第106話  そんな能があるなんて

 えー、現在斎宮歴史博物館では「斎宮と能“絵馬”の舞台」と題して逸品展を開催しています。今回は、じつは斎宮関係の能がもう一つあるかもしれない、というお話です。
『樒天狗(しきみてんぐ)』という能がありまして。室町時代の寛正四年(1464)に初演された能で。ざっとこんな内容です。

 主役(シテ)は熊野の山伏です。京の西の名山、愛宕山に行くと、貴族の女性らしい人(ツレ)が樒の花を摘んでいるのに出会います。樒は仏のための花で縁起が悪く、しかもこんなところでお供もなしに、と不振に思い声をかけると「我は六条の御息所なるが。我一天の虚空として、美女の誉慢心となり。又、一乗妙経を片時も懈(おこた)る事なければ。これ又却って慢心となり。二の心の障故。魔道に落ちて天狗にとられ。この愛宕山をすみかとせり。」と語ります。後半には天狗(ワキ)が出てきて、一日三度溶けた鉄を飲ませ、五体がかまどの中で燃える熾火(燃えさし)のようになるという拷問を御息所に科し、また人の形に戻されると大天狗に打ち砕かれて木っ端みじんになり、天狗の哄笑の中で夢幻のごとくに消え去りました。

このように後半にはひたすら凄惨な場面が続き、さすがに評判をとれなかったのか、長く廃曲になっていたそうです。
さて、六条御息所(ろくじょうのみやすどころ)といえば、『源氏物語』の光源氏の年上の恋人で、妄執に囚われ地獄に落ち、最大の悪霊となって源氏の周りの女性たち、生霊としては葵上(あおいのうえ)に、死霊としては紫の上や女三宮(おんなさんのみや)にも仇をなすことで有名な、かつ、元斎王秋好(あきこのむ)中宮の母であり、娘とともに斎宮に下っていた斎宮関係者でもあります。この能にも「夕日かげろふ紅の。末摘花はこれかや。春のまたきなば都には。野辺の若菜摘むべしや。」と、「末摘花(すえつむはな)」「若菜」といった『源氏物語』の章段にかけた言葉があるので、ああ、源氏を意識しているのだな、とわかるのですが、『源氏物語』の六条御息所にあるはずの、葵上との車争いや、同じ能「葵上」に見られる鬼女姿の生霊などは出てきません。そして驕慢心を抱いたために天狗に取られた、という話は『源氏物語』には出てきません。天狗はもともとほうき星のイメージで語られていたもので、魔物になるのは平安時代後期の12世紀頃から、鳶(とび)の頭に修験者の身体、いわゆる「烏天狗」のもとになるイメージは、鎌倉時代後期と推定される『天狗草紙』あたりから生まれてきたものです。天狗が人を魔道に落とすという考え方は『源氏物語』の時代にはなかったわけです。

さて、この能のついては、中世国文学研究者で愛知大学名誉教授の沢井耐三氏に「謡曲『樒天狗』−もう一人の六条御息所−」(『室町物語研究』所収 三弥井書店 2012年)という論文があります。そこには驚くべきことが書かれていました。この能が造られた15世紀末の寛正五年(1464)、つまり「樒天狗」が上演された年に、京都万寿寺で『京城万寿禅寺記(けいじょうまんじゅぜんじき)』という本が作られました。その中に、世俗の話として「郁芳門院(いくほうもんいん)は絶世の美女だったが、色事に興味がなく、厚く仏教を信仰していたので、白河院から自ら書いた法華経八軸を与えられ、それをいつも読んでいた。ところがある時、一念清浄の慢を持ったため、この経典を魔に奪われ、間もなく病気になって亡くなった。」という記述が紹介されているのです。
そして沢井氏は、『樒天狗』の、日頃読経を怠らなかったのに、一瞬の驕慢、つまり、私ほど仏に仕えているものもあるまいと一瞬だけ思い上ってしまったがために魔道に堕ちた「六条御息所」は、『源氏物語』の六条御息所ではなく、郁芳門院媞子(やすこ)内親王のことだとされました。
媞子内親王(1076〜1096)は白河天皇の娘で、承暦二年(1078)に斎王となり、同四年(1080)、数え五歳で群行。母の藤原賢子(かたこ)の喪で応徳元年(1084)に退下、同三年(1086)に同母弟の堀河天皇が即位するにあたり、その准母(母親の代わり)となり、さらに独身のままで中宮の地位を手に入れます。二人の母の藤原賢子は白河天皇の寵妃で、関白藤原師実(もろざね 頼通の六男、道長の孫)の養女ですが、実は右大臣源顕房(あきふさ)の娘(つまり村上天皇の孫の孫)です。堀河天皇は即位した時に数え9歳で、当時の常識としては母の後見が必要でした。そこを利用して、白河上皇は、姉を弟の准母にする、という離れ業を思い付き、その手元に天皇を丸抱えにしたのです。その結果、本来外戚として、つまり天皇の母を擁することで政治的影響力を持つ摂関家の干渉は抑制され、院(上皇勢力)の権力が強化されて、院政と呼ばれる政治形態が成立していくのです。
こうしてまだ十代の媞子内親王は、無双の権力者となった白河院を背景に、「進退美麗、風容甚盛、性本寛仁、接心好施(要するに容姿も立ち居振る舞いも性格も美しくて麗しい、ということ)」「天下盛権只在此人(すべてのことで思い通りにならないことはない、ということ)」(『中右記』=右大臣藤原宗忠〔むねただ〕の日記、永長八年八月七日条より、当時35歳の右中弁=省庁管理や公文書作成を行う弁官局の次官、宮中の情報に詳しい立場)とうたわれました(ただし伝え聞いた話としていますが)。今ならすごいバックのついた箔付きのスーパーあこがれのプリンセスという所ですね。しかしわずか永長七年(1096)21歳にして急逝し、白河院はショックのあまり出家、六条にあったその邸宅は菩提所になりました(その後進とされているのが万寿寺です)。
だからここでいう六条御息所は郁芳門院のことだというのが沢井氏の説なのです。そして、この能は初演の後ほとんど上演記録がなく、先述のように長く廃曲になっていましたが、1994年に復活上演されました。その時の復活台本では、「私は白河院の娘、郁芳門院」と明記されているのだそうです、

