1-B)夏見廃寺出土大型セン仏断片
(図1-B)夏見廃寺出土大型セン仏断片
-脇侍頭部


(図1-C)夏見廃寺出土大型セン仏断片
(図1-C)夏見廃寺出土大型セン仏断片
-光背・宝瓶


(図1-D)夏見廃寺出土大型セン仏断片
(図1-D)夏見廃寺出土大型セン仏断片
-仁王形 顔


(図1-E)夏見廃寺出土大型セン仏断片
(図1-E)夏見廃寺出土大型セン仏断片
-仁王形 胸部


(図1-F)夏見廃寺出土大型セン仏断片
(図1-F)夏見廃寺出土大型セン仏断片
-須弥壇


(図2)セン製阿弥陀五尊像(法隆寺網封蔵伝来)
(図2)セン製阿弥陀五尊像(法隆寺網封蔵伝来)


(図3)伝夏見廃寺出土天部像(藤井有隣館蔵)
(図3)伝夏見廃寺出土天部像(藤井有隣館蔵)


(図4)伝夏見廃寺出土如来坐像(唐招提寺蔵)
(図4)伝夏見廃寺出土如来坐像(唐招提寺蔵)


(図5)夏見廃寺大型セン仏断片-紀年銘セン
(図5)夏見廃寺大型セン仏断片-紀年銘セン


(図6-A)夏見廃寺出土方形三尊セン仏
(図6-A)夏見廃寺出土方形三尊セン


(図6-B)夏見廃寺出土方形三尊セン仏
(図6-B)夏見廃寺出土方形三尊セン


(図7-A)夏見廃寺出土独セン仏
(図7-A)夏見廃寺出土独セン


(図7-B)夏見廃寺出土独尊セン仏
(図7-B)夏見廃寺出土独尊セン
二、
 

では、他の寺院址出土の遺品と比較すると、これら夏見廃寺のセン仏には、どのような特徴が認められるであろうか。出土例が多く、また他の寺院にも作例の多い方形三尊セン仏を例にして検討してみることにしよう。

 

いわゆる方形三尊セン仏とは、長方形のセンの中に、主に如来倚像を中尊とし、菩薩立像を両脇侍とする三尊像を中央に配し、その周囲に天蓋や飛天、菩提樹などを表したものである。この種のセン仏は、これまでに機内では、橘寺(図8)、川原寺(図9)、壺坂寺(南法華寺)(図10)などから出土している他、機内では、夏見廃寺の他、福井県の野々村廃寺、鳥取県の斉尾廃寺などからも断片が発見されている。

 

これらの方形三尊セン仏は、いずれも非常に似通った図像構成と造形表現になり、制作時期と祖型とが同じであったと考えられるが、光背形式や装飾モチーフなどには、幾つかの相異を認めることができる。

 

例えば、中尊の光背の形式を比較すると、橘寺・川原寺・壺坂寺出土例では、円形の頭光と方形の後屏とを組み合わせた、簡素な形式を示すが、夏見廃寺出土例では、円形の頭光と楕円形の身光とを組み合わせた、いわゆる二重円相光である。また、光背の身光部には火エン文、頭光部には、パルメット文と輻状文を配するなど、装飾性豊かな形式を示している。また、天蓋・菩提樹の表現を見ると、夏見廃寺出土例では、繁茂する菩提樹の葉が、他の出土例に比べて、非常に肉付きのよい立体感のある表現を示している点が注目される他、天蓋も周緑部の蕨手状の反転が、他の寺院址出土のものよりも一歩進んだ力強さを示しており、全体の図様の表出にも菩提樹同様、立体感に富んだ造形を見ることができる。

 

一方、尊像の肉付けを見ても、夏見廃寺の像は、川原寺・壺坂寺などからの出土例と比較すると、夏見廃寺出土例は、身体の凹凸を初めとして、衣文の細部に至るまで、丁寧に表現されているなど、各所に写実的な表現が認められる。

