第95話  古くて新しい大問題のてがかり

まあ、斎宮という所は「幻の宮」と言われてきたくらいで、発掘調査が進んだ現在でも、なかなか謎が多いのですが、その一つに、「斎宮」の読みがあります。え?そんな根本的なことが・・・、はい、わかっていないのです。
「さいくう」か「さいぐう」か。
 斎宮歴史博物館は「さいくう・れきしはくぶつかん」です。しかし、利用者の中には、特に県外から斎宮に興味を持って来られるお客さまからは「さいぐう・れきしはくぶつかん」と呼ばれることも少なくありません。実際に、辞書、歴史書、小説などで「斎宮」にふりがなを振る場合、「さいぐう」としている例は少なくないのです。
 なぜこういうことになっているのでしょう?
筆者の経験から言えば、大学生当時、初めて斎宮を知ったころには「さいぐう」と読んでいました。そして三重県に就職した1987年に、周囲の人たちが「さいくう」と何の疑いもなく言っていたことに大いに戸惑いました。つまり当時、辞書的な知識では「さいぐう」が普通だったのです。しかし明和町にある斎宮の地名は「さいくう」であり、地元の人たちは「さいくう」、さらに「さいく」と言う人もいたのでした。それを根拠に、1979年に指定された国史跡は「さいくうあと」と呼ばれており、本館も「さいくう」れきしはくぶつかん(仮称)から、斎宮(さいくう)歴史博物館となったのです。
地元では、近鉄の駅も開業以来「さいくう」駅ですから、愛着のある地名を違う読みで呼ばれるのは決して気分のいいものではありません。しかし、県外の専門性の高い関係者に電話でこちらの名前を言う時には「さいぐう」と言わないとわからない、「さいくう」というと「細工」「サイクル」と間違われる、なぜ「さいぐう」ではないのですかという問い合わせがある、「間違ってますよ」というご指摘まで受けたりするなど、この名前からは意外な問題が派生してきました。しかし、開館後しばらくして、『広辞苑』が「さいくう」と書くに至り、「さいくう」はかなり市民権を獲得してきました。
そんなこんなで、なぜこんなことになっているのかを何度か調べてみたのですが、これがよくわからないのです。何しろ、ふりがなが一般的になったのは江戸時代後期以降、平安時代の文献にはよほどのことがないかぎりふりがなは振りません。さらに濁点をつけることが一般的になったのも江戸時代以降、それ以前は、「さいくう」と書いて「さいぐう」と読んでいたのかもしれないのです。一方、江戸時代の終わりから明治時代にかけて「松坂(まつざか)」が「松阪(まつさか)」に、「大坂(おおざか)」が「大阪(おおさか)」になったように、地名から濁点が消える傾向があります。その頃に「さいぐう」も「さいくう」になったのではないかとも考えられるのです。
という具合で、何とも判断し難いのです。

「く」でも「ぐ」でもどっちでもいいようなものですが、実は「斎宮」の読みは大きな問題なのです。その理由は「斎宮」を「さいきゅう」と呼んだ例がないことです。少なくとも『伊勢物語』の古写本などには「さいくう」と書かれており(濁点は書かない)、平安時代から「さいくう」表記があったことは間違いなさそうです。
一方、平安時代に源高明が編纂した『西宮記』という儀式書があります。これは伝統的に「さいきゅうき」と読まれてきました。
この「くう」と「きゅう」の違いは何なのか、実は奈良・平安時代の中国の標準発音を残していると言われる「漢音」では「宮」は「きゅう」です。そして揚子江(長江)流域の中国語の発音を残すとされる「呉音」では「く」であり「ぐう」「くう」はその慣音、つまり日本風に変化した音とされているのです。
呉音は百済から伝わったともいわれる、大化前代以来の音読みで、経典などの読み方にも反映され、日常的に使われていたとされます。一方、漢音は公的な読み方で、桓武朝などには大学で正規の読みとして使うよう奨励されていますが、あまり浸透せず、いわば堅苦しい使い方に留まったようです。とすれば「さいきゅうき」はわざと漢音を使って堅い印象を出したのか、とも思えます。しかし問題なのは「西」の漢音が「さい」ではなくて、「せい」だとされていることです。つまり堅い読みにするなら「せいきゅうき」。とすべきではないかと思われるのです。いささか回りくどくなりましたが、『西宮記』の「さいきゅうき」という読みは変則的なもの(読みくせ)に過ぎず、これを「さいくうき」としなかったのは、早くからあった「斎宮」の読みと重なるのを避けたからと見る方が妥当に思えるのです。
そして、斎宮が「さいきゅう」にならなかった理由は、斎宮寮が令外官だったこと、「宮内省」が「くないしょう」だったこと、もともと「斎宮」という言葉が「斎戒する宮」という意味で『日本書紀』で使われていたことなどがヒントになると思います。つまり、本格的に漢音の読みが入ってくる遣唐使派遣の以前、具体的には6世紀後期から7世紀初頭頃の段階で、「宮(呉音「く」)」という読みが入って次第に一般化し、さらに「くう(ぐう)」と読む「慣音」が出来たのではないでしょうか。とすれば、「いつきのみやのつかさ(斎宮寮)」という役所ができた段階、つまり8世紀初頭には「さいく(さいくう・さいぐう)」という呼称が自然に行われていたから「さいくう」とになったと推測できるのです。つまり、斎宮が「さいきゅう」にならなかったのは、漢音が定着する以前に「さいくう」という読みが確立していたから、と考えられるのです。
というわけで、たかが読み方といえない面白い問題があるのですが、ここでふたたび、「さいくう」「さいぐう」の問題に戻ります。
いろいろと考えてネット検索をしていると、舘野由香理「現代日本漢語の漢字音」(聖徳大学(日本文化)学位請求論文)とい論文を見つけました。この論文では、宮の慣用語「クウ・グウ」の中でこういう説明が書かれているのです。