このように『樒天狗』は斎王関係の能と理解できそうなのですが、この能、単純に斎王関係とはいいにくい所もあるのです。
といいますのも、先にご紹介しましたように、この能の詞書には「末摘花」や「若菜」など、『源氏物語』を意識した言葉が見られる上に、同時代には「葵上」や「野宮」など、六条御息所をテーマにした能が作られているので、『源氏物語』の内容から完全に離れた六条御息所ものが創られるというのはどうもおちつきません。実際、『源氏物語』の総合注釈書として知られる『花鳥余情』(1472年)を著した一条兼良は1453年には『源氏物語年立』、つまり登場人物紹介一覧をまとめているくらいで、この時代の貴族社会の源氏熱はかなり高くなっています。当然足利将軍家も同様なはずで、彼らが見るための芸として発達した能で、六条御息所と実在の郁芳門院を混同する基礎的なミスは考えにくいのです。たしかに郁芳門院は六条殿に住んでいたので、六条院と呼ばれることもあったようです。しかし、『樒天狗』の六条御息所が、驕慢の罪で罰を受けているとしても、それが郁芳門院なのか、という疑問はやはりあるのです。
そして、御息所という言葉、つまり天皇や皇太子の子供を産んだ女性、という意味の単語は室町時代でも生きているはずなので、郁芳門院を御息所と言うのも何だか変に思います。
郁芳門院のように、結婚しないまま中宮や皇后の身位(身分)を得て、そのまま女院になる人を未婚女院といい、中世には、天皇の母親のバックが弱い場合にしばしば見られます。たとえば、摂関家ではない平清盛の娘の徳子を母親とする安徳天皇の准母は、後白河院の娘で斎王だった亮子(あきこ)内親王で、彼女は殷富門院(いんぷもんいん)と称されています。こうした未婚女院には元伊勢斎王(斎宮)、賀茂斎王(斎院)の経験者がなる事例が多く、郁芳門院はその第一号でもあったわけです(野村育世『家族史としての女院論』 校倉書房 2006年)。その意味でも彼女は、かなりの有名人だったと思われます。
もちろん、郁芳門院が魔道に堕ちる説話は『京城万寿禅寺記』という動かぬ証拠があるので、室町時代にあったことは動かない事実です。不審な死を遂げた人物が怨霊などになり祟りをするという考え方は中世には広く見られました。そして郁芳門院は、永長の大田楽という田楽大ブームに熱狂したとあり(大江匡房『洛陽田楽記』)、その後に急逝しているので、不審死と取られても不思議ではありません。むしろその種の伝説がない方がおかしいくらいです。その点で『京城万寿禅寺記』の記事は、私にはあってしかるべきという感じでもあります。
しかし、能の『樒天狗』はそう簡単にはいかないと考えています。
・郁芳門院が驕慢の罪で魔道に堕ちたという話が室町時代には語られていた。
・六条御息所という名前は『源氏物語』を連想するものだったと知識人なら知っていた。
この二つはおそらく間違いない事実なのに、六条御息所が驕慢の罪で魔道に堕ちたという話になっているのです。無理して郁芳門院横死の伝説と六条御息所をくっつけたので評判が取れずそのまま廃曲になっていたのかもしれないのですが、あるいは、驕慢の罪で地獄に落ちた貴女の話というパターンがすでにあり、一方では六条御息所と結びついて能に、一方では郁芳門院不審死事件と結びついて女院の堕地獄伝承になっていたのかもしれません。
中世法制史研究者である京都大学の高谷知佳氏の「室町王権と都市の怪異」(『怪異学の可能性』所収 角川書店 2009年)によると、室町時代には、怪異をネタにして京都の寺社が参詣人を多く集めるためのイベントを打つようになっていたということなので、あるいは「郁芳門院堕地獄伝承」も万寿禅寺や関係寺院がPR用に発信していたものが信用されるようになっていたのかもしれません。先にも述べましたように、万寿禅寺(現在は東福寺塔頭の臨済宗寺院)は郁芳門院の菩提を弔うために創られたという伝承を持つ浄土教寺院だったのです。
なお、郁芳門院の堕地獄伝承があったことは、近世の怪異・妖怪文化の研究者である京都先端科学大学の木場貴俊氏の御教示を得ました。記して感謝いたします。
(2023年5月30日 学芸普及課 榎村寛之)

榎村寛之

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