第97話  伊勢物語初段と斎宮の隠れた接点

 2022年も明けました。本年も斎宮歴史博物館をよろしくお願いいたします。
 さて、斎宮関係では、近年初期斎宮との関係で『万葉集』と大来皇女の時代が盛り上がっていますが、斎宮を現代にまで伝えてきた代表的な古典は何といっても『伊勢物語』です。『伊勢物語』といえば第69段の、在原業平とされる男と斎王の奇譚が有名ですが、今回はそれとは違う接点から斎宮とのちょっとした関係をお話します。
奈良時代前半に紀橡姫(きのとちひめ、と読むと考えられます)という女性がいました。紀諸人という五位くらいの官人の娘で、いわば中流貴族として生まれ育ちました。あるいは女官として仕事をしていたのかもしれません。彼女は夫を皇族に持っており、そういう出会いは多く宮廷で起こったからです。そして息子に恵まれ、平穏にその生涯を終えたようです。しかし彼女の名はそののちに有名になりました。遺した息子、白壁王が六十二歳にして光仁天皇となったからです。つまり彼女は桓武天皇の祖母になってしまったのです。夫は天智天皇の皇子の志貴(施基)親王、
石(いわ)ばしる垂水(たるみ)の上の早蕨(さわらび)の萌(も)え出(い)づる春になりにけるかも」(『万葉集』1418)
という有名な歌の作者ですが本人はそれほど有名ではありません。しかし息子が天皇になったことで、田原天皇、また春日宮御宇天皇との諡号(しごう・おくりな)が贈られます(代々の天皇には数えられませんが、これによって光仁天皇は天皇の子、という建前になります)。
さて、この「春日宮」とは志貴親王の邸宅があった所なのでしょう。とすれば、『伊勢物語』との関連で面白い事実が浮かんでくるのです。
「昔、男、初冠して、平城の京、春日の里に、しるよしして、狩にいにけり」で始まる初段、「初冠(ういこうぶり)」段と通称されるこの話では、元服したばかりの男が、春日の里に狩りに出向いて、美しい姉妹と出会うという話なのですが、なぜ春日なのかはよくわかっていません。鎌倉時代の伊勢物語注釈書『伊勢物語知顕抄』には、「知るよしして」を、「知行地」つまり男の領地があったから、という理解を示しており、今でもその解釈が『伊勢物語』の解説では使われています。しかし「知行」という言葉は平安時代後期以降しか見られず、歴史学的に言えば平安前期の『伊勢物語』が使うのはおかしな言葉なのです。では「男」はなぜ春日に行ったのか。かつて国文学者・民俗学者・歌人として知られる折口信夫は、この姉妹を春日神社(春日大社)に仕える女性、九世紀中ごろ、藤原良房が政権を握っていた時代にのみ置かれていた斎王に準ずる「春日斎女」ではないかと論じたことがありましたが、春日神社は藤原氏の神なので無理があります。むしろ興味深いのは、「しるよしして」が何らかの「縁のあった所なので」と理解できることです。とすれば、これは、自らの出自に由来する所で、よく知っていた所と解釈できるのではないかと思われます。

 つまりこの一文は、「男」が志貴親王(春日宮御宇天皇)−光仁天皇−桓武天皇−平城天皇−阿保親王−在原業平という血統に連なる男なのだ、ということを意識させるプロローグの役割を果たしていると考えられるのです。在原業平は阿保親王の五男ですが、母は桓武天皇の皇女伊都内親王(伊勢物語にもしばしば出てきます)で最も血統の優れた子供です。その父の阿保親王は平城天皇の長男で、異母弟で皇太子になった高岳親王が皇太子を辞して出家し、父も世を去ったのちは平城天皇家を代表する立場になりました。そして平城天皇は桓武天皇の長男ですから、この血統は「平城天皇の変」がなければ本来正系の天皇なのです。そして桓武天皇が皇太子他戸親王とその母、元斎王の井上内親王の失脚の後皇太子になったのはこのコラムをお読みの方ならすでにご存じの通りでしょう。在原氏はこのような紆余曲折を経て天皇の正系から外れた氏族であり、業平は自分の出自に連なる「聖地探訪」をしたのではないかと思えるのです。
このことが重要なのは、業平の妻もまた紀氏の出身だからなのです。業平が二重に紀氏と関わっていたことは『伊勢物語』の最初期の読者なら当然知っていたでしょう。そして業平の奥さんの従姉妹、紀静子の娘が斎王恬子内親王だということも。
 ならば『伊勢物語』は、その初段において、志貴皇子と 紀氏という今の天皇家の根源となる夫婦を、そして折口の意見をもしも取り入れるのであれば、神聖な女性への侵犯を連想させる仕組みを組み込んでいた、と考えられるのです。


 ところで光仁天皇は、志貴親王の六男ですが、その母の紀橡姫は志貴親王の正妻だったのでしょうか。どうも違うようなのです。というのも、『万葉集』六六九番歌にこのような歌があるからなのです。
  春日王の歌一首
あしひきの山橘の色に出でよ語らひ継ぎて逢ふこともあらむ(志貴皇子の子、母は多紀皇女といふぞ)
実際に、志貴皇子の子に春日王という人がいたことが『続日本紀』からわかっています。この人は養老七年(七二三)に蔭位(高位の官人の子孫がある程度高い位から官人生活を始められるというルール)で従四位下に叙位されました。蔭位を規定した選叙令に従ってこの時二十一歳だとすれば、七〇三年の生まれで光仁天皇より六つ上の兄ということになります。そして『万葉集』の注に言うように、母が多紀皇女、つまり皇族で、父の宮宅である春日の名を冠しているとなれば、本来の嫡子はこの人だったのでしょう。しかし彼は天平十七年(七四五)におそらく四十歳程度で亡くなり、そののちは任官している兄弟で最高位の白壁王が志貴親王家のトップになったものと考えられます。とすれば、紀橡姫は志貴親王の正妻ではなく、春日宮に同居していた可能性は薄くなります。ちょっと残念です。しかし嘆くのは早計かもしれません。というのは、この志貴親王の正妻の多紀皇女こそ、文武天皇の時代に斎王を務めていた天武天皇皇女の託基皇女と同一人物だったと考えられるからなのです。なんと『伊勢物語』初段にも斎王が関わってくる可能性があるのです。
 とはいえ、正妻だからといって多紀皇女が同居していたとも限りません。というのは、多紀内親王は、後に一品という最高位まで上がる人、つまり女帝候補とも考えられうる貴人だったので、別に内親王宮を構えていた可能性が十分にあるからです。春日宮を継承したのは春日王だったが、志貴親王の生きていた間同居していたのは紀橡姫だったとも考えられるのです。
 しかしそれにしても、『伊勢物語』初段が志貴親王の故地に関わるとすれば、平安時代の読者にとって、「昔男」の春日訪問は、いろいろな秘密が隠された「聖地探訪」だったと読めたような気がするのです。
  (2022.1.4 学芸普及課 榎村寛之)

榎村寛之

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