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美術館 > 刊行物 > 展覧会図録 > 2019 > 雪斎ーー中華文化に傾倒する文人あるいは博物学的観察者として 山口泰弘 増山雪斎展図録

雪斎――中華文化に傾倒する文人あるいは博物学的観察者として

山口泰弘

 雪斎の号で知られる増山正賢(1754~1819)は、江戸時代中後期、伊勢長島藩を治めた大名である。文人大名として知られ多数の書画を残している一方、博物学にも高い関心を示している。
 ここでは、雪斎を中華文化に傾倒する文人あるいは博物学的観察者として捉え、それぞれを経緯として編み出された雪斎の画について考えてみたい。
 

雪斎――中華文化に傾倒する文人として

 出羽国松山藩の藩士相良助右衛門は、とある日、長島藩邸に雪斎を訪ねた。寛政6年(1794)、初めて江戸に出府したときのことである。通された座敷はまさに異国であった。     

 初而参候節御書斎へ扣候様御取次先達にて入見候へは不残唐風の御坐敷にて亀甲の石を敷あたりはシツクヒに而殊之外奇麗也長押には唐画山水花鳥の額或は硝子の蛮画等色々の珍画を掛置たり   
                      
 座敷の趣向は、中華尽くしであった。
 この一文は庄内藩士池田玄斎の随筆集『弘采録』(註1)第35巻に採録された「一、増山河内守侯風流の事」の冒頭近くから抄出した。支藩の助右衛門からの聞き書きである。助右衛門は、のちに雪斎の家臣で画人の春木南湖に画を学ぶとともに交遊をもつようになる(註2)。また、筆者の玄斎自身も「幼年より書画を好の癖ありて諸家の蔵軸大抵展覧せり」(『弘采録』第50巻)と自らの書画好きを語るほどであったので、大いに興味をそそられたことであろう。
 助右衛門が招き入れられた座敷は、残らず唐風すなわち中華風に誂えられていた。亀の甲羅に似た亀甲石を敷き、壁は漆喰が塗られてことのほか美しかった。長押には唐絵すなわち中国製の山水画や花鳥画の額が掛かり、珍しいところではほかに「硝子の蛮画」が掛けてあった。  
 「硝子の蛮画」とは、ガラスに描かれた西洋画という意味である。ガラス絵あるいは硝子絵と呼ばれる。透明なガラスに裏側から油彩等で風景や花鳥・人物を描き、表から透明感を楽しむもので、中国清代に主として広州で製作された。広州は、海禁政策、日本でいう鎖国政策を採っていた清では唯一の開港地であった。いわば、江戸時代の長崎である。広州には、こうした要因から多くの西欧向け輸出品が集散するほか、輸出産品の製作工房が軒を連ねていた。ガラス絵もそうした工房で製作され、17世紀以降西欧を席巻していたシノワズリ(中国趣味)の重要な輸出品のひとつとして、イギリスをはじめ西欧各地に送られた。多くはないものの、一部が日本にももたらされたが、そのひとつが雪斎の日常を飾っていたことになる。蛮画=西洋画とはいっても、内容は中国風景であったり、仕女図(中国で宮廷女性を描いた美人画)であったので、雪斎には中華文化の一端として認識されていたに違いない。
 雪斎が中華趣味にのめり込んで借金を積み重ねたことは当時世間の知るところであったようで、「借金は日々に増山河内守御紋所はまるにかりがね」と狂歌で揶揄されるほどであった(註3)。
 さて、座敷に通されて円座にかしこまる助右衛門に対して、雪斎は、
                      
 曲椂へ御腰懸させられ色々の御物語有之御吸物御酒も出たり器物は勿論箸の類まて皆華物に而結構至極の事共也極御懇意の御方には女中も不残唐の衣服にて当時清朝の風俗を擬し裾の広き袴を着御酌に出候と也助右衛門は初而の事ゆへ御給仕は御近習にてありし
                      
