中谷泰といわさきちひろ
原舞子
本展は、画家いわさきちひろの画業を初期から最晩年までの作品と資料をもとに紹介する展覧会である。そしてまた、ちひろが画家として歩み始める以前の、いわば模索期にあたる時期に師事した洋画家の中谷泰との交流を取り上げ、これまであまり知られてこなかった側面に光をあてようとするものである。
なぜ、いま中谷泰といわさきちひろなのか
三重県立美術館では開館当初より、郷土ゆかりの作家の一人として、三重県松阪市出身の画家中谷泰の作品を収集し、また過去2回の個展を開催してきた。一度目は中谷存命中の1988年に開催し[1]、1993年の中谷没後も継続して中谷の作品展示や収集を行い、この画家の顕彰に努めてきた。没後20年にあたる2013年には二度目の中谷泰展を開催したが[2]、この個展の開催準備の際、遺族より作品、資料を多数お預かりし、当館において撮影や整理作業を行う機会を得た。
2018年、いわさきちひろの生誕100年を記念し、東京、京都、福岡を巡回する「いわさきちひろ 絵描きです。」展が開催された[3]。この展覧会の準備中、当館が調査した中谷の資料の中から、中谷が若き日のちひろをモデルに描いたと伝えられる油彩画《婦人像》(cat.no.11)の下絵が展覧会関係者により確認された(cat.no.11-a)。これが縁となり、ちひろ美術館と当館のあいだで、いわさきちひろと中谷泰の交流に焦点を当てた展覧会の話が持ち上がり、開催に向けて準備が進められることとなった。展覧会は当初、2020年度に開催を予定していたが、新型コロナウイルス感染症の蔓延が原因となり、中止を余儀なくされた。それから2年が経過した2022年夏、開催されるのが本展覧会である。
企画者として常に念頭にあったのは、中谷と照らし合わせることで、画家としてのいわさきちひろの活動がよりくっきりと浮かび上がってくるのではないかということである。ちひろの経歴において単なるひとつのエピソードとして片づけられがちな中谷泰という存在であるが、しかし、ちひろに与えた影響はかなり大きいと考えられる。本稿では、この点について2人の作品を交えて論じたい。
《婦人像》の謎
本展の開催を導くきっかけとなった油彩画《婦人像》は、1980年代に中谷のアトリエより発見された。この折に中谷本人から、絵のモデルとなったのがいわさきちひろであると語られたという[4]。こうした経緯から、《婦人像》はちひろ美術館に収蔵されることとなった。
さて、従来、ちひろが中谷のもとに通い絵を学ぶことになったいきさつは、1942年10月に開催された第5回文部省美術展覧会(新文展)をちひろが訪れ、そこで展示されていた中谷の《水浴》(cat.no.13)を見て一目で気に入り、すぐさま中谷のアトリエを訪れて弟子入りしたものと伝えられてきた[5]。
確かにこの年の文展に中谷は《水浴》を出品し、1939年の第3回新文展に続く二度目の特選を受賞している。中谷の特選受賞は郷里でも報道され、1942年10月17日付け『朝日新聞』三重版の記事では、中谷の顔写真入りで大きく取り上げられている[6]。取材に応えて中谷は、「今迄の作品は好みとはいひながら殆んど全部が暗い畫面だつたので今回はぐつと趣向をかへて明るい構成に努力して見ました、幸ひ特選となつたが、今後はこの畫法でみつちり修業して見ます」と語る。色彩の面で従来の作品から大きな転換を図った意欲的な作と見ることができるだろう。また、別の記事では、「その上表面的な寫実でなく空想を交へて特殊な気分をつくり出してゐる。横一列に影繪のやうな裸の子供を列べ、前にたゞ一つ紅いモミヂアフヒの花をおいたところなど、古典の婦人像がもつ一輪の花のやうに神秘な感じさへする。これもなか〳〵の技法屋で細部にわたつて慎重な計畫を立てゝゐる」[7]と評されており、モチーフや構図の工夫を評価されている。水浴図は西洋美術において、神話の女神やニンフを風景の中に描くものとして長い伝統を持ち、19世紀後半には印象派の画家ルノワールなどによっても描かれ続けた画題である。水浴図のバリエーションとして、バジールやセザンヌなどは男性の水浴図も展開させていることが知られている。中谷の《水浴》も裸体の少年群像が描かれている点においては、セザンヌの男性水浴図などから着想を得たものと捉えることができるだろう。
