第109話  斎宮の「女御」

斎宮千話一話 斎宮の「女御」
 斎宮にちょっと関係した文献として『花鳥風月』というものがあります。斎宮関係者でもおそらくほとんど知りません。なぜなら、斎王制度や斎宮の歴史にはほぼ関係しないからです。
 『花鳥風月』は「御伽草子」と呼ばれる、中世の、絵入りの短編小説集の一つです。「花鳥」と「風月」は口寄せ巫女の名で、それぞれが鏡に在原業平と光源氏の霊を憑依させ、色々インタビューするという不思議な内容の物語です。
 その中で、花鳥が呼んだ業平の霊には、『伊勢物語』に出てくる恋人について本当は誰だ、と次々に問いただしており、そこに斎宮も出てくるわけです。
 この本の原文は写真版や活字翻刻がいくつかされているのですが、その中の一つに「慶応大学図書館所蔵本」という、室町後期のかなり古い本があります。その業平のインタビューは、このようになっています。

さていせさい宮の御事はあな事もかたしけなやもんとく天わうたいこの御むすめかたしけなくもいせさい宮のねうこにてわたらせたまいしをちゃうかん十ねん、なりひらかり野ゝつかゐのときはしめてあいたてまつり候。
現代風の漢字かな交じりで書き直すと
さて、伊勢斎宮の御事は、あな事も忝や、文徳天皇第五の御娘忝くも伊勢斎宮のねうこにて亘らせ給いしを貞観十年、業平狩の使の時初めて逢い奉り候。
現代語に意訳すると、
さて、伊勢斎宮の事はどうですか。おやもったいないことですが、文徳天皇の第五番目(本によっては第二番目とする)の娘で、恐れ多くも伊勢斎宮の「ねうこ」にていらっしゃったのを、貞観十年、業平が狩の使になった時に初めてお会いしたのです。
という感じです。
この説明は実にいい加減なもので、恬子内親王は文徳の第一皇子惟喬親王の妹なので、第五皇女とは考えにくく、貞観十年というのも特に根拠があるとは思えません。狩の使を史実と考える角田文衞氏は、斎王に「この人は特にいたわりなさい」と知らせた斎王の母は、文徳天皇更衣の紀静子と考えられ、彼女が貞観八年(866)に亡くなっているので、それ以後は考えにくいとしています。
むしろこの、『伊勢物語』に書かれていることを全て事実として、たとえ無理くりの解釈でも説明するのは、鎌倉時代以来に行われた伊勢物語注釈(古注といいます)の方法に近く、中世の人の常識の範囲で語られているものと考えることができそうです。江戸時代になると、『日本三代実録』に書かれた在原業平の事績や亡くなった時の記録が参照されるようになり、実証主義を重んじる国学者の賀茂真淵が1750年頃に出した『伊勢物語古意』が高く評価されると、こうした無理くりの解釈は廃れていきます。


さて、この業平の回想?が中世的だというのは、「伊勢斎宮の『ねうこ』」という不思議な言葉からもうかがえます。『花鳥風月』は中世の本で、しかも彩色絵入りなので、印刷ではなく写本で流通するのですが、そのいくつかの本を比べてみると、このようになります。

もんとくてんわうの第二のみこかたしけなくも「いせ斎宮の女御」にてにてわたらせ給ひしをちやうくはん十年になりひらかりの御つかひの時はしめてあひ奉る(中野幸一編『奈良絵本絵巻集』別館3所収 早稲田大学出版部 奈良大学図書館所蔵本)

もんとくてんおうたい二の御むすめかたしけなくも「いせさいくうのにょうこ」にてはたらせ給ひしをちゃうくハん十ねんになりひらかりのつかひのときはしめてあひたてまつり候(天理大学附属天理図書館本)
 このように、いずれも「斎宮の女御」を斎王と同じ意味で使っている使っていることがわかります。

ところが、「さい宮に」としている本もあるのを発見してしまいました。

もんとく天王乃第五の御女かたしけなくも伊勢さい宮にたち給ひしを貞観十二年乃夏の頃業平かりの使の時はしめて逢たてまつりて(エーザイ内藤記念くすり博物館本)
この、エーザイ内藤記念くすり博物館本では、「伊勢斎宮に立つ」という正しい表現になっており、江戸時代前期の写本と紹介されています。