 雪斎は曲椂に腰掛けて相対し、さまざまな物語に花を咲かせた。その間に食事が供されたが、吸物・酒など、器から箸に至るまですべて中華尽くしであった。助右衛門は「結構至極」と慨嘆している。ごく懇意になると清朝風の衣装に身を包んだ女中が給仕に当たるということを訪れる前から聞いていたが、それは叶わなかった。初対面ゆえと助右衛門が残念がる空気が行間に読める。
 生活を中華で彩る雪斎は、好事家として知られる一方、中華文化に対する深い造詣に裏打ちされた文人、なかでも書画の達人として当時知らぬものはなかった。その名は庄内まで伝わっていた。『弘采録』は、次のようにいう。
 
 増山河内守諱君賢雪斎と号す近来諸候方にての好事家也御学問もあり書画は名高き御妙手也
 
 諱の「君賢」は「君選」の誤認であろう。中華文化への傾倒は、書画の制作のみならず、『松秀園書談』(1793年)、『観奕記』(1803年)、『煎茶式』(1804年)など書・囲碁・煎茶をはじめとして、文人が嗜みとすべき様々な領域に著作を残すなど多芸多趣味ぶりを発揮しているところにも現れている。
 多芸多趣味の大名雪斎の有り様を、書画の「名高き御妙手」としてのみではなく、優れた士大夫=文人と捉えたのは、田能村竹田であった。竹田は、文人画家としてはいうまでもなく、論画家としても優れた著作を残していることで知られるが、そのひとつ『山中人饒舌』(1834年)では、雪斎を評して次のようにいう。
 
