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美術館 > 刊行物 > 友の会だより > 1989 > 伊賀丸柱を訪ねて 森本孝 友の会だより 22号より、1989・11・21

伊賀丸柱を訪ねて

森本孝

伊賀上野から、山の中の曲がりくねった細い国道422号線を北に走ると丸柱に出る。丸柱は静かなやきものの里である。桃山時代には古伊賀が焼かれたところと推測されている窯場であるが、その面影ははっきりしない。

桃山初期まで粗雑な農器具を生産していたこの周辺において、桃山時代には茶の湯とのかかわりのなかで豪壮な風格を持つ古伊賀が誕生している。端正な形態を拒否した上に、さらに激しい炎の洗礼を受けて生じた歪みやひびわれ、偶然の窯変によってできた焦げ、ビードロ釉、そして強烈な作為を窺わせる篦目などが見所となった古伊賀の花生や水指の風格は、他に類例を見ることができないほど、破格の美を持っている。これは中国や西洋には見られない、日本人独特な美意識によって生まれたものであり、世界に先駆けた純枠抽象芸術でもある。

桃山時代から現代まで、一貫して桃山古伊賀焼きは珍重されてきている。古伊賀には筒井伊賀、藤堂伊賀、遠州伊賀があることが様々な文献には記されているが、そのそれぞれが何処で何時から何時まで焼かれていたのか、伝世しているそれぞれの古伊賀がどれであるのか、依然はっきりせず推測の域を出ない。桃山時代に薪山、丸柱、上野城内の3ヶ所で焼かれていたことくらいしかわからない。

古伊賀と桃山の陶芸展」開催の機会に、伊賀焼の古窯跡を訪ねた。県道674号線が始まる地点でもある国道422号線の所を起点に西に向かうとすぐ右手に堂谷古窯跡がある。現在は丸柱区民運動場となっていた。この窯後から西方約200メートルのところには宝暦年間(1751-64)に伊賀焼を再興した定八の窯跡がある。堂谷カマ跡から分程度進むと定八窯と同時期の弥助の窯跡が左手にある。この辺りから右手には三郷山が見える。ここから松を中心にうっそうと茂る樹々の中を走ると桜峠に出る。京都三条の仏光寺の了源上人が賦に襲われ没したという所で、伊賀と信楽との境界争い、すなわち三郷山の山論の結果、徳川幕府の裁定によって元禄13年(1700年)から信楽との国境となった地点でもある。信楽に入ってもまだ道は上り坂である。5分ほど走って、やっと道は下り坂になった。この頂点が元禄13年以前の国境であった。桜峠が国境であるのは不自然である印象を受けた。元禄の頃、伊賀よりも信楽の方が勢力的に優っていたことを明らかにしている事象であろう。

この辺りから道の周辺は平坦な風景に変わり、南新田を通過して神山から東北に伸びる県道127号線に入る。神山から15分ほど走ると五位ノ木古窯跡群があり、三重県内に入ってオスエノヒラ古窯跡群のある所に来た。五位ノ木古窯跡群も元禄13年以前は伊賀涼であったはずである。五位ノ木古窯跡群とオスエノヒラ古窯跡群のあった周辺では、信楽の業者によって三郷山の陶土を採取する所がある。このすぐ西に、桃山時代に古伊賀を排出した槇山の集落があり、槇山の門出にある西光寺の裏には川喜田半泥子が発掘した槇山古窯跡がある。門出の南、すなわち丸柱の北には良質の陶土が取れた白土山があり、槇山、丸柱そして信楽の神山を結ぶ三角地帯全体がほぼ三郷山である。古窯跡を巡って、オスエノヒラ古窯跡群も五位ノ木古窯跡群も1700年までは伊賀領内であり、神楽焼といわれている室町時代までの作品のなかに伊賀で生まれたものがかなり存在することを想像した。

伊賀焼きについて詳細を明らかにするためには、窯跡の発掘調査を行うことが急務である。窯跡調査を実施しないかぎり、桃山時代の伊賀焼きは正体を明確にはしてくれない。

(もりもとたかし 普及課長)

友の会だより 22号より、1989.11.21

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