 

この夏見廃寺の方形三尊セン仏の図像形式は、これと同じものが、他の寺院址からも数多く出土しているほか、押出仏にも同一形式の遺品が裁つか知られている。このことは、この形式が、当時、非常に広く行われたものであったということを示しており、▼9造形的に見ても、上述したように、この夏見廃寺のものが川原寺や橘寺の出土品より、一歩進んでいることも考慮に入れると、夏見廃寺の方形三尊セン仏は、年代的には、七世紀も最末期頃に下るものと考えたい。

 

夏見廃寺の位置する所は、古代から大和から伊勢に通じる街頭沿いに当たっており、もともと畿内と結び付きの強い地域であり、当寺の造営にも、畿内の造仏機構が深くかかわっていたことが予想される。冒頭にも記したように、当事の創建については、これを天武天皇の妃大来皇女と結び付ける説▼10も提出されている。その真偽は明らかでないが、当寺の大和にも近く、古代の重要な街道沿いに位置する本寺の地理的環境を考えると、その造営には中央文化の影響が強く及んでいるものと考えられるのである。上記の、方形三尊セン仏が示している特徴は、七世紀も終わり頃に、当時の最も新しいスタイルによって、この寺院が建立されたことを間接的に示唆しているのではないかと思われる。

▼9 この点については、▼6記載の大脇潔氏の論文、及び奈良国立博物館『特別陳列押出仏と仏像型』(昭和五十八年)を参照。大脇氏の研究によれば、夏見廃寺の方形三尊セン仏と同じ図様の資料は、セン仏一〇例、押出仏五例、仏像型一例を他に求めることができるという。また、先述した大形セン仏の場合にも、図様の同じ押出仏八例を他に見いだすことができるといい、夏見廃寺のセン仏の図様が、当時、頻繁に使用されていたものであることが知らされているという。


▼10 ▼1記載の久野健氏著作及び▼2記載の毛利久氏論文

(図8)橘寺出土方形三尊セン仏
(図8)橘寺出土方形三尊セン


(図9)川原寺出土方形三尊セン仏
(図9)川原寺出土方形三尊セン


(図10)南法華寺出土方形三尊セン仏
(図10)南法華寺出土方形三尊セン
三、
 

我国古代の仏教寺院で造立された仏像の材質の種類を見ると、畿内の官営寺院では、やはり金銅仏や乾漆像など、経費と手間を要する技法が盛んであったことは周知のことがらであるが、七世紀後半頃になると、畿内においても、塑像やセン仏など、技術的にも簡略で、大量生産に向いた技法の仏像の造立が盛んに行われている。しかも、塑像やセン仏は、須弥壇上に安置されるような本尊級の独尊の仏像よりは、むしろ一つの仏堂内の壁面や空間を充テンして仏国土を現出させるような場に用いられるケースが多かったようである。こうした例を他に求めると、飛鳥の川原寺と山田寺をあげることができよう。

 

近年発掘調査の行われた飛鳥地方の川原寺裏山遺跡からは、大形独尊セン仏及び大量の方形三尊セン仏とともに、塑像片も多く発見された。▼11川原寺は、創建事情や造営過程が殆ど明らかでないが、伽藍配置や出土品からみて、七世紀後半を中心に造営工事が行われたらしい。それらのセン仏がどのような形で安置されていたかは別にしても、ここにセン仏と塑像との組み合わせによる堂内荘厳が行われていたことは、夏見廃寺の場合と比べて、塑像とセン仏とが持った役割を考える上で興味深い。

 

川原寺のセン仏に関して注意されるのは、この遺跡からは、夏見廃寺や後述する山田寺で出土したような、小形の独尊セン仏が発見されていないことである。方形三尊セン仏のみを、ある壁面に貼りつめていたとみる説もあるが、そうした図像形式は他に類例がなく、疑問が残る。この点からだけ見ても、川原寺裏山遺跡出土のセン仏については、尊名や用途について、他の寺院とは異なる問題がありそうである。