 昔人以気韻生動帰之軒冕巌穴、然二百年来、巌穴中名人代出、至軒冕寂然無聞矣、或言雪斎増山侯書画、軼畛畦而直上、迺是其人
 
 画の本質である「気韻生動」は、かつては軒冕=士大夫や巌穴=高逸の士の描いたもののなかに現われたものである。近年になって士大夫の中にこの本質を尽くすものがいることを聞いていない。そのなかにあって雪斎の書画は絶妙の域に達している。すなわちこの人こそ人格と地位とを兼ね備えた士大夫であって、その画は気韻生動の筆墨である。
 「士大夫」は、本来中国で科挙により官の資格を得た官僚知識層を指し、転じて高い官職にある高潔の人をいい、詩文・書画など文芸の面に親しむ「文人」の基本的要件とされた。科挙という制度のない日本においては、中国との社会制度の違いから、「文人」の定義は極めて難しいが、大名という高位にあり、詩文・書画に多才ぶりを発揮する雪斎を、竹田は「士大夫」=「文人」と捉えたのである。
 雪斎を中華文化に傾倒する優れた文人と評価するのは、竹田だけではなかった。
 雪斎の晩年、62歳に当たる文化12年(1815)末、『都下名流品題』という刷り物が版行された。江戸在住の文人等を相撲番付に見立てて品題=品評したものである。着目されるのは、雪斎が、番付で品等される側ではなく、裁く側の行司に当てられいることである。江戸時代にはこのような見立番付がいろいろな分野で盛んに版行されたが、品等を越える別格の人物を行司あるいは勧進元に充てることがあった。雪斎の文人界での極めて高い位置づけがわかる。また、文化14年(1817)には、やはり相撲番付見立ての『文人墨客大見立』が版行されたが、ここでは酒井抱一らとともに勧進元を務めている。抱一は、姫路藩主酒井忠以の弟で、宗達光琳派の画人として知られるほか、俳諧など文雅に秀でた高位の人物として当時知られていた。いずれにしてもふたつの番付は、雪斎が、江戸文人界に広範に知友を広げ、庇護者あるいは盟主的立場に置かれていたことを示す証左となっている。
 幕臣で狂歌師・戯作者として知られる大田南畝は、『細推物理』と名付けた日記を残している。その享和3年(1803)3月3日の項に、江戸の姫路藩上屋敷で催された宴の記事がある。
 当日の宴の趣向は、曲水の宴であった。永和9年(353)3月3日、書聖と称された王羲之が紹興郊外の会稽山麓の蘭亭に名士や一族を招いて催したものが著名で、文人画などに格好の画題を提供した。同じ3月3日のこの日、藩主酒井忠道(酒井抱一の甥)は、藩邸に曲水を掘り巡らせ、様々な階層の文人を招いた。明楽が演奏されるなか、参加者の詩が華音で朗唱されるなど、華やかな宴の様子を伝える一方、『細推物理』は、宴の主人酒井忠道の詩に加えて、参会者中ただひとり、雪斎の詠んだ詩を載せており、雪斎が文雅の人としていかに注目を浴びる存在であったかがわかる(註4)。
 雪斎は、天明3年(1783)頃、伊勢長島城内に庭園を新たに造営する。北宋の文人司馬光の営んだ庭園にあやかって同名の「独楽園」と名付けたのは、中華文化に傾倒する雪斎らしい。この「独楽園」造営に当たり、雪斎のもとには、37名の文人から賀詩が寄せられた。それぞれの詩には「長島侯命」「長島侯需」などと記されており、長島侯すなわち雪斎の命や需めに多くの文人が応じており、雪斎がすでに文人として高い声望を得ていたことがわかる。
 天明8年(1788)、雪斎は家臣で画人の春木南湖に長崎遊学を命じている。先の『弘采録』は、南湖に対して、雪斎とともに江戸画壇の重鎮谷文晁を凌ぐという評価を与えている。この遊学は、南湖に長崎来舶の清の文人に直接画を学ばせることを目的としていたが、その経過は、南湖の著した日記『西遊日簿』(東京藝術大学附属図書館)のほか、『夢境応酬』(西尾市岩瀬文庫)に詳しい。後者は、長崎遊学中の南湖が清の文人と交わした交遊と唐館訪問の記録である。南湖にとってそれは、まさに「夢境」の出来事であったのだろう。