さて、今一度確認しておくが、この《水浴》が展示された第5回新文展は1942年10月16日から11月20日まで、上野の東京府美術館で開催された。一方、ちひろをモデルに描いたとされる《婦人像》は、第5回文展が開催されるおよそ半年前の、1942年4月9日から4月22日まで東京府美術館を会場に開催された第20回春陽会展に出品された作品であることが、当時刊行された春陽会画集に掲載された図版からも確認できる[8]。ちひろが第5回新文展で中谷の作品に魅せられ、中谷に弟子入りを希望したという従来の説を尊重するならば、新文展に先立ち、ちひろが中谷の絵のモデルを務める機会を得ており、そののちに絵の手ほどきを受けるようになったと考えることもできなくはない。しかし、ここはちひろが1942年春よりも前に中谷のもとに通い絵の勉強を始めており、その中で中谷の絵のモデルを務めることもあったと考えるほうがより自然であろう。つまり、ちひろが中谷のもとで絵を学ぶきっかけとなった作品は、これまで語られてきた《水浴》ではなく、それ以前にあったのではないかと筆者は推測する。
では、どの作品が出会いのきっかけを生んだのか
ここであらためて、中谷の画業を振り返ってみたい。
中谷泰は1909年、現在の三重県松阪市に生まれた。松阪商業学校に在学中、油彩画に触れて制作を始めるようになり、1929年には画家を志して上京し、川端画学校でデッサンを学んだ。1930年に第8回春陽会展に《街かど》が初入選すると、翌年には春陽会の洋画研究所に入り絵を学ぶようになる。初入選作の《街かど》は郷里松阪を描いた風景画であるが、以降の春陽会展に出品した作品でも風景を題材とした作品に意欲的に取り組んでいる。この時期の中谷は、春陽会洋画研究所のあった内幸町周辺のビルの屋上や、屋上から眺めた周囲の建物を主たるモチーフとして集中的に制作、発表を続けている。同じモチーフを構図を変えながら繰り返し描く中谷のスタイルは後年まで続き、中谷独自のものとして確立していくが、その萌芽がすでに初期から現れていたということができるだろう。
1930年代前半の作品を見ると、中谷が西洋絵画からモチーフや構図をよく学び取っていたさまが浮かび上がってくる。《レダ》、《楽園追放》、《ヴィーナスの誕生》など、ギリシア神話や聖書から題材を得たと思われる作品タイトルが散見されるようになり、また、人物像を空間の中に配置する作品が主として描かれるようになる。なお、技法的な点からは、この時期は絵具を厚く塗り重ね、凹凸を強調した絵肌が特徴的である。
春陽会展に毎年継続して出品を続け、会の若手作家として努力を続けた中谷は、1938年の第2回新文展に《少女と猫》(cat.no.8)を出品して初入選を果たしている。膝をつく二人の人物を中心に描いたもので、向かって左の人物はつばの広い帽子を被り、右手に黒猫を抱え、左手を隣の人物の肩に添えている。青いスカーフを頭に巻いた右の人物は片膝を立てて座り、地面からまっすぐに伸びる一輪の花の根元をしっかりと右手で掴むような仕草を見せている。二人の人物の背後には傘をさした人物の姿が認められ、また人物の身体には深い陰影がつけられていることからも、日差しの強い屋外に人物を配した構図のように思われる。