 

また、最近、伽藍の遺構が明らかにされた山田寺でも、大量のセン仏が出土している。▼12山田寺は、初願者である蘇我倉山田石川麻呂が造営途中に、えん罪により自害した後、その追善供養のために、朝廷の援助によって、天武二年(六七三)以降、塔や講堂を始めとする伽藍主要部の工事が行われており、半官半民的性格を持った寺院ということができる。当寺では、金堂本尊については不明であるが、講堂本尊には丈六の金銅薬師如来像が安置されていたことが史料から知られ、また金堂や塔には、多量のセン仏が内部の荘厳に使用されていたと考えられている。

 

山田寺のセン仏には、大形の独尊セン仏を初め、小形独尊セン仏、四尊及び十二尊の連坐セン仏などが知られている。それらが、当初どのような構成をもって安置されていたかは明らかてないが七世紀後半におけるセン仏制作の盛行を窺うことのできる資料である。特に、山田寺では、塔跡から多くのセン仏が出土しており、塔(おそらく五重塔)の初層には、中心となる仏像の周囲の壁面に独尊セン仏や連座セン仏が貼り詰められて、しばしば中国の石窟寺院に見られるような千仏表現が表現されていたものと想像される。山田寺では、川原寺や夏見廃寺から出土したような方形三等セン仏は、発見されておらず、独尊セン仏や連坐セン仏あるいは大形セン仏によって構成される荘厳も先の二寺の場合とは、荘厳形式が異なっていたのではないかと考えられる。▼13





 

▼11 この遺跡については、▼1の記載の『川原寺裏山遺跡出土品について』(昭和五十二年)の他、網干善教「飛鳥川原寺裏山遺跡と出土遺物(撮記)」『仏教芸術』九九 昭和四十九年、及び大橋一章「川原寺の造仏と白鳳彫刻の上限について」『仏教芸術』一二八 昭和五十五年を参照。



 

▼12 山田寺については、飛鳥資料館『山田寺』(昭和六十年)が最近の発掘成果も紹介して詳しい。また、山田寺金堂のプランが、規模の相異はあっても、夏見廃寺金堂のそれと同じであることは、両寺院ともにセン仏を出土するということと共に、両者の間に何らかの関係があったことを示唆しているとも想像されるが、憶測の域を出ない。



 

▼13 川原寺裏山遺跡出土の方形三尊セン仏には、裏面に「阿弥陀」、「釈」、「勒」という尊名を箆書きしたものが見いだされるという。こうした尊名の解釈には、様々な問題があるが、当時セン仏が与えられていた図像的意味に関して示唆を与えてくれる。

四、
 

一方、夏見廃寺との比較で興味深い寺院に、天華寺廃寺がある。▼14当時は、伊勢湾に近い、津市と松阪市のほぼ中間に当たる一志郡嬉野町に所在し、戦前、既に地元の郷土史家によって、セン仏が採集されていたが▼15本格的な発掘調査が昭和五十四年に行われて、部分的ながらも、東に塔、西に金堂を配する伽藍配置が確認され、七世紀後半に造営が始まり、八世紀前期に完成し、平安時代初期には廃絶した寺院と考えられるようになった。

 

出土品には、川原寺式や藤原宮式の瓦の他、セン仏や塑像の断片などがあり、夏見廃寺同様、塑像とセン仏とを含む寺院である。

 

当時のセン仏は、殆どが金堂の周囲から発見されているが、そのうち最も有名なものは、菱形セン仏とも呼ばれる、縦長の六角形をした如来坐像を表したセン仏である。(図11)▼16このセン仏は、いずれも断片のみ四四個の出土で、完型品は発見されていないが、復元すると、縦約二四.五㌢、横約一〇㌢、最大肉厚約四、五㌢のかなり大形の独尊セン仏になる。こうした六角形のセン仏は、これまでのところ、他には知られておらず、セン仏の多様な形態を知ることができる珍しい資料といえる。