 この遊学は、当時江戸でも好意的に捉えられており、その後の南湖の評価を高めることに大いに預かったが、雪斎が南湖を長崎に差し向けるにあたっては、他ならぬ雪斎自身にとってさらに重要な目的があった。
 南湖は、遊学に当たって雪斎からある命を帯びていた。それは、雪斎所蔵の中国画と雪斎自身が描いた画を携えて行き、清人に鑑定と批評を乞うことであった。 
 中華文化に傾倒する文人雪斎にとって、所蔵の中国画の鑑定は自身の審美眼を試されることを意味していた。しかし、それ以上に重要だったのは、自身の画を本場の文人がいかに評価するかであった。結果として、費晴湖という清人から「日本ノ風致ナシ」つまり「和臭」がないという評言を得たことを、『西遊日簿』は特筆している。中華文化を理想とする江戸の文人には、当時、和臭こそもっとも忌むべき悪癖であると戒められていた。清人自らが発した「日本ノ風致ナシ」つまり和臭を払拭したという評言を、南湖は主の画への最大限の賛辞と受け止めたことは間違いなく、重すぎる肩の荷を降ろした南湖の安堵と、復命されたときの雪斎の喜びようは想像に余りある。
 江戸時代、特に中後期の絵画界に大きな影響を及ぼした一派として南蘋派が知られている。南蘋派は、享保16年(1731)に長崎に来航した清の画人沈南蘋の系統を伝える一派で、専門画工としての高い技術で精巧に描かれた写生体の花鳥画に特色を示し、伊藤若冲や円山応挙をはじめ江戸時代中後期の絵画に大きな影響を与えた。画題は、鹿、猿、兎、鶴、鳳凰、孔雀などの花卉翎毛を主とする。また画法は、濃厚華麗な彩色による写生と過剰なほどの装飾性が混淆した花卉翎毛と、水墨の荒い筆触で描いた樹木や土坡・岩石との鮮やかな対比を特徴としている。
 雪斎は、従来の解釈では、南蘋派の流れを汲む花鳥画の画人のひとりとして位置づけられてきた。しかし研究の進んだ現在では、南蘋派にのみとどまるのではなく、水墨の山水や花鳥などにも優れた技量を示した作例がいくつも発掘されており、既視感の修正が求められている。今回の展覧会は、新たな雪斎像を認知する絶好の機会と捉えていいのではなかろうか。
 南湖の長崎遊学の年である天明8年(1788)は、現存する雪斎画を編年する限りでは、画歴の比較的早期に当たる。この年以前の画には次のような作例がある。
 天明5年(1785)の年記のある《竹図》、天明6年(1786)の《花鳥図》(三重県、継松寺蔵)、天明7年(1787)の《竹図》は、これに該当する画であり、かつ、現在知りうる最も早期の例である。いずれも、南蘋系ではなく、文人画風の水墨で描かれており、この頃の雪斎の画風を知る手がかりになる。清人から批評を受けた画がどのような画風のものであったかを類推することができよう。
 雪斎画を評価した清人が、主として長崎に来航した貿易商たちであったことは、文人としての雪斎の立場として重要であろう。沈南蘋のような専門画工ではなく、曲がりなりにも文人に属する(と当時の日本の文人たちが考えていた)人士であったからである。彼らは、専門画工の描く濃彩の著色画よりも、素人の余技・反俗・孤高・隠逸など多様な文人属性――いずれも雪斎に該当する――を高く評価するからである。
 雪斎の画風年代を考慮すると、上記の作例にみられるように、清の文人たちに南湖が見せた雪斎画は、水墨の花鳥・墨竹のほか、水墨の山水であったと考えられる。それが「日本ノ風致ナシ」の評価につながったのである。

