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美術館 > 展覧会のご案内 > 企画展 > 2021 > 中澤弘光旧蔵資料にみる杉浦非水 高曽由子 杉浦非水 時代をひらくデザイン 図録 2022

中澤弘光旧蔵資料にみる杉浦非水

高曽由子

 杉浦非水の親友に、中澤弘光という洋画家がいる。師の黒田清輝邸で共に書生となったことをきっかけに親しくなり、悩みを語らい、家を訪ねあう交際は生涯にわたって続けられた。
 
  貴兄と小生とは此物質界に於ては他人である朋友の端であるが精神界に於ける貴兄は慥に小生の為に血を引いたる兄であつて師である。小生は只なつかしく親はしく貴兄を思ひ参らすとは、そこに魔力があるのであらうか?神秘にして自ら覗ひ知る事の出来ぬ処に且つ又小生が貴兄を思ふの情は一層なのである[1]
 
 「愚弟朝武(つとむ)[執筆者註:非水の本名]」から「弘光大兄」へと宛てられたこの手紙の一節は、単なる作家仲間とは異なる、二人の兄弟のような関係を物語る。
三重県立美術館は、平成 26年(2014)に「生誕140周年 中澤弘光展」を開催したことをきっかけに遺族より絵画や資料の多くを寄贈いただいた[2]。ここでは中澤旧蔵資料の調査から、主に若年期の非水と中澤の交友について紹介したい。
 