 

本像は、火エン光背を負い、衣を通肩にまとって、腹前で定印を結んで、蓮華座上に結跏跌坐する姿に表され、この種のセン仏としては珍しく、高浮彫に近い立体的な肉付けが施されている。また、肘横や肩先には、板などに固定するために用いたと思われる穴が穿たれており、その大きさや出土した個体数から見て、元は堂塔内の壁面の一部か、大形の厨子などにはめ込まれていた可能性が強いと思われる。

 

これら菱形セン仏も、当初は千仏表現の図像を形成していたと考えられるが、夏見廃寺や山田寺出土の独尊セン仏に比べると、かなり大形である点、輪郭が縦長である点が特異で、我国古代における千仏表現の在り方を探る上でも、貴重な資料であるが、具体的な当初の状態を復元できないのが残念である。

 

先述したように、この天華寺のセン仏は、非常に立体感に富んでいる点、また周縁が六角形という特殊な形をしている点を考慮すると、我国で発見されているセン仏の中では、かなり進んだ段階にあるものと考えられ、畿内でも発見されていないこうした成熟した造形と形式を示すセン仏が、伊勢湾岸の寺院址から出土していることは、夏見廃寺の場合とは、状況を異にするとはいえ、地方寺院への初唐様式の伝播をみる際に、セン仏や塑像が大きな役割を果たしていた、ひとつの証左になるものと孝えられる。その制作時期も、造形的な特徴から見て、七世紀末から八世紀初頭頃に置けるのではないかと考えられる。

 

天華寺廃寺からは、塑像断片(図12)も出土している。▼17これは、小形の坐像の左膝の一部で、塔の東方から発見されたものである。左足を覆う衣文には、上記の川原寺や滋賀県雪野寺出土の塑像を共通する質感豊かな写実的表現を見ることができ、当初の全体像を明らかにすることはできないが、出土場所から推定すると、元来は塔本塑像の一部であった可能性もある。

 

このように、天華寺廃寺も、夏見廃寺と同様、セン仏と塑像とを出土する地方寺院として注意されるが、比較的制作がたやすいセン仏と塑像が、これらの寺院から共に出土していることは、単なる偶然ではなく、それらは、中央とは異なって、大掛かりな造仏機構が機能しえない、こうした古代の地方寺院での造仏活動の実状を伝えているのてはないかと考えられる。

▼14 天華寺廃寺については、三重県教育委員会編『昭和五十三年度県営圃場整備事業地域埋蔵文化財発掘調査報告書─天華寺廃寺跡』(昭和五十五年)を参照。


▼15 戦前採集されたセン仏は、現在奈良国立博物館に所蔵されている。奈良国立博物館編『奈良国立博物館名品図録』(昭和五十五年 同朋舎出版)を参照。また、昭和六十一年十月十二日から十一月十六日まで三重県立美術館で開催した「三重の美術風土を探る─古代・中世の宗教と造型」展に出品した。


▼16 天華寺廃寺のセン仏には、この他、表面に塗布された漆の痕跡が残る、方形三尊セン仏の断片二個(左脇侍上半身・右脇侍下半身)や、頭上に化仏坐像が表された観世音菩薩の頭部のセン仏一個がある。前者の方形三尊セン仏断片は、夏見廃寺出土のものと同じ図様を示している。


▼17 この塑像片は、飛鳥資料館編『日本と韓国の塑像』(昭和六十年)に紹介されている。左脚部のみの断片で、しかも火中していて、当初の全体像は全く明らかでない。これと同時に螺髪も出土したといい、これと関係づければ如来像の可能性もあるが、推測の域を出ない。

