第50話  古老の語った斎宮のタブー

 伊勢神宮の古い資料に『古老口実伝』と呼ばれるものがあります。『群書類従』(江戸時代後期に塙保己一が編纂して出版した分野別古典ライブラリー)の神祇部に収録されているので、比較的見つけやすい文献です。
 13世紀(鎌倉時代後期)、伊勢神宮の外宮に度会行忠という祢宜がいました。この人は伊勢神道(伊勢神宮、特に外宮の祢宜層によって集成された神についての考え方。密教を主体とした仏教、陰陽五行説などの世界観を反映させ、神宮の独自性を説明する。外宮と内宮が対等であることが最大の特徴といえる)という考え方をまとめるにあたって大きな役割を果たした学者でもありました。この人の編著の一つが『古老口実伝』で、外宮祢宜の経験に基づいて、「祢宜として知っておくべき仕事の実態、禁忌、学問などについて、古典・古記録・家の口伝に則り、簡潔に、しかももらすところなく懇切に書きとどめた書(鎌田純一『中世伊勢神道の研究より要約』)」と評価されています。
 さて、この中に「斎宮院内禁制式文のごとし」と題名が付いた、いくつかの記事があります。まずタイトルは、斎宮内での禁制は「式文」つまり、式という法の通りに行うこと、としています。この「式」は『延喜斎宮式』(あるいはその後に出された追加の細則も念頭に置いているのかもしれませんが)のことを指すと考えられます。そしてその後に、五条の禁止綱目が見られます。これらは『斎宮式』などの式には見られないものではないかと思われます。

 それによると、まず
 月水の故障、服気の男女ら、退出の法なり。
とあり、生理中の女性や、喪に服しているなど、けがれている状態とされた男女は斎宮には入れないとしています。斎王でさえ、月経期間中は祭に参加できず、御汗殿と呼ばれる別の棟にいなければならなかったとあります。
 次に
鼓笛音は院中禁忌とす(尺拍子を用いるなり)。
 とあり、鼓や笛を使うのは禁止、代わりに尺拍子(リズムを取るためのパーカッション楽器、30センチくらいの長細い板だと思われます)を使うこととしています。
 次に
 巫の態は禁忌
これは、巫女のように託宣をしたり呪いをしたりすることは禁止、ということでしょう。十一世紀前半の斎宮では、斎宮寮の頭とその妻内宮・外宮が斎宮で勝手な祭を行ったり、それに対して有名な長元の託宣事件、つまり長元四年(1031)に斎王自らが託宣し、神宮や宮中が大騒ぎになった、という事件が起こり、寮頭夫妻が流罪になったり、またその後に斎宮の内侍が託宣するなど、いくつかの託宣事件がありました。巫の態が禁止されたのは、こうした事件を踏まえてのことだとすると、この