1 、黒田清輝邸にて
 非水が図案家を志すきっかけが、黒田清輝との出会いであったことはよく知られている。明治 30年(1897)、日本画の研鑽を志して上京した 21 歳の非水は、日本画家川端玉章への紹介状を得る過程で、偶然黒田と知り合う機会を得た[3]
 非水より10 歳年長の黒田は、当時白馬会洋画研究所を設立したばかりの新鋭の洋画家であった。非水は黒田に気に入られ、東京美術学校日本画科に進学した後にはたびたび黒田邸に招かれた。非水は毎週のように黒田を訪問し、卒業のころには師と仰ぐようになる。
 非水に大きな転機をもたらしたのは、明治34年(1901)5月、パリ万国博覧会の視察のため洋行していた黒田の帰国であった。アール・ヌーヴォー全盛のフランスから黒田が持ち帰った書籍や写真資料を目の当たりにし、非水は図案の道に進むことを決める。同年 7月には黒田家の書生となる好機を得て、これらの模写に没頭した。
 非水が黒田家に身を寄せた時、ここで一足先に食客をしていたのが中澤弘光である。中澤は東京に生まれ、曾山幸彦、堀江正章に師事して油彩画を学んだ後、黒田、久米桂一郎の天真道場、東京美術学校西洋画科で黒田の指導を受けていた。白馬会には第 2 回展より参加するなど、黒田に近しい画学生の一人であった中澤は、明治 33年(1900)に黒田が一年のフランス視察に赴く際には、矢崎千代二とともに黒田家の留守番を任され、黒田邸敷地内の馬車小屋を改造した書生部屋に住まう。ここに日々通っていた非水は、退去した矢崎に代わって書生となったのである。
 非水は12 月に母の死去により帰郷したため、書生生活は半年に満たなかったものの、この同居が二人に与えた影響は大きい。この間中澤は非水の肖像画(cat. no. 1-13)を制作し、非水は黒田の指導を受けつつ、初めて白馬会展に装飾図案の出品を果たした。そして、この同居の記念碑的な作品として挙げられるのが、共作《みだれ髪歌がるた》(cat. no. 1-14)である。
 非水は上京前より漢詩に親しみ、中澤はこのころ佐佐木信綱主宰の短歌結社竹柏会に参加するなど、二人には詩歌を好むという共通点があった。明治34年に出版された鳳(与謝野)晶子の歌集『みだれ髪』は、その斬新な歌風で歌壇に衝撃を与えたが、みずみずしく恋愛を歌うこの歌集に二人もたちまち魅了される。二人は暗唱できるほどに愛読し、ついには翌年の正月に『みだれ髪』の歌でかるた遊びをすべく、独自にかるた制作を始めた。歌は100首を選び、台紙は非水が、文字は中澤が担当し、絵札は50 枚ずつ分担した。しかし、非水の帰郷により制作は六分通りで中断し、現在は絵札28 枚と、後に『明星』に掲載された 4 枚の図版が知られるのみである。中澤が「星や菫やハートやエロスなどのローマンチックな画材が多かつた」[4]と回顧するように、絵札には星やキューピッド、裸婦など西洋美術のモチーフが多く採用された。星や菫は晶子が歌うモチーフでもあり、木股知史氏が指摘するように、晶子の歌自体が西洋絵画の発想をとりいれた斬新な作風であったことも[5]、かるたの作風に影響を与えているだろう。
 一方で、二人の絵札は歌の直接的な視覚化に留まってはいない。近年、舟串彩氏は中澤旧蔵資料に含まれる美術雑誌を調査し、中澤が絵札「売りし琴に…」の骸骨モチーフを描くにあたり、イギリスの美術雑誌『STUDIO』の図版(図1)を参照していたことを明らかにした[6]。中澤旧蔵の『STUDIO』は、明治27年(1894)から 29年(1896)にかけての記事を抜粋して合本したもので、入手や合本の時期は不明である。今回調査したところ、他にも中澤作絵札「人の子の…」に描かれる緑のハート型の鱗を持つ蛇は、ジョン・D・バトン「イヴと蛇」の図版中(図2)に共通するものが見つけられた。また、非水作絵札「病みませる…」では、赤毛の裸婦が胸の下を木の幹のようなもので隠すが、『STUDIO』には、J・W・ウォーターハウスがギリシア神話のニンフを描いた絵画の図版(図3)が掲載されており、木の梢に囲まれる裸婦の姿はかるたとの関連を感じさせる。蛇やニンフは歌に登場しないモチーフであるが、二人が上記の図版を参照したとすれば、二人の絵札制作とは、晶子の歌に聖書の物語や西洋の神話を重ね、新たな解釈の可能性を示すものだったといえるだろう。
 他にも、絵札にはミノタウロスを思わせる獣頭の人間のモチーフ、太い縁取り線やうねるような曲線が採用され、ヨーロッパ世紀末美術の気分が大胆にとりいれられた。他方で、非水作の絵札には鼓や王朝人物を描くものや、人物を描かずに鼓や傘などのモチーフのみを配する構図が多いことも注目される。特に後者は近代以前の日本の工芸品にしばしばみられる、歌意や物語を象徴的にあらわす「留守模様」にも通じるもので、日本画学生であった非水の素養を感じさせる。
なお、弦屋光渓氏は、後に中澤が「黒田先生と杉浦君等と一緒に与謝野晶子氏の歌集「乱髪」の中から百首を選んで、その歌留多を作つたこともある」[7]と回顧した文章に注目し、かるた制作に黒田が部分的に参加した可能性を指摘している[8]。非水は黒田邸より帰郷した明治 35年(1902)1月、中澤に「乱髪かるたをメートル[黒田の呼び名]に見せたさうで何とも汗顔の至りだ」[9]と書き送っているため、黒田の参加は本格的ではなかったようだが、 確かに黒田はこの制作を注視していたらしい。
 藤田麻希氏は、非水が図案の道に進んだ背景に、当時図案の振興を説いていた黒田の影響を指摘していた[10]。非水の妻翠子も昭和 30年(1955)に同様のことを述べている。
 
  黒田清輝先生がパリーの大博覧会から帰朝されたのは、一九〇〇年のことで、あちらのデコラチーブの進歩に驚かれ、かつ日本の未開を嘆いて、「杉浦君は適任者だ、ひとつ欧風図案を研究して、更に日本的図案を創作してみたら、どうか」との先生の勧めに、若い非水の感激ひたすらで、この道に孤身驀進したのである。[11]
 
 この時期の黒田が図案振興を目指して非水を導いたとすれば、かるた制作も単なる画学生の手すさびに留まらず、黒田の目の届くもとで行われた制作活動であったと捉えられるだろう。かるたは明治 37年(1904)には晶子も参加する文芸誌『明星』にて紹介され、後には『明星』から販売が企画されるほどに評価を受けた[12]。二人は後に夫妻の歌集の装丁を任されるなど、かるたは二人の躍進を後押しすることとなった。
 