もとよりすべての事例を当たったわけではないのですが、恬子内親王のことを「斎宮の女御」としている本と「斎宮」としている本があることがわかります。
 その際に非常に参考になるのはこの本です。

さて「伊勢さいくうの御こと」はあれこともかたしけなや文とく天わう第五の御むすめにてわたらせ給ひしをちやうくわん十年なりひらかりのつかひのときハしめてあひ奉り(古活字版 「花鳥風月」 慶長・元和年間出版 国立国会図書館デジタルコレクションより)

 慶長古活字版は日本最古の活字出版物で、豊臣秀吉の朝鮮出兵の時に持ち帰った活字をもとに、文禄(1592-96)から慶安(1648-52)に至るおよそ50年間に行われたものですが、ここでは「斎宮の女御」という言葉は出てこないのです。この点について面白いのは、古活字版では『伊勢物語』や『伊勢物語聞書』『伊勢物語肖聞抄』などが出版されていることです。
『伊勢物語聞書』と『伊勢物語肖聞抄』は同じもので、室町中期の大学者、三條西実隆(1455-1527)の講義を連歌師の肖柏が聞き書きしたものです。三條西実隆や一条兼良の伊勢物語注は荒唐無稽な「古注」に対して「旧注」と呼ばれ、書誌学的性格が強く、客観性の高いものです。当然そこでは斎宮と斎宮女御の混同などという初歩的なミスはありません。

 この「古活字版」は天皇や将軍などの命で出されたと説明されることが多いのですが、実際には京の貴族・富裕町人層などが携わっていたことはまず間違いありません。つまり当時のインテリたちの手を経た出版物と考えられます。ならばその時に「斎宮の女御」などの基本的なミスは書き換えられた可能性があります。そして、活字本の価値が高いと認められていれば、それをもとにした写本が作られるのも容易に理解できるところです。内藤くすりの博物館本はそういう系統の本ではないかと考えられます。
 一方、現・奈良大学所蔵本について中野幸一氏は「奈良絵本としては中期以降のものと推測される」としています。また、塩出貴美子他「奈良絵本「花鳥風月」について―奈良大学図書館本の翻刻と釈文―」(奈良大学大学院研究紀要第21号 2016年)では、同本について「奈良絵本の流行期、あるいはそれを少し過ぎた頃のもの」と推測しています。具体的な時期の特定としては、『奈良絵本絵巻集』と「奈良絵本『花鳥風月』について」が紹介している、斎宮章段を含む前半が欠落している『華鳥風月』が「室町末、慶長の頃」としているので、それより新しい本でしょう。しかしこちらは「斎宮の女御」としているので、室町古写本からの転写本と理解できます。
 このように考えると、室町時代後期に成立した頃の『花鳥風月』は恬子内親王を「斎宮の女御」としており、後になると「斎宮」と訂正されているようです。それは民間で成立したものが洗練されるという過程のように考えられます。つまり室町時代に「斎王」と「斎宮の女御」の混乱が起こっていたのは、手書き絵本「御伽草子」を楽しめる人たちの階層が思いのほか広がっていたからで、それが宮廷でチェックされ、間違いを正されたという理解ができるのです。
 ここまでの見通しとしては、室町後期の人々には、「斎宮」と「斎宮の女御」はかなり混乱して認識されていて、それが16世紀末期頃に軌道修正されてきたような感じがしますが、その動機として一つの可能性を加えておきたいと思います。それは、まさにこの時期から、寺社仏閣に三十六歌仙の歌仙絵扁額が奉納されるようになることです。
鎌倉時代以来三十六歌仙絵はおもに絵巻の形で限られた層だけに享受されてきましたが、この時期頃から、寺社に参詣する人に公開されることを意識した扁額として作られ、狩野派や土佐派、あるいは大名家お抱えの絵師による優れた作品が次々に作られるようになります。特に各地の東照宮に名品が飾られたこともあって、関心は高くなっていくようです。その過程で「あれ、斎宮の女御って、一人の斎王のことじゃないの、ああ、徽子女王ね。恬子内親王じゃないのね」という認識が普及していったのではないかと思うのです。室町時代、情報は秘訣として秘匿されるものでしたが、江戸時代になると情報は広く共有されるものに変わっていきます。「斎宮の女御」という混乱は、いかにも室町時代らしい情報の混乱の産物だったとも言えそうなのです。

              (2023/10/31 榎村寛之)

榎村寛之

ページのトップへ戻る