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美術館 > 刊行物 > 友の会だより > 1989 > フロベールとドガ 荒屋鋪透 友の会だより 20号より、1989・3・24

ギャラリー・トークから

フロベールとドガ

フランス印象派の画家ドガは、生涯独身をとおし、周囲の人間に対する辛辣な警句と、もの事についての皮肉まじりの寸評によって、人間嫌いであったと言われています。そのため、ドガの私的な生活を知る者は少ないのですが、画家の晩年に、身辺の世話をした姪ジャンヌ・フェブルの回想録は、ドガの人間像とその芸術を考えるうえで貴重な証言となっています。ドガの書斎へも自由に出入りした彼女は、整然と並べられた蔵書を目にします。そこには、コルネイユやラシーヌなど古典の戯曲から、同時代の作家モーパッサンの小説にいたる多くの書物があり、私たちはジャンヌの記憶の糸を手繰りよせながら、文学好きで、また実際にいくつかの巧みなソネ(一四行誌)を残す詩人でもあった、画家の文学遍歴を辿ることが出来るのです。しかし、彼の絵画に比較して多少饒舌であると思われる。舞台の踊り子や競馬場の馬を題材に彩った誌の霊感の源泉や、友人たちへの書簡や警句に散在する、文学的な内容についてあれこれ詮索することは、ドガ芸術の本質を理解するうえで、あまり有益なものではないでしょう。ただジャンヌは以下のような、見逃すことのできない証言を残しているのです。「ドガはフロベールをとても賞賛していました。書斎に並べられたフロベールの小説を、彼は繰り返し読むことを楽しみにしていたのです。そのなかにはフロベールの書簡集もあり、クロワッセにおいて書き綴られたルイーズ・コレ宛の孤独な手紙の一節などはほとんど暗誦していた程です。」

ルイーズ・コレは、フロベールより11歳年上の女流詩人で、彼が愛した女性のひとりです。フロベールは『ボヴァリー夫人』を執筆中、数多くの手紙をその文学的隠遁の地、ルーアン近郊のクロワッセからルイーズに書き送りました。書簡には、彼女に会えない寂しさを訴えたものから、意外なほど悪戯っぽい彼の性格を伺わせる冗談などがちりばめられていますが、フロベールのそうした個人的な苦痛や快楽以上に興味深いのは、『ボヴァリー夫人』の草稿を前にした文学者としての頻闘の言葉です。フロベールは遅筆な作家でした。しかし、『ボヴァリー夫人』を完成させるのに5年の歳月を掛けた時、彼は文学史上まれにみる、人間感情のリアルな表現を獲得していたのです。それは平凡な現実を平凡なまま描くということでした。彼の小説には、英雄的な行為を誇示する主人公も、高尚な修辞法による慇懃な描く写も見い出すことはできません。1852年1月16日付のルイーズ宛書簡には、「美しい主題とか醜い主題というようなものは存在しない、(中略)文体はそれ自体で、ある絶対的なものの見方なんですから。」(『ボヴァリー夫人の手紙』工藤庸子編役・筑摩書房・1986年)ある美術史家は、ドガの肖像画を論じて、もっぱら身内をモデルにした画家ドガにとって、肖像画というジャンルは、もはや個人の社会的立場や性格・心理を表現するものではなく、むしろ人間の動きや周囲の状況といった対象をとりまく雰囲気を表現するための言い訳に過ぎず、誰が描かれているのかということ以上に、人物の色彩の微妙な感触、複雑な構図による大胆な画面構成など、どの様に描かれているのかということが重要であり、すでに肖像画というジャンルは、彼のなかでは崩壊していたのだというのです。ここで、絵画における表現様式(どう描くか)を小説の文体(いかに描くか)に置き換えてみると、フロベールは、すでに印象派を予言していたと言えるのではないでしょうか。そう考えながら、ドガの絵画をもう一度ゆっくり見ていくと、彼のルネサンス絵画の模写、プッサンやアングルなどへの敬意の真意は、実は伝統のなかに培われた技法への配慮であり、私達は、悪戯に伝統を墨守するあまり、伝統の本質を見落として、表向きの尊敬と皮相な模倣によって、剽窃による折衷主義に陥った同時代の多くのサロン画家と、ドガを明確に切り離して考えねばならないのだろうと思います。

(荒屋鋪透)

友の会だより 20号より、1989・3・24

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