その翌年の第3回新文展では、中谷は《秋日》を出品して初めての特選受賞に輝いた。裸の子供を抱く人物を中心とした一群が前景に描かれ、後景には港の風景であろうか、船や遠くまでのびる岬が描かれている。《秋日》は「造型的な追求のある作品だ。もっと色面が整理されたらいゝ繪になるんじゃないか。かういふ繪を取りあげたといふ事は、文展としては進歩的だ」[9]などと評され、当時の展覧会評では高い評価を得ており、中谷が実力を持つ春陽会の中堅作家として認められていくきっかけとなった作品と受け取ることができるだろう。1939年10月20日に発行された美術雑誌『みづゑ』11月号には、モノクロであるが《秋日》が口絵に掲載されている[10]。
この号の展覧会紹介記事には、中谷が同じ春陽会に属する高木勇次と行った二人展や、春陽会の若手作家たちと開催したグループ展の九夏会展(銀座・青樹社)、第2回互陽会展(銀座・資生堂)に関する記事も確認できる[11]。また、この年の9月23日には洋画家の岡田三郎助が亡くなり、同号には西田武雄と伊原宇三郎による岡田の追悼記事も掲載されている[12]。岡田三郎助は、女学校時代のいわさきちひろが1933年からおよそ3年間師事した画家である。さらには、ちひろが好んだマリー・ローランサンの作品が口絵に10ページに渡り掲載されている[13]。ちひろは1939年春に婿養子を迎え結婚し、6月には夫の勤務地である旧満州の大連に移り住んでいるが、結婚後も何度か東京に戻ってきており、正確な時期は不明であるものの、この年の秋にも一時帰国している[14]。かつて岡田三郎助のもとで絵を学び、女子美術専門学校への入学を志望したこともあるちひろであるので、『みづゑ』を購読し、この号を目にしていたことも考えられるだろう。また、一時帰国中に東京府美術館で開催されていた第3回新文展[15]を訪れた可能性もあるのではないだろうか。資料や証言が確認できず、推測の域を出ないものの、『みづゑ』第419号が刊行され、かつ第3回新文展が開催される1939年秋にちひろが中谷の作品を見知ったのではないかというのが筆者の見立てである。
ちひろが絵画制作にもとめたもの
さて、この時期までの中谷は弟とともに下北沢に住んでいたが、1940年から41年にかけて、父親が郷里の住まいを整理して上京し、材木商を営む親戚の支援もあって、世田谷に自宅を建てることとなった。この世田谷の自宅兼アトリエで中谷は、少人数の大人を相手にした絵の教室を開いていたという。ここにちひろも通うようになり、週に一度か二度、時にはずっと来ないこともあったと中谷が回想している[16]。
ちひろは大連にいる間、あれほどまでに好きだった絵を描くことが一切なかったという[17]。ちひろは最初の結婚相手と死別した直後の1941年3月に帰国し、書家の小田周洋のもとで再び書を学んだというが、同じ頃、いったん離れた絵の世界にも戻ったといえる。
しかし、かつて絵を学んだ大家・岡田三郎助はすでにこの世を去り、絵を学ぶにしても誰のもとで学ぶかは、ちひろにとって大きな選択であったに違いない。おそらくこの時点で、ちひろにとって絵を再開させることは、画家としての道を究めるためではなく、再び自分らしく生きるためのものだったと思われる。いわば、絵を描きたいという気持ちが再び高まった時期であったのである。そうであるからこそ、アカデミックな場所ではなく、絵を描く楽しみを思い出させてくれるような場で描きたいと考えたのではないだろうか。当時の中谷は、春陽会や文展で活躍する中堅作家となりつつあった。画風は具象をベースとし、西洋絵画からよく学び、構図や色彩に工夫を凝らしながら描く穏健なものであった。年齢もちひろとは9歳差とさほど離れておらず、そうした点も馴染みやすかったのだろうと思われる[18]。
