第90話  博物館の下のそこには?

 斎宮歴史博物館、2020年12月は臨時休館中です。コロナの影響ではありません。昨年度から予定されていた工事休館です。
 今回の工事では、展示ではなく博物館のお客様サービスが大きく二つ変わります。
一つは長年の懸案だった多目的トイレの更新、が新しくなり、ユニバーサルデザインの時代に適合したスタイルになります。
もう一つは、博物館や史跡の紹介アプリ「斎宮案内」がずっと使いやすくなり、博物館に入る時にダウンロードしていただき、出る時に消去してください、というご案内ができるようになります。このアプリは展示室の随所で音声ガイドと文字ガイドを行ってくれる便利なシステムなので、博物館としてはますますのご利用を期待しております。
 さて、そのほかにもさまざまな展示環境や災害対応の工事作業が閉館中の館内で進められており、休館中とはいえなかなかにぎやかなのですが、この期間館内には一か所、危険地帯ができました。それは一階総務課の前の廊下です。この廊下にぽっかりと人ひとり入れるくらいの穴が開いているのです。
この穴、実は博物館の床下にある空間への点検口で、各種パイプがそこを通っているため、作業をされる業者の方が出入りをされています。斎宮歴史博物館の下には、広い空間があるのです。

と書くと、あれっと思われる読者の方もいるのではないでしょうか。斎宮歴史博物館は国史跡斎宮跡の中に建っています。つまりその地下には斎宮の遺跡があるはずで、博物館の下に空間があるなら、それは遺跡を壊しているのではないか、と。
実は博物館の床は地上にはありません。
斎宮歴史博物館の建設時、その予定地は1986年から1987年にかけて発掘調査が行われました。斎宮跡の発掘調査次数でいえば、第67,68,71,72,74次調査区などに当たります。その時に発見された遺跡はそのまま埋め戻し、地上に耐圧盤を設けてその上に梁を置くベタ基礎工法と呼ばれる手法で基礎を造ります。この梁の高さが床下空間になっているのです。そして博物館建設の際には1.5mの土盛りをすることにより、地上の基礎は見えなくなっています。つまり博物館の下の斎宮の遺構は守られているのです。
博物館下の遺跡では、弥生時代・古墳時代・飛鳥時代・奈良時代・鎌倉時代の遺構などが確認されています。史跡東部で方格街区(地割)が営まれていた時期の遺構は極めて少ないのが特徴です。その中で興味深いのは、竪穴建物と掘立柱建物が共存していることです。三重県伊勢地方では、8世紀後半まで一般的に居住する建物は竪穴建物で、掘立柱建物に居住するようになるのは平安時代以降と考えられているのですが、博物館の下、ちょうど特別展示室の下から特別収蔵庫の下あたりでは、掘立柱建物が数棟確認されています。これらは一般民家とは考えにくく、当時の発掘調査概報でも斎宮関係の建物としています。あるいは未だ確認されていない多気郡衙(郡の役所)の関連施設という可能性もなきにしもあらずですが、公的性格を持った建物であることは間違いないでしょう(ちなみに皇族が唯一斎宮跡の発掘現場を見学されたのはこの調査区で、1987年5月に、山澤儀貴主査[当時]が浩宮徳仁親王殿下、つまり今上天皇陛下を御案内しました)。
そしてこれらの施設は、弥生時代の方形周溝墓や古墳時代の円墳などを壊して造られているようで、さらにそのそばを道路らしき溝が南北に走っています。これは現在、博物館南側に延びて、水のない池と野外ステージの方に向かう道路跡を復元した街路につながるものと考えられています。

博物館の基礎を造っている時の航空写真です これが廊下にぽっかり開いた出入口です。
博物館の基礎を造っている時の航空写真です これが廊下にぽっかり開いた出入口です。

 博物館南側の水のない池は、斎宮最初期の調査で、古里遺跡と言われていた時代の調査で確認された大溝を修景したものです。斎宮の発掘はこの地域から始まりました。そして、秋の特別展「斎宮と古代国家」でも新たにスポットを当てた蹄脚硯や赤い彩色のある大型土馬などは、このあたりの調査で発見されました。羊形硯の頭部もまた博物館周辺の調査で確認されたものです。博物館周辺は、飛鳥時代・奈良時代の斎宮の中心部から少し離れていたために、かえって奈良時代の遺物に恵まれた地域となっていたようです。このような特徴の多い奈良時代遺物は、1月より再び常設展示室でご覧いただけます。斎宮歴史博物館では、職員一同コロナ禍にも負けず頑張っております。使いやすくなった斎宮歴史博物館では、斎宮を盛り上げるための新しい企画も目白押しです。博物館と斎宮跡関係施設にどうぞお越しください。

榎村寛之

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