第101話  硯は語るか?斎宮の謎

斎宮にとって硯は特別な遺物です。昭和45年(1970)に始まった発掘調査で、ごく初期に蹄脚硯、つまり円面硯(円形の墨を擦る所を支えて足がめぐる、プリンのような形の硯)の脚が馬の蹄のような形になっている高級硯の、まさに脚の破片が発見され、この場所が特別な施設の遺跡であるという確証が得られました。つまり、高級な硯が斎宮跡の性格を決定づけたといえます。この硯は奈良時代のものと考えられていますが、その後も水鳥の頭形の装飾のついた鳥形硯や、羊型の装飾のついた羊形硯など、平城京などの宮都から持ち込まれたような特殊な硯が、しばしば発見されてきました。
 ところで、奈良時代の硯については、最近研究が進んでいて、どうやら個人用ではないという確証が得られてきたようです。もともと出土件数がそれほど多くないことから、すべての官人がマイ硯を持っていたわけではないよなぁというイメージは私も持ってはいたのですが、元奈良文化財研究所にお勤めで、現在は国学院大の青木敬氏の研究などによると、どうも蹄脚硯などの大型硯は、平城宮では五位以上の官人が長官を務める役所で、長官が使う硯、あるいは儀式用のシンボルと決められていたというのです。そして実際の官人たちでも、圏脚硯とよばれる小型の円面硯を使えるのは管理職クラスで、ヒラ役人となると「杯蓋硯」や「甕転用硯」など、須恵器の破片を転用したものを硯代わりにしていたことが明らかになってきています。
 つまり硯というものはなかなかの高級品だったようなのです。 
さて、斎宮歴史博物館展示室Uの速報コーナーでは現在(2022年10月)、史跡西部の7世紀後半の塀で囲まれた遺構の遺物、つまり映像展示「斎宮との出会い」で取り上げている調査地域の出土遺物を展示しています。この区画の調査は塀で囲まれた区画の北東部半分の調査が一段落ついたのですが、正殿と脇殿が左右に3組(つまり6棟)以上並ぶという、これまでの発掘調査では見たことがない整然とした区画だということが明らかになっていますが、とてもきれいに使われていたようで、遺物(要するに生活廃棄物ですね)はほとんど出てこないのです。その中で面白いのは、7点も円面硯の破片が見つかっていることです。
もちろん小さな破片ですから、何かで紛れ込んだ可能性もないわけではないですが、落ちて割れたのを片づけた時の取り残しと見るのが妥当でしょう。そして詳しくはさらなる調査を待たねばならないのですが、同一個体の破片とは考えにくいように感じられます。とすれば、この区画では、当時貴重品だった硯がいくつも使われていたこと、そして硯を使うということは、文書作成がかなり行われていたことを示しているように思うのです。

 近年、郡符木簡と通称される文字資料が、全国各地で発掘されています。郡やそれより下のレベルの役所でメモ的に使われてたり、簡易な送り状などに使われた木簡なのですが、そこに書かれている文字は平城京などで見つかっているものより明らかにたどたどしく、8世紀でも文書行政が地方に行きわたるには、中央の官人が派遣されていた国府のサポートが重要だったことがよくわかっています。その中央でも7世紀中頃の前期難波宮出土の木簡はかなりメモ的で、8世紀の文書的なものが壬申の乱以降、飛鳥浄御原宮の時代以降に急速に整備されていたことがわかってきています。
 そういう時代に硯の破片がそれなりに出土する斎宮跡の問題の区画は、やはりかなり特異なものだったのだなぁと思えるわけです。
この時代の斎王、大来(大伯)皇女といえば、『万葉集』に、
 わが背子を大和に遣ると小夜更けて 暁露に我が立ち濡れし
 など
6種の和歌が採られていることで有名ですが、じつはこの時代に和歌を詠んだ皇族女性は、プロの宮廷歌人として知られる額田王の他は持統天皇などごく限られています。短歌形式の和歌は柿本人麻呂や山部赤人によってこの時代に作られた、最新のアートだったとも考えられています。斎宮跡での硯の出土と、斎宮の和歌文化にも何がしかの関連があるのかもしれません。
 速報コーナーの硯の展示は、小さな破片ですが、色々なことを考えさせてくれるのです。この機会にぜひご覧ください。
        (2022.10.26 学芸普及課 榎村寛之)

榎村寛之

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