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美術館 > 刊行物 > 友の会だより > 2019 > 表紙の作品解説 増山雪斎《瀑鯉図》 友の会だより109号 2019.3

表紙の作品解説 増山雪斎《瀑鯉図》

個人蔵

村上 敬(三重県立美術館学芸員)

 増山雪斎(1754~1819)は、長島藩(現・桑名市長島町)の藩主でありながら、詩書画に長じ、各地の文人の庇護者としても活躍した。本作品は、大正15年(1926)の「木村兼葭堂百二十五忌展覧会」に出品されて以来、長く所在不明となっていた。
 木村兼葭堂(1736~1802)は、大坂で酒造業を営む傍ら、詩書画をはじめ、本草学など学問を広く修め、江戸時代を代表する知識人として知られる。雪斎は、若い頃から兼葭堂と親交を結び、寛政2年(1790)に兼葭堂が造酒減額の新令(寛政改革の1つ)に違反したとして、家財没収の罰を受けた際には、藩領(現・四日市市川尻町)に呼び寄せ、手厚く保護したほどであった。本作品が兼葭堂の追悼展に出品されたのも、彼らの親交を偲んでのことである。
 雪斎は享和元年(1801)に藩主を退き、江戸巣鴨に移居したが、文化元年(1804)には謹慎を命じられた。その理由は、罪人となった兼葭堂を匿ったため、または雪斎自身が奢侈禁止令に違反したため、など諸説ある。本作品にみられる「顛々翁」の落款は、謹慎明け以降に用いられ、「顛」(ひっくり返る)の字が重ねられて、当時の雪斎の心境が反映されたものともいわれる。雪斎最晩年の作品であるが、まったく衰えをみせない筆致によって「鯉の滝のぼり」を描いた、雪斎水墨画の代表作である。

*「没後200年記念 増山雪斎展」(2019年4月20日[土]~6月16日[日])にて展示。

(友の会だより109号、2019年3月31日発行)

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