2、大阪、島根時代から三越就職以前
 2歳違いの二人であったが、非水は早くから中澤にあつい信頼を寄せていた。同居当時の中澤を「人格に於ても技能に於ても申分のない先輩」と回顧するように、それは中澤の穏やかな性格、そして作家としての技量に向けられた。このような評価の背景には、中澤が若くして油彩画の研鑽を十分に積んでいたことに加え、挿画や装丁の仕事に優れた才能を見せたことがあっただろう。明治 33 年(1900)頃より新聞挿画の仕事を始めた中澤は、明治37年(1904)頃からは雑誌や書籍の装丁を多く手がけるようになり、出版業界では知られた存在であった。中澤自身は装丁の仕事をあくまで油彩画の余技と捉えていたものの、その仕事は高い評価を得ていたのである。
 明治 35 年(1902)、非水は黒田の紹介で大阪の三和印刷店図案部に就職し、明治37年には島根県第二中学校の教諭として浜田に移った。中澤は自営を始め、両者ともこの時期に結婚するなど、それぞれの生活を歩み始める。物理的距離は離れたが、手紙の往来と交友は続けられた。
 今回中澤旧蔵資料からは若年期の非水の書簡に加え、写真や図案資料(cat. no. 1-16、図 4)が発見された。中澤は大阪に非水を訪ねることもあり[13]、親密な交遊が継続されていたことがうかがいしれる。
 また、非水は島根時代に中澤へ宛てた書簡の中で、中澤装丁の晶子歌集『恋衣』の受領のお礼とともに装丁への賛辞を述べている[14]。加えて非水は、「図按などで貴兄の御手助けにもなりますればどしどし何でもやりますから御申し付けを願ます」と記しており、図案の仕事については、先を行く中澤を頼りとしていた。
 明治 38年(1905)に非水は中央新聞社に職を得て再び上京を果たすが、同社では中澤がこの前後に挿画の仕事を手がけていた。翌年、翠子は中澤に「あんな世才の無い絵の下手な杉浦が安々と東京に居られるのは全くあなたのお蔭ですよ」[15]と書き送っており、中澤が非水の上京を手助けした可能性を感じさせる。同じ手紙で、翠子は以下のように非水の近況を述べる。
 
  君が御留守の為中学世界の挿ゑなど頼まれましたが一体日本画家がかく可きところでもないとのはなしはですから其は可笑しいのですよ早くお帰り遊ばして君がいいようにいつて下さいまし
[非水装丁『夢の華』と中澤装丁『舞姫』について]君があんまり御上手だものですから自分のをくらべて見ると□□腹が立つそうですよ
 
 非水が苦戦する『中学世界』は、この時期に中澤はじめ洋画家の青木繁や藤島武二が挿画を手がけた雑誌である。文中からは洋画家が挿画や装丁に活躍を見せたこの時代に、日本画から図案に転向した非水の懊悩をも読み取れて興味深い。また、『夢の華』(cat. no. 2-3)は『舞姫』(図5)に次ぐ晶子の歌集であるが、判型や見返しに鮮やかな多色版画を採用し、図案の中に書籍名を散らす手法は『舞姫』に共通している。杉浦夫妻の自嘲には先輩中澤への気遣いも含まれるにせよ、この時期の非水は洋画家たちの装丁を意識しつつ、模索を重ねていた。
 
