第102話  伊勢物語と勅撰集と斎宮女御

 斎宮歴史博物館では「NARIHIRA−いにしへの雅び男のものがたり−」を開催中です。そこで『伊勢物語』についてのよしなしごとを。
さて、在原業平といえば『伊勢物語』の主役「昔男」に擬せられている人物ですが、もちろん『伊勢物語』が業平の自伝、というわけではありません。『伊勢物語』自体は125段にわたる短編小説集、しかもその段には長短いろいろとあり、順番通りに時間が進んでいくというわけでもありません。
 だから、『伊勢物語』のあらすじを言える人はとても少ないはずです。自慢ではありませんが、筆者も『伊勢物語』については、かなりの人より数多く読んでいる(目を通している)はずなのですが、あらすじなど言えません。先日指摘されてはっとしたのです。
 たとえば源氏物語だと、
桐壺帝の寵愛深き桐壺更衣の産んだ皇子が母を幼くして失い、高麗人の人相見の判断により源氏となり光源氏と呼ばれる美青年に成長、左大臣の娘葵上と結婚するが仲はよくなく、市井に隠れた貴族の娘夕顔、人妻の空蝉、先の皇太子の未亡人六条御息所などとの恋を重ねるが、母に生き写しの父の中宮、藤壺宮への思慕がぬぐい難く、その縁につながる美少女、若紫を養育し、理想の女性に教育するが、ついに藤壺と密通して子をなしてしまう。桐壺帝はやがて世を去り、兄宮が新帝、弟宮(実は源氏の子)が東宮となる。一方源氏は、末摘花、花散里などの美人とはいえない女性たちとも恋を重ねつつ、葵上を失い、彼女との確執により生霊となった我が身を恥じた六条御息所が娘の斎王とともに伊勢に下った後、若紫(紫の上)を実質的な正室にするが、兄の帝に侍するはずの右大臣家の姫、朧月夜と恋愛関係にあることを知られてしまい、宮中に居場所をなくしてついに須磨に退去する。
 まあこんなことくらいはいえるわけです。それぞれの話に伏線の回収や因果関係があったりして、読んでいるとだいたいのストーリーはおぼえてしまうわけですね。
 ところが『伊勢物語』ではこういうことはいえないわけです。『伊勢物語』は「歌物語」とよく言われますが、その各章段は、この歌がどのような背景で歌われたか、という説明のようなもので、関連しあう部分は決して多くありません。清和天皇の女御で陽成天皇の母、藤原高子かとされる「二条の后」に関わる章段、東下りの章段、斎宮関係の章段、惟喬親王に関わる章段が、たくさんの和歌の中に小島のように浮かんでいるだけなのです。
 そしてそれぞれの和歌がどのように評価されていたか、それもよく分からないところです。