なお、ちひろが大連から帰国した直後の1941年4月には、美術評論家の瀧口修造と美術文化協会を主宰する画家の福沢一郎というシュルレアリスムの中心的な二人が共産主義との関わりを疑われて突然検挙、勾留されており、彼らを慕う若い美術家や画学生たちの間には大きな衝撃が走った。もとより、ちひろがシュルレアリスムや当時の前衛的な絵画に興味を抱いていたかどうかは不明だが、かつて女子美術学校を受験しようとして両親から強い反対にあったことも考えると、ちひろが選択できる絵を学べる場所にはある一定の制約があったと思われる。穏健な具象でありながら新味も備えた中谷の画風は、現実的かつ妥当な選択肢であったのである。
この2年のちには、かつてちひろも学んだ岡田三郎助の門から出た三岸節子、桂ゆきらも参加した女流美術家奉公隊が戦時下の女性画家たちのグループとして、陸軍報道部の指導のもと、日本画、洋画の垣根を超えて活動するようになる。画家として生きることも大変厳しい状況に置かれるようになるこの時期、ちひろはまだ画家としてのスタート地点に立っていたとは言い難いが、少なくとも自身が望むような場所で師について絵を描くことを再開できたことは幸いだったといえるのであろう。
中谷が守ったちひろの油彩画
さて、中谷のもとで絵画制作を再開させたちひろが残した作品のうち、現在確認できる唯一の作品が《なでしことあざみ》(cat.no.12)である。縦40センチ、横30センチ弱の小形の油彩画だが、なぜこの作品のみが残されているかを振り返ると、戦争の影が重くのしかかる。戦時中、岩崎家が暮らしていた東京・中野の家は、1945年5月の空襲で焼けたために、自宅に置かれていたキャンバスや額は全て失われてしまった。《なでしことあざみ》は、世田谷の中谷のアトリエに保管されていたために焼失を免れ、そのまま長らく保管されてきたのである。この作品には年記が入っていないために正確な制作年は不明であるが、なでしことあざみというモチーフの組み合わせからは、春から初秋の間に描かれたものだと思われる。おそらく中谷のアトリエで開かれていた絵の教室に通っていたときに制作された作品であり、そのまま中谷のアトリエに置かれたままになっていたのであろう。
《なでしことあざみ》の平面的な花や葉の描き方や、背景を色面で埋め尽くすような塗り方は、中谷の《睡蓮》(cat.no.9)や、《水浴》、《農家の人々》(cat.no.14)とも共通したものがあり、ちひろが当時の中谷の画風をよく学んでいたことを示している。なお、中谷の回想によれば、中谷のもとでは主として油彩画を描き、野菜や果物などの写生を6号から8号程度のキャンバスを使って行っていたという。《なでしことあざみ》も6号に相当する大きさのキャンバスに描かれている。すでに岡田三郎助のもとで油彩画の手ほどきを受けていただけあって、物おじせずに対象に迫っていく描きっぷりが特に印象的だったと中谷は語る[19]。
また、サインの書き方にも注目してみよう。画面左下には「IWA」とアルファベット三文字のサインが入れられていることが確認できるが、これは中谷の「nak」というサインの書き方に倣ったものであるとの指摘がなされている[20]。なお、中谷は1943年から1946、47年頃までは漢字一文字の「中」をサインとして用いるようになる[21]。こうした点からも、ちひろが《なでしことあざみ》を描いたのは1942年秋頃までの時期であると推測され、仮にサインが中谷に倣ったものだとするならば、この点からも、中谷が《水浴》を出品する1942年10月の第5回新文展より以前にちひろが中谷のもとで絵の指導を受けていたという蓋然性が高い。
旧満州へ、そして戦後へ