雪斎――博物学的観察者として


 東京上野寛永寺の境内を歩くと、ひとつの石碑が目にとまる。丸みを帯びた自然石には、「蟲冢」と題字がある。「蟲」は「虫」とほぼ同義であるが、「蟲」はミミズやクモなどを含むところが、六本足の昆虫を意味する現代の「虫」とは定義が異なる。「冢」は「塚」の同義語で、中国の原義では、土を大きく盛った墓を意味する。
 「虫塚」と呼ばれる碑は、害虫多発の際の供養のため、あるいは虫送り(主として稲田につく害虫を追い払うための儀礼)の場所を示すものとして全国各所に残る。対してこの「蟲冢」に限っては建立の動機が異なる。
 正面の題字の下には、葛西因是の撰文が大窪詩仏によって書され、裏面は、詩仏と菊池五山の自筆の詩が刻まれている。因是の撰文には、増山雪斎が、写生のために心ならずも殺した虫の死骸を糞壌すなわち土に帰してしまうに忍びず、小箱にしまい、「これはわが友である。いつか適当な地に埋めて供養したいものだ。」と常々語るところであったが、遂げることなく没した。その遺志を継いで、因是ら知己が「蟲冢」を建立した(註5)、と記されている。雪斎が没した文政2年(1819)から2年を経た文政4年(1821)のことである。
 「蟲冢」建立の動機は、「写生のために心ならずも殺した」虫の供養であった。その写生の成果を今に伝えるのが、「虫豸帖」(東京国立博物館蔵)である。江戸時代の博物図譜を代表するとされるこの写生帖は、その名のとおり多種多様な虫豸を描き集め、画冊に纏めたものである。
 「虫」とは生き物のうち微少なものをいいその種類は無数にあるが、そのうち足のあるものを特に虫といい足のないものを豸と、『和漢三才図会』には解説されている。『和漢三才図会』は、大坂の医師寺島良安が、明の『三才図会』に倣って正徳2年(1712)頃に完成させたもので、我が国の図入り百科事典の嚆矢といわれる。
 画帖「虫豸帖」は、春・夏・秋・冬の四帖、まるで和歌集を意識したかのような部立てから成る。各帖には、1頁ごとに、大きいもので1枚、小さいもので4枚くらいまでの紙片が貼られ、それぞれの紙片には、図とともに写生の日付や書き入れがあり、さらに「雪」「斎」の小さな聯印が捺される。
 春の帖は蝶がすべてを占め、夏の帖にはトンボ・バッタ・セミ、秋の帖にはガ・ハチ・イモムシ、カブトムシなどの甲虫、冬の帖にはクモ・トカゲ・水生の虫類・淡水魚・カエルなどが纏められている。何故かクモ・トカゲやカエルやを虫豸に収めているところが、私たちの生物学的な知識とは異なる。蜘蛛・蜥蜴・蛙と虫偏で表記するように、古くは「虫」の一部とみなされていたことによるが、例えば、中国の本草学書の集大成で江戸期の日本にも大きな影響を与えたといわれる『本草綱目』(李時珍 1596年)に「虫部湿生類」という分類があり、ミミズ(蚯蚓)やカタツムリ(蝸牛)・ナメクジ(蛞蝓)などとともに分類されている。
 図のほとんどに日付が付されているが、その範囲は文化4年(1807)から文化9年(1812)にわたっている。膨大な紙片はこの間に集中的に描き溜められたとみられる。これを整理し画帖に纏めたのが雪斎自身かどうかは明確ではない。しかし、画帖を収めた木箱の題箋に「君選生写真画帖」とあり、号「君選」に「生」という謙譲表現を加えていることから、雪斎自身に編者を帰する可能性は高い。
 写生帖は本画制作のための下絵の役割を担うこともあるが、「虫豸帖」はそうではない。一匹の昆虫をさまざまな角度から写すという博物学的観察に根ざしており、さらには飛翔する姿までも描いている。また、写生の日付を付すという実証的手続きを踏むほか、先に触れた『本草綱目』や『和漢三才図会』などの書物から得た知見を書き添えるといった学術的手続きも踏んでいる。加えてその表現は、徹底した観察と写生に裏付けられている。