清・濁について見ると、三種すべての辞書が慣用音に「グウ」を認めている。漢和辞典を見ると、「神宮ジングウ」「行宮アングウ」「東宮トウグウ」・・・などがある。「神」「行」「東」はすべて鼻音韻尾を持つ字なので、「宮グウ」は連濁の影響によるものと考えられる。

鼻音韻尾というのは、言葉の最後の音が鼻にかかる発音(鼻濁音)になることです。今の日本語ではほとんど消滅していますが、「んぐ」に近い発音です。その発音の「ん」にKU音を続けると、「ng+ku」が「ngu」に変わるというわけです。実際に発音して見るとこの感覚はよくわかります。東宮が少し例外的ですが、「東」も今の中国語発音なら「tong」ですから、「とんぐ→とうぐ」になったのでしょう。これで「ぐう」という読みの成立は説明できます。しかし「Saiku」が「Saigu」になる説明にはなっていません。

筆者は−舘野さんは触れていませんが−こうして「ぐう」という慣用音ができると、それが一般語にも転化していくのかな、と思うのです「宮司(ぐうじ)」「内宮(県外のメディアがしばしば「ないぐう」と読んでいる例)」「外宮(同じく「げぐう」と読んでいる例)」などはこれにあたります。そして「斎宮」もその慣用に合わせて「さいぐう」になったと推測します。とすればやはり斎宮のオリジナル発音は「さいくう」だったのではないか、となるわけです。
 ところが「そうではないかもしれない」、という資料を拾ってしまいました。

 『伊勢物語知顕抄』という本があります。伊勢物語の最も古い注釈書で、作者は才人として知られた源経信(1016-97)に仮託されていますが、鎌倉時代の後半頃に成立したのかなあと言われており、活字本は『続群書類従』第18輯上に収録されています。この時代の注釈(古註といいます)は、牽強付会なものが多く、その説明は全く信用できないのですが、『群書類従』本はほとんどひらがなで書かれていて、そこには「かのさいぐうなりける人のおや」「さいぐうと申すは」「さいぐうわたらせたまふ」など、わざわざ「さいぐう」と書かれているのです。
 おっ、これは鎌倉時代には「さいぐう」と読まれていた証拠になるのでは?と驚きました。しかし念のため、と、インターネット上で公開されている、続群書類従本の最も古い奥書がある寛永二年(1625)写本(鉄心斎文庫蔵)と、宮内庁書陵部蔵本をチェック、そして室町時代後期の写本と見られる関西大学図書館蔵本を実見してみたのですが・・・おやおや、こちらはいずれも「斎宮」「さいくう」で、濁点を振っているものはありません。つまり「さいぐう」の濁点は『続群書類従』本の親本(それがどういう本なのかは不明なのですが)にたまたまつけられていたのか、あるいはこの本が出た大正三年(1914)の段階で編集者によって付け加えられた可能性が高いのです。それはつまり「さいぐう」の読みが定着したのは江戸時代後期以降という証拠になるのかもしれないのです。
というわけで、「さいくう」か「さいぐう」かと言われると、やはり「さいくう」の方が分がいいのではないか、という見通しに変化はありませんでした。しかしまだ詰め切れない点も少なくないので、やはり「斎宮」の読みは気になる問題でありつづけています。
このように基本的なことでもまだまだわからないことが多い斎宮、それがまた「幻の宮」の魅力の一つでもあるのです。
               (2021.7.7 榎村寛之)

榎村寛之

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