3 、親友のその後
 明治 41年(1908)、非水は三越呉服店に就職し、以降看板デザイナーとしての地位を築いていく。中澤も精力的に油彩画、水彩画制作に取り組むなど、二人はそれぞれの分野でキャリアを積んでいくこととなった。
 一方、公私にわたる交友は晩年まで続けられ、明治43年(1910)に伊豆、箱根へ、昭和12年(1937)に別府へ二人で旅に出るほか、明治45年(1912)には光風会創立に共に携わった。光風会は白馬会出品者のうち中澤、三宅克己ら写生仲間五人に非水と山本森之助を加えた洋画家団体であるが、第1回展ポスター(cat. no. 2-70)には「洋画図按展覧会」の文字があるように、光風会は当初図案発表の場としても準備されていた。非水は創立会員の中で最も出品が少なかったものの、継続的に図案などの出品を行い、宮内省御買上の光栄にも浴している。
 大正2年(1913)、中澤は同時代の装丁について、装丁家としては一番に非水を推しながらも、その近作について「もうチット渋かつたら深みが出て来るでせうに。余り多作をしないで、持重〔ママ〕して貰ひたいと云ふのが我々友人間の定評なのです」[16]と非水の多忙を案じていた。非水は大正期より各種展覧会に活躍の場を広げながら、後には三越の仕事を減らすことになるが、この決断には洋画家の友人らの意見も影響しただろうか。後年翠子は、非水の苦悩を慰めたのは中澤であったと語っている
 
  だが、時には自分も院展のお仲間入りを願つて、新日本画家にもなればよかったと慨嘆したが、中澤弘光兄が「杉浦君の描く絵は新日本画ですよ」といつて慰めて下さつた。[17]
 
 二人が生涯親友であり続けたのは、互いを慰め、励ましあう関係を築いてきたからにほかならない。そしてそれは二人が同じ師のもとでそれぞれに薫陶を受け、互いの仕事の意義を深く理解していたからこそ続いたのだといえるだろう。中澤旧蔵資料は、洋画家たちと共に自らの道を模索した非水のありようを伝えている。

(こうそ ゆうこ・三重県立美術館 学芸員)
 


[1] 『中澤弘光遺品資料調査報告書』2016年、三重県立美術館、270-271頁、12月 21日付 朝武発書簡。内容から1904年か。
[2] 成果は、『中澤弘光遺品資料調査報告書』(2016年)にまとめられた。
[3] 若年期と中澤との交友については下記を参照した。杉浦非水「自伝六十年」『広告界』1935年に連載(『〈写生〉のイマジネーション 杉浦非水の眼と手』展図録、宇都宮美術館、2009年に再録)。
[4] 中澤弘光「杉浦君と私」『短歌至上』二十巻三号、1955年。
[5] 木股知史『画文共鳴―『みだれ髪』から『月に吠える』へ』岩波書店、2008年。
[6] 舟串彩「中澤弘光の装幀と挿絵」『生誕140年中澤弘光展―知られざる画家の軌跡』図録、三重県立美術館、そごう美術館、2014年。中澤旧蔵『STUDIO』合本(三重県立美術館蔵)には以下の頁が含まれる。①vol.4(1894年)より36-134, 170-200, IX-XVI, XVII XXX, XXXI-XXXVI, LI-LVIII頁。②vol.5(1895年)より118-154, XXVII-XXXIV頁。 ③vol.7(1896年)2-196頁。それぞれ表紙、奥付はない。
[7] 中澤弘光「洋画生活三十年」『美之国』九巻二号、1933年。
[8] 弦屋光渓「中澤弘光ブックデザイン展によせて」『日本古書通信』九二七号、2006年。
[9] 前掲註2報告書、271-273頁、1月15日付三棹発書簡。内容から1902年か。「メートル」とはフランス語maître(先生)に由来する。
[10] 藤田麻希「杉浦非水のイメージソース」『バンダライ』十二号、2013年。
[11] 杉浦翠子「日本芸術院授賞式場にて」『短歌至上』二十巻三号、1955年。
[12] 与謝野光「「明星」と洋画家達」『与謝野晶子全集』月報十七第二十巻、1981年。『明星』発行の負担を和らげるためにかるたの販売が企画されたが、実現はしなかったという。
[13] 野々山三枝「夫人・杉浦翠子について」より非水発翠子宛【手紙4】前掲註 3、251頁。
[14] 前掲註1。
[15] 前掲註2報告書、265頁、6月5日付「杉浦のバカ」発書簡。内容から1906年か。
[16] 中澤弘光「時代の匂を要する」『美術新報』十二巻五号、1913年。
[17] 前掲註 11。

 
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