 画材には金銀泥や雲母が使用されており、それが効果的に使われている。金銀は、桃山時代の障壁画にふんだんに使われたように、本来装飾効果を高めるための画材である。鉱物の雲母は、現在では絶縁体として産業用途で使われるが、江戸時代、浮世絵では「きら」と読み、喜多川歌麿や東洲斎写楽が大首絵の背景を輝くように潰すして装飾効果を狙った。それを雪斎は、蝶の鱗翅やトンボの羽の質感を写実的に表現するために使っている。装飾のためではなく、雪斎の観察する眼に映ったものをそっくり表現するための写生の具材として活用されているのである。
 話は変わるが、曲水の宴で触れた大田南畝は、享和元年(1801)に大坂銅座に赴任している。その間、四天王寺に参詣した帰途、「孔雀茶屋」なる茶屋に立ち寄っている。そこには、錦鶏や真鶴あるいは高麗雉のほか孔雀5羽と羊が庭に放たれていた(『蘆の若葉』 1801年)。客は鳥を愛で、癒やされながらお茶を楽しむという趣向であった。猫カフェの遠い先例といってもよいかもしれない。
 また、『椿説弓張月』や『里見八犬伝』の作者として知られる戯作者曲亭(滝沢)馬琴も、享和2年(1802)に京都を訪れた際、祇園で孔雀茶屋に入っている。「もろもろの名鳥多し。名古屋の若宮八幡前近年孔雀茶屋を出せり」と紀行『羇旅漫録』(1803年)に記している。孔雀茶屋は、18世紀終わりの寛政年間に登場し、江戸でも孔雀茶屋あるいは花鳥茶屋という名で上野や浅草に構える店があった(註6)。
 このように、江戸時代中後期になると、生き物を絵空事のなかで楽しむのではなく、生きる姿そのものに眼を向けるようになる。さらに進んで博物学的な観察の眼を向けるようになった一人が雪斎であった。
 高松藩では、藩主松平頼恭の命によって魚類などを精密に描いた《衆鱗図》、鳥類図鑑《衆禽画譜》、植物図鑑である《衆芳画譜》などが制作されている。さらに熊本藩では、藩主細川重賢自身によって虫譜《昆虫胥化図》や《虫類生写》が極めて高い写生技術によって描かれており、これは図に即して虫の名前や年記を入れるなど雪斎の先駆といえるものである。
 秋田藩の藩主佐竹義敦(号曙山)は、江戸期の洋風画としては先駆的存在とされる秋田蘭画の画人として知られるが、その《写生帖》は、客観的な博物学的観察眼が、他の大名のように博物学的関心に留まるのではなく、画作に結びついた例として、雪斎に通じるところがある。
 孔雀を絵で楽しむのに飽き足らず、生き物として観察する。あるいは大名たちが博物図譜に多額の藩費を割くという事例の背景には、徳川吉宗の蘭学奨励、殖産興業、および博物趣味の広まりがあった。博物学的観察者としての雪斎登場も、こうした歴史の動向を反映している。
 生き物に対して写生の眼を向ける浮世絵師もいた。喜多川歌麿は、絵入り狂歌本「画本虫撰」を板行(1789年)するが、これは草木と昆虫が描かれた絵に狂歌を添える趣向で、細緻な描写は博物図譜と見紛うばかりである。歌麿には同様のものがほかにもあり、「潮干のつと」(1789年頃)「百千鳥狂歌合」(1789年頃)が知られる。
 孔雀を絵で楽しむのに飽き足らず、生き物として観察する。あるいは大名たちが博物図譜に多額の藩費を割くという事例の背景には、徳川吉宗の蘭学奨励、殖産興業、および博物趣味の広まりがあった。博物学的観察者としての雪斎登場も、こうした同時代の歴史の動向を反映している。
 