ちひろが中谷のもとで絵を描くようになってから、中谷が中野の岩崎家を訪れるようになり家族ぐるみの交流が続いていたと伝えられる。中谷の回想によれば、最初に岩崎家に招かれたのは1943年の正月のことであったという[22]。ちひろの母・文江は、1940年に東京府立第六高等女学校を退職し、大日本連合女子青年団主事に就任、後に開拓士結婚相談所所長をつとめている。こうした中、文江は「開拓女塾」の塾長を務める熊井竹代という人物と関わりを持つようになる。熊井はこののち、勃利にある女子開拓義勇隊訓練所の所長につくが、1944年の1月か2月頃に中野の岩崎家を何度か訪れ、開拓民の女性たちに書道や家事を教える指導者として、ちひろや妹の世史子を女子開拓義勇隊訓練所に送ってほしいと頼んだという[23]。文江は承諾し、ちひろと妹の世史子、世史子の友人の若杉(のちに伊藤)敏子と橋本淑子の4人は、旧満州の勃利に渡ることとなった。道中を案じた文江は、当時親しくしていた中谷にも同行を勧め、中谷は牡丹江の部隊にいる弟を探すことや、異国の風景を取材することを目的にちひろたちと共に旧満州へ向かうことを決めた。
1944年4月末、ちひろと妹たち4名と中谷は勃利に向けて出発する。同行した若杉敏子は、「ちひろさんと中谷先生は、汽車が駅に止まるたびに、パッ!と飛び出していって、駅や風景をスケッチしていらっしゃいました」[24]との証言を残している。ちひろのスケッチブックは、同年8月の帰国の混乱の最中に荷物ごと盗まれたために残っていない。中谷はちひろ達を勃利まで送り届けた後いったん別れ、牡丹江の部隊にいる弟を探したり、ハルビンに滞在して写生をするなどして過ごしている。中谷がハルビンで描いたスケッチや小形の油彩作品は多数残されており(cat.nos.18~25)、初めて自身の目で見た異国の人物や風景を貪欲に描き留めていた様子を伝えている[25]。一方、ちひろは勃利に到着後、生活環境の変化から体調を崩してしまうが、勃利に駐屯していた連隊長の森岡正に救われ、森岡の官舎で生活することとなる。森岡は、ちひろの中野の自宅に書を習いに来ていた大久保晶子の叔父であり、その伝手を頼って、ちひろは森岡の庇護をうけることができたという[26]。
6月に入ると中谷は再び勃利を訪れている。中谷が旅の間携行していたメモ帳によると、中谷は6月8日に牡丹江を発ち、翌9日朝に勃利に到着している。6月9日の日記には、「知弘さんも元気の様子」という記述がある。ちひろが勃利で体調を崩して森岡連隊長のもとで生活をすることになったことは、ハルビン滞在中の中谷のもとにも伝わっていたのだろうか。中谷は数日の滞在ののちに勃利を出発し、7月には東京に戻った。一方、ちひろは森岡連隊長の転戦と、戦況悪化を理由に8月末に帰国し、日本郵船に職を得て働くようになるが、1945年5月の空襲により中野の自宅を焼け出され、両親の郷里である長野県松本市に疎開する。中谷は1944年11月に開催された文部省戦時特別美術展覧会(戦時特別展)に《武蔵野》(cat.no.26)を出品するなど画家としての活動を続けたが、翌年2月に応召し、京都府と長野県で農耕に従事し、徴用先の長野で終戦を迎え、9月末に世田谷の自宅に戻ることとなった。
1945年10月、ちひろは疎開先の松本から中谷に一通の書簡を送っている[27]。これより前に、自宅に戻った中谷が近況を知らせる手紙を松本にいるちひろに送り、その返信としてちひろが中谷に宛てたものであることが文面から読み取れる。空襲で自宅に保管していたキャンバスや額、身の回りのものの多くが焼けたが、油絵具だけは持ち出したこと、疎開先では食べるものには困らず、また豊かな自然に囲まれて写生をするには面白い場所もあること、自分は父母とともに松本に家を建てて暮らす計画があること、その家にはアトリエを設けて絵を描くことは続けたいと考えていることなどが率直な言葉で綴られており、ちひろがいかに中谷に信頼を寄せていたかがよく伝わる内容である。