(図11-A)天華寺廃寺出土セン製如来坐像
(図11-A)天華寺廃寺出土セン製如来坐像


(図12)天華寺廃寺出土塑像断片
(図12)天華寺廃寺出土塑像断片


(図11-B)天華寺廃寺出土セン製如来坐像
(図11-B)天華寺廃寺出土セン製如来坐像


(図11-C)天華寺廃寺出土セン製如来坐像
(図11-C)天華寺廃寺出土セン製如来坐像
おわりに
 

以上、夏見廃寺と天華寺廃寺という、畿内周辺に位置する二つの寺院から出土したセン仏と塑像の持つ意味を、飛鳥地方の寺院のセン仏や塑像とも比較しながら七世紀後半における、初唐様式の伝播と地方寺院での造仏活動の在り方という観点から、検討を行った。

 

これら二寺は、地方とはいいながらも、畿内からさほど遠からぬ位置にあり、したがって、そこには中央の仏教文化の影響が比較的強く、しかも時間的にもさほどの遅れをとらずに及んできたものと考えるのが自然であり、そのことは出土した像が畿内出土のセン仏などと比較して、技術的にも造形的にも何ら遜色ないことが物語っている。

 

しかし、一方では、七世紀後半から中央でも流行した新来の初唐様式は、経済的にも技術的にも、比較的制作の容易なセン仏・塑像という二つの技法を通じて七世紀末から八世紀初頭にかけて、急速に伝播していったということができ、それは、これら二寺の出土品だけから見ても明らかであろう。全国各地から出土するセン仏や塑像は、中央の仏教文化の動向を如実に反映している。断片が多く、作業は困難であるが、中央の作品との影響関係や図像的系譜などの問題も、今後更に検討される必要があろう。

 

セン仏は、八世紀に入ると、堂塔内の荘厳方式に大きな変革があったためか、遺品の数も少なくなる。▼18しかし、それとは対照的に塑像には、法隆守五重の塔本塑像(和銅四・七二)を始めとして、多くの優れた作品を見ることができる。七世紀の塑像遺品は、当麻寺金堂本尊(天武九・六八一頃)を除くと、殆どが断片の出土品ばかりで、その全体像を整理するのは困難ではあるが、地方から発見されるそうした塑像片は、八世紀に至って、都の大寺で造立された大形の塑像の先駆的な先品として、美術的にも重要な資料でもある。

 

そうした意味でも、本稿でとりあげた、新来の初唐様式を示すセン仏と塑像とは、八世紀の成熟したスタイルに向けて、我国の仏教美術が質的にも量的にも昂揚しつつあった七世紀後半という時代を特徴しつづける遺品として、その意義は大きいと考えられる。

▼18 八世紀に入ると、次第にセン仏の遺品が少なくなるという事実も、堂塔内荘厳方式の変遷と並んでセン仏の機能を検討する際に忘れることができない事柄である。
 

【付記】・・・

七世紀後半に、橘寺や山田寺などの畿内の寺院、あるいは本稿で取り上げた夏見廃寺や天華寺廃寺のような地方寺院で、堂塔内の荘厳にセン仏が多量に使用されるようになった契機が何であったのかも重要な問題である。

この点について本稿では、十分考察することはてきなかったが、このセン仏盛行の直接的な理由として先ず考えられるのは、唐からのセン仏の伝来による影響であろう。

唐代のセン仏は、我国にも、火頭形三尊セン仏や独尊セン仏などが数点現存している。我国のセン仏も、こうした唐代セン仏と技法面でも様式面でも直接的な影響関係にあるものと考えられるが、他方、我国のセン仏流行の背景としては、遊仏にかかる経済的な側面も忘れることができない.

このセン仏流行の背景にある経済的側面は、セン仏を出土する寺院の多くが、官立寺院よりも、私的な性格の強い寺院や地方寺院であることからも裏付けられよう。
 夏見廃寺址については、校正時に、水口昌也氏により、「夏見廃寺」『仏教芸術』一七四(昭和六十二年九月)が発表され、同遺跡の概要が要領よく紹介された。

ページID:000054614