《老松梟鳥図》と《黄蜀葵に翡翠図》

 中華文化に傾倒する文人としての雪斎、博物学的観察者として雪斎、この全く趣の異なる経糸と緯糸が巧みに編み込まれたところに、雪斎の画が生まれたのではないだろうか。ここでは、最も高い成果を示している例としてふたつの画を取り上げてみたい。
 そのひとつが《老松梟鳥図》である。

 「壬子孟冬雪斎并題」と年記があり、寛政4年(1792)の冬の初め10月に描かれたことがわかる。南湖の長崎遊学から4年後、現存する雪斎画の編年上ではかなり早期に位置する画である。
 1羽のミミズク(註7)が松の枝に止まる様を描く。南蘋風の華麗さはなく、花鳥画としても珍しい図柄である。さらに画面全体に薄墨がかかっていて、薄暗さを感じさせる。
 画には七言絶句の自賛があり、これによってこの薄暗さに雪斎がなにを意図したのかがわかる。
 
 此時天地尽蕭條 幽黙暗窓偶対鶚
 手探毛公書不作 小童燭火捧来遥

 
 この時、天地ことごとく蕭條。幽黙暗窓たまたま鶚に対す。
 手に毛公の書を採りて作さず。小童燈火を捧げ来たるも遥かなり。
 
 詩意は、冬10月、静かな月のない夜、鳥の鳴き声に気付き窓を開けてみたら、庭の松の枝に1羽のミミズクが止まっていた。折しも『詩経』をひもといていたところだが、もう手につかない。小姓を呼んで手燭を持って来させたが、遠くにいるミミズクにまでよく光が届いてくれない(註8)。
 画面が薄暗いのは、暗く静かな夜という情景のためである。老松は、上部が薄暗く下部がいくぶん明るい。またミミズクの下半身はうっすらと明るく浮き上がる。小姓がかざした手燭の届くか届かないかの明かりを表している。松の根元近くには、薔薇が描かれている。画が水墨を主体とするなかで、精緻な南蘋派の彩色で敢えて描くのも、光を描くためであろう。雪斎は、光の観察者でもあった。
 また、ミミズクの目には金泥が施されている。金泥で夜に輝く目を描いているのであろう。先例として、曾我蕭白の「洋犬図」がある。
 松の水墨の筆意を重視する文人画風が基本となっているところは、まさに中華文化に傾倒する文人としての雪斎である。一方で、偶然にも眼前で起きた事象を、暗闇に光が織りなす細やかな表情まで見逃さずに観察し描き出しているところに、博物学的観察者としての雪斎がいる。
 次に《黄蜀葵に翡翠図》を取り上げたい。

 夏の日、サルスベリを背に大輪の花を咲かせるトロロアオイとそこに遊ぶ2羽のカワセミを取り合わせている。年記はないが、落款に「雪斎隠人写」とあるので、享和元年(1801)の致仕後の画である。水墨を主体とする《老松梟鳥図》のころから、さらに中華文化への傾倒を深め南蘋系に手を広げて行く過程で、その着彩写生画風をいかに学び消化して、花や葉、鳥などの華麗で細やかな質感の丹念な描写を獲得してきたかを示す画といえる。
 一方で、2羽のカワセミは、1羽が腹側、他方が背中というように、腹背両面から描かれている。またトロロアオイも同じように表裏を描いている。このように対象物を複数の方向から描きだすのは《虫豸帖》と同様の手法であり、そこに博物学的観察を行う雪斎の姿勢が認められるという指摘がある(註9)。また、トロロアオイを、夏の強い日差しを白く透かすかのように薄く軽やかに表現しているのも、粉本を写すのではなく、実際にそこに咲くトロロアオイを自ら観察し写生した結果と考えるのが妥当であろう。
 画全体の印象も、南蘋系本来の異国的濃厚さとは異なって、淡麗な趣を呈しているのが特徴的である。そこに、貴顕としての洗練された感性をみることもできようし、南蘋来舶から数十年を経るうちに日本人好みにローカライズされた結果の現れとみることもできよう。
 
 以上のように、中華文化に傾倒する文人としての雪斎と博物学的観察者として雪斎をみてきた。この全く趣の異なる経糸と緯糸が巧みに編み込まれたところに、雪斎の画が生まれたと考えられる。その達成の里程標として《老松梟鳥図》と《黄蜀葵に翡翠図》を挙げたい。
 
 

(1)池田玄斎『弘采録』(全139巻、酒田市立図書館光丘文庫蔵)。漢学、国学、蘭学、また書画工人にいたる広い領域と、数百人程にも及ぶ多彩な人物が登場する。
(2)佐々木金三「弘采録の世界―池田玄斎研究覚え書―」『方寸』第9号、1992年
(3)家紋の「丸に雁金」を「借金=かりがね」にかける。
(4)山口泰弘「増山雪斎の同時代評価に関する文献的検討」『三重大学教育学部研究紀要 人文科学』第57号、2006年
(5)当初、増山家の菩提寺である寛永寺子院勧善院内にあったが、昭和初期に寛永寺に合併されたため、現在の場所に移転した。勧善院は、四代将軍徳川家綱の生母で増山氏の出である宝樹院の霊廟の別当寺として創建された。
(6)磯野直秀「明治前動物渡来年表」『慶應義塾大学日吉紀要 自然科学』第13号、1993年
(7)フクロウ科のうち頭に羽角が立っているものをミミズクと呼ぶ。
(8)賛の訓読及び解釈は、下記の依る。小林忠「水墨画人風土記 第3回 増山雪斎 伊勢文人大名」『趣味の水墨画』第5巻3号、1993年
(9)杉本竜「作品解説 黄蜀葵に翡翠図」『特別企画展「増山雪斎~大名の美意識~」』桑名市博物館、2007年

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