その後に書き送られた書簡には、ちひろが1945年12月に上京し、世田谷の中谷の自宅を訪れたことや、翌年3月半ばにも再び上京して中谷家を訪ね、中谷も出品していた第1回日本美術展覧会(日展)の洋画部門を駆け足で見てから松本に戻ったことなどが書かれており、この時期のちひろの足取りを追うことができる。1946年5月、ちひろは日本共産党宣伝部が主宰する芸術学校に入学するために上京し、神田の叔母の家に下宿しながら『人民新聞』の記者として働き、新たな人生を模索し始めた。
《婦人像》から、1947年のちひろの作品へとつながるもの
ここでもう一度、中谷が描いた《婦人像》に戻りたい。ちひろの没後、1976年に刊行された『いわさきちひろの青春』に中谷は、「青春」と題した文章を寄せている[28]。その挿絵として、《婦人像》のデッサン(cat.no.11-c)が掲載され、キャプションには「中谷泰氏による“いわさきちひろ”像 一九四三年頃」と付されている。同書の編集には中谷も携わっているので、中谷が手元に保管していたデッサンを挿絵として載せるために提供したのであろう。ただし、制作年については中谷の記憶違いのためか、1943年と記されている。
中谷が《婦人像》を制作するにあたって描いたデッサンは複数残されている(cat.nos.11-a~11-e)。鉛筆で大まかなかたちを描き留めたものや、両手を腰にあてた立ち姿や黒いブラウス姿で座る人物像など、完成作とはポーズや服装の異なるものがあり、デッサンを繰り返し、構図を十分に検討したのちに油彩画に着手したことがうかがわれる。
完成作の油彩画は、人物を真正面から捉え、顔の半分に陰影を施している。背景は濃い青緑で、平面的に仕上げられている。座った人物は両手を体の前で固く組んでいるが、肩から腕にかけては大きくデフォルメされ、円を描くようなかたちで描かれている。紫がかった紺色のカーディガンには、小さな花模様が散りばめられて、赤い縁取りと小さな飾りがつけられている。
《婦人像》の前年、第19回春陽会展に中谷は《頬かむり》という人物像を出品している。この作品は《婦人像》とよく似た色調で描かれており、平面的に塗られた青を背景にして、正面を向いた人物の像が浮かび上がる。人物は胸の前で手を結んでいるが、この手の組み方も《婦人像》の手のかたちと酷似している。また、人物の顔の向かって左半分に影が落とされている点も共通している。中谷は春陽会展に出品を始めた頃より、同様のモチーフ、構図を繰り返し描いているが、《頬かむり》と《婦人像》もまた、モデルや服装は異なるものの、この時期の中谷の関心が正面性の強い人物像に向けられていたことを示している。1942年12月の第4回互陽会展に出品された作品の習作と考えられる《耳飾り》(cat.no.10)においても正面から人物を捉えた構図で描かれていることも指摘しておこう。
さて、ここからは、1947年にちひろが描いた作品について考えたい。1946年春に単身上京したちひろは、丸木俊と知り合い、丸木位里・俊夫妻の自宅兼アトリエで開催されていたデッサン会に通い始める。丸木夫妻を介して急速に東京での交友関係を広げていったちひろは、1947年に結成された前衛美術会の創立メンバーとして名を連ね、第1回展から出品している。丸木俊への師事や前衛美術会への参加など、1940~50年代のちひろの動きについては、本書掲載の原島恵の論考(pp.154~159)に詳しいので参照されたい。