 たとえば、伊勢物語と勅撰和歌集の歌の関係を考えてみましょう。
第一段☆春日野の若紫のすり衣忍ぶの乱れ限り知られず 新古今 
☆みちのくの忍ぶ文字ずり誰ゆえに乱れそめにし我ならなくに 古今
第二段☆起きもせず寝もせで夜をあかしては春の物とてながめ暮らしつ 古今 
第四段☆月やあらぬ春や昔の春ならぬ我が身ひとつはもとの身にして 古今 
第五段 人知れぬわが通ひ路の関守はよひよひごとにうちも寝ななん 古今
第六段 白玉か何ぞと人の問ひし時露とこつへて消えなましものを 新古今
第七段 いとどしく過ぎゆくかたの恋しきにうら山しくもかへる浪かな 後撰集
第八段 信濃なる浅間の嶽にたつ煙をちこち人の見やはとがめぬ 新古今
第九段☆唐衣きつつなれにしつましあればはるばるきぬる旅をしぞ思ふ 古今
   ☆駿河なる宇津の山べのうつつにも夢にも人にあはぬなりけり 新古今
   ☆時知らぬ山は富士の嶺いつとてか鹿の子まだらの雪の降るらん 新古今
   ☆名にし負はばいざ事問はむ都鳥わが思ふ人はありやなしやと 古今 
第十段☆みよし野のたのむの雁もひたふるに君がかたにぞよると鳴くなる 続後拾遺集
   ☆わが方によると鳴くなるみよし野のたのむの雁をいつか忘れん 続後拾遺集
間が飛んでいる章段は、その段の歌が勅撰集に採られていないものです。
 ほとんどの歌が古今和歌集か新古今和歌集に採られています。逆に言うと、なぜ鎌倉初期の新古今和歌集までこの歌が採られなかったのか、という疑問があるくらい有名な歌もしばしばしばあります。そこで見ていただきたいのは☆マークのある歌です。これは『古今六帖』という950年頃に編纂された私撰和歌集に採られている歌で、その中には新古今集で初めて勅撰集に入った歌がいくつもあります。つまり新古今集まで漏れていた歌でも、けっして駄作と思われていたわけではないことを示しているのです。
 次に第十一段から二十段までを見てみましょう。
第十一段 忘るなよほどは雲ゐになりぬとも空ゆく月のめぐり逢ふまで 拾遺集
第十五段☆しのぶ山忍びて通ふ道もかな人の心のおくも見るべく 新勅撰集
第十六段 年だにもとおとて四つは経にけるをいくたび君をたのみきぬらん 続千載集
第十七段 あだなりと名にこそたてれ桜花年にまれなる人も待ちけり 古今
☆けふ来ずはあすは雪ぞと降りなまし消えずはありとも花と見ましや 古今
第十九段 天雲のよそにも人のなりゆくかさすがに目には見ゆる物から 古今
     天雲のよそにのみして経ることはわがゐる山の風はやみ也 古今に類似歌
第二十段 君がためたおれる枝は春ながらかくこそ秋のもみぢしにけれ 玉葉集
 最初の十段には古今集に業平としてある歌、つまり『伊勢物語』が成立する以前から業平の歌として伝えられていた歌が多いのに対して、二十段までにはごく少ないのが目につきます。そしてこのブロックには、坂東や東北で詠んだ、いわば田舎めいた歌が多く、歌よりもストーリーが面白いという傾向があります。つまりすべてが優れた歌でもないのです。
さて、今度は終りの方の歌を見てみましょう。百十一段から百二十段まで
百十一段 いにしへはありもやしけん今ぞしるまだ見ぬ人を恋ふるものとは 新勅撰集
    ☆下紐のしるしとするも解けなくにかたるがごとは恋ひずぞあるべき 後撰集
百十二段☆須磨のあまの塩焼く煙風をいたみ思はぬ方にたなびきにけり 古今
百十四段☆翁さび人なとがめそ狩衣けふばかりとぞ鶴も鳴くなる 後撰集
百十五段 をきのゐて身を焼くよりも悲しきは京しまべの別れなりけり 古今
百十六段 浪間より見ゆる小島の浜びさし久しくなりぬ君にあひ見で 拾遺集
百十七段☆我見ても久しくなりぬ住吉の岸の姫松いく代経ぬらん 古今
     むつましと君は白浪瑞垣の久しき世よりいはひそめてき 新古今
百十八段☆玉かづらはふ木あまたになりぬれば絶えぬ心のうれしげもなし 古今
百十九段 形見こそ今はあだなれこれなくは忘るる時もあらましものを 古今
百二十段 近江なる筑摩の祭とくせなんつれなき人の鍋の数見む 拾遺集
 やはり古今・新古今が目立ちます。
 古今・新古今以外の和歌集の成立年を見ると、後撰集950年代、拾遺集1005年頃、続千載集1319年、新勅撰集1235年、玉葉集1312年、続後拾遺集1326年となっていて、『伊勢物語』成立以前の和歌で古今集に採られたもの、『伊勢物語』成立直後に三代集(後撰集と拾遺集)に採られたもの、大きく飛んで新古今集に採られたもの、新古今集以後の二十八代集に採られたものと四グループに分かれそうに見えてきます。
 これは『伊勢物語』の成立とも大きくかかわってくる問題です。現在『伊勢物語』は段階的に成立したものと考えられています。おそらく原・在原業平集のような歌集があり、その詞書が膨らんでそれぞれが歌物語になっていく一方、後からいくつもの歌物語が付け加えられ、十世紀後半には現在見られるくらいの量になっていたという考え方です。
 そして『伊勢物語』についての最初の評が見られるのは『源氏物語』「絵合」帖で、ここでは、深い心のある古典文学という扱いを受けています。『源氏物語』が成立したのはだいたい拾遺集と同じころで、これ以降は『伊勢物語』の歌は古典として扱われ、勅撰集に採られることは少なくなったと理解できます。
そして『伊勢物語』に大きな転機が訪れるのは13せいき前半のことです。あの藤原定家が何回も(6回以上)書写し、校訂し、現在見られている写本のほとんどが定家の、それも天福二年(1234)に書写したと奥書のある本が最も普及し、いわば『伊勢物語定家ブランド』が確立します。新古今集以降の勅撰集に採られる歌が多くなるのは、こうした『伊勢物語』再評価とは無縁ではないようです。
 さて、こうして『伊勢物語』の享受を世代的に分けてみると