ちひろが第1回前衛美術展に出品した《少女像》は現在のところ所在が確認されていないが、絵はがきが残されており、図柄を知ることができる。背もたれのある椅子に正面を向いて座った少女の上半身図で、少女は両手を体の前で重ね合わせている。右手に一輪の花を持っている点や、目線が画面に向かって右にずらされている点などに違いはあるものの、人物の捉え方や背景を平面的に塗り込めた構図は、中谷が描いた《婦人像》と基本的に同じである。当時のちひろが丸木俊の描く線描から大きな影響を受けていたことはこれまでにも指摘されてきたが[29]、油彩画の制作の面では、戦時中に指導を受けた中谷の画風がいまだ色濃く残されているのである。ただし、中谷の絵では成人した人物がモデルであるのに対し、ちひろの目はすでにこの頃より子どもをモデルに選んでいる点は注目される。ちひろは1936年に女性画家の公募団体・朱葉会展に出品して入選したことがあるが、その後は女子美術専門学校への進学を希望するものの、両親の反対に遭い断念している。第1回前衛美術会展は、自ら画家として生きることを定めて奮闘していたちひろが、画家という立場で初めて自身の作品を世に示す重要な場であり、当然、制作にも力が入っていたものと思われる。持てるもの全てを注いで描いた作品が、かつて師と仰いだ人物が自分をモデルに描いた絵を重ね合わせたものであることは、ちひろが強く中谷とその作品を意識していたことを物語っている。
さらに同年9月、ちひろは日本民主主義文化連盟が編集する雑誌『働く婦人』の第7号(1947年9月1日発行)に、「東京のスタイル」と題した絵と文を寄せている。1946年12月17日、皇居前広場で開かれた倒閣大会(全国労働組合懇談会が生活権確保と吉田内閣打倒をスローガンに開催した国民大会)を訪れた際に目にした広場に集まる女性達の姿を、服装に注目して絵と文で綴った記事である。雑誌に見開き大で掲載された絵には、プラカードや旗を掲げて行進する女性たちや、机に向かい紙にものを書きつける女性、長椅子に腰掛ける二人の女性などがくっきりとした線で描き出されている。これらの女性像のうち、右ページの中央手前に描かれている人物の姿は、油彩画の《婦人像》と同じ服装、ポーズで描かれている。文章の方では、「前にすわっているのはオフィスの婦人、(G)は紺のセーターで、朱の毛糸でふちどってあり、かわいい花の刺繍がしてあった。ふとっているので、手をまえでむすぶと、まんまるになって、いかにもかわいい」と記述されている。着衣の色や模様、肩から手先にかけての円を描くようなデフォルメは、明らかに《婦人像》からとられたものである。このイラストでもまた、ちひろは中谷の《婦人像》を強く意識し、その形態を模倣するようにして描いている。広場で見かけた女性の姿という体裁をとってはいるが、いわば自画像のように自身の姿を絵の中に登場させているのである。
ちひろは1949年11月18日付けの『婦人民主新聞』に掲載された「クラスメート」という記事にも、自分の姿を登場させている。絵には、火鉢にあたる二人の女性が描かれているが、向かって左のおかっぱ頭の和服の女性はちひろ自身であり、傍らの友人の話に聞き入りながら、手にしたスケッチブックに何やら描きつけている姿で表されている。手前には2枚のデッサンが無造作に置かれ、背後にはパレットや絵の具箱、数本の筆を立てた壺が置かれている。「未亡人の方は絵描きになり、ブリキ屋さんの二階で朝から晩まで絵を描いている」という文には、自身を客観的に見つめ、画家として生きる自らを奮い立たせるような心境が反映されているように思われてならない。
「東京のスタイル」にちひろが描いた《婦人像》によく似た人物もまた、ちひろの自画像であろう。しかし、この絵の中でちひろは自身の姿を、モデルとして画家の前に座っていたかつての自分ではなく、描く側の立場となって自らの足で前に進みつつある人物として捉え、一歩ずつ動き出していく時期の記念として描いているのではないだろうか。
1947年12月には、民主的な美術文化の創造と普及を理念に前年発足した日本美術会の主催により、第1回日本アンデパンダン展が開催された。「美術及び美術家の解放と発展」[30]を謳い、出品料さえ支払えば、会派流派は問わず誰でも展示ができるこの展覧会に、ちひろは《花》と《婦人像》の2点の作品を出品したことが目録により確認できる[31]。この2点は現存が確認されず、どのような構図の作品であったのかは不明であり、また《婦人像》というタイトルはありふれたものであるため、それをもってして中谷との結びつきの根拠とはなり得ないものの、まずはここでひとこと触れておきたい。
むすびにかえて
これまで中谷とちひろの二人の交流について振り返ってきた。しかし、本稿では十分に触れられなかった点もある。それは、挿絵の仕事をめぐる二人の交流に関することである。中谷は1930年代前半より商業図案や装飾の仕事を行い、1940年代前半にいくつかの挿絵や装幀も手がけている。これらの仕事は生計を立てるために行われたという側面もあるが、中谷が師と仰いだ木村荘八をはじめとする春陽会の先輩の挿絵の仕事を意識して行われたとも思われる。こうした中谷の仕事を間近で見て、挿絵の仕事は絵を描いて生活の糧を得ることもできるものだと、ちひろが感じることもあったであろう。戦後、画家を志して上京し、生活のために人民新聞の記者をつとめながら絵の勉強も続けていた時期のちひろが、決してめげずに歩むことができたのは、ちひろ自身の強い信念もさることながら、挿絵などの仕事に片手間のものではなく取り組み、油彩画の絵描きとしての活動と両立させていた中谷の姿を思い返し、その存在に励まされていたということもあるだろう。身近に手本となる先輩がいたことは、ちひろの心を強くしたに違いない。
また、戦後に中谷が手がけた新聞や雑誌の挿絵、イラストも数多く確認できるが、それらを見ると、制作態度の面からも、画風の点からも中谷がちひろの描く挿絵に感化され、影響を受けていたであろうことがよくわかる。こうした部分における影響関係について、具体的な作品に即した考察は稿を改めて論じたい。
1947年、いわば画家としてのデビュー戦となったこの年に、ちひろは立て続けに中谷の《婦人像》を想起させる作品を発表した。画家としてようやくスタートラインに立ったちひろは、自らが飛び込んだ絵の世界で闘うための「武器」として中谷のスタイルを持ち出し、戦略的に自分の中に取り入れ、持てるもの全てをさらけ出したのである。それほどまでに、ちひろは中谷に強い影響を受けていた。
ちひろが若くして亡くなった後、中谷は絵を学びにきていた頃のちひろの姿を回想して次のように語っている。「平筆にたっぷり絵具をつけて、だいたんに仕事を運んでゆく姿がいまでも私の脳裏に浮かんでくるのだが、たくまずして仕上がってゆくカンヴァスをのぞきこんで、このひとの眼にはふしぎとものの形が美しく映るんだなァと思うことがあった」[32]。ぐいぐいと絵筆を運び、作品を仕上げていくちひろの姿を思い出し、自分には特に教えることはなかったと中谷は語る。しかし、戦後すぐの時期のちひろの絵を見ていくと、そこには中谷の影響が色濃く反映されている。中谷から学びとったことがちひろの中から一気に放出されていくのが、1947年という年なのである。
岡田三郎助のもとで絵を学び、女子美術学校への進学を望んでいたちひろだが、両親の反対もあって画家への道はいったん閉ざされていた。結婚し、絵の世界から離れていたちひろは、中谷とその作品に出会い、彼のもとで絵を学ぶことにより、絵筆を取り戻していった。戦争により全てを焼け出され、またも筆を折られたが、再びちひろが絵の道を歩みたいと強く願ったときに、中谷から吸収したことや、中谷という存在そのものがちひろを大きく後押しすることになった。中谷に出会わなければ、ちひろは絵を再開し、描き続ける人生を歩むこともなかったとすら言えるのかもしれない。画家中谷泰は、絵を描く「いわさきちひろ」の誕生をやさしいまなざしで見守り続け、画家いわさきちひろは、絵の中のこどもたちにあたたかくやさしいまなざしを注ぎ、その後の生涯を通して描き続ける道を歩んだのである。
(はら まいこ・三重県立美術館学芸員)