第一期 伊勢物語のかなりの部分の和歌が詠まれた時期 古今集まで
第二期 伊勢物語の普及とともに和歌が定着していく時期 拾遺集まで
第三期 伊勢物語の評価が確立し、ほぼ勅撰集からなくなる時期 千載和歌集まで
第四期 ふたたび伊勢物語の歌が採られるようになる時期 新古今和歌集まで
となるわけです。
 そして第三期のイメージと対応するのが『源氏物語』「絵合」だとすると、面白いと思うのは、斎宮女御の和歌との関係です。斎宮女御の和歌が主に取られているのは『拾遺集』までです。そして斎宮女御の歌には、『伊勢物語』の歌をもとにした、再度の伊勢下向時の歌
 世にふればまたも越えけり鈴鹿山昔の今になるにやあるらん
(いにしへのしづの苧環繰り返し昔を今になすよしもがな 第三十二段)
 大淀の浦立つ波のかへらねば変わらぬ松の色を見ましや
(大淀の松はつらくもあらなくにうらみてのみもかへる浪かな 第七十二段)
があります。この二首はどちらも古今集には採られていません。そして第三十二段の歌には古今集に「いにしへのしづのをだまきいやしきもよきもさかりはありしものなり」というよく似た歌があり、『伊勢物語』でアレンジしてこうなったと考えられます。つまり、斎宮女御が伊勢に再び下った貞元二年(977)には『伊勢物語』の歌は一応できていたと推測できるわけです。ということは、斎宮女御は『伊勢物語』がまだ出来立てで、湯気の立っている時代を知っている世代、紫式部はすでに古典として扱うべきだと考えている世代に属すると理解できるわけです。

さて、『伊勢物語』の三十九段には、淳和天皇の娘、崇子内親王が亡くなった時に、女性と相乗り車で葬儀を見に行った男がいて、その女性に源至という「天の下の色好み」が、蛍を車に入れて、歌を詠みかけたという話があります。この話には「至は順が祖父也」とあり、『和名類聚抄』などを編纂し、三十六歌仙の一人としても知られる歌人で学者の源順の名が出てきます。そのため源順は『伊勢物語』の成立に関係しているのではないかという説もあります。そして斎宮女御は源順の歌人としての活動を後援するスポンサーでもありました。その斎宮女御の再度の伊勢下向、つまり娘の規子内親王の群行には源順が同行していることが知られています。
あるいは斎宮女御は源順から『伊勢物語』の講釈を聴きながら、我が身に置き換えて「世にふれば」の歌などを詠んだのかもしれないのです。
        (2022.11.10 学芸普及課 榎村寛之)

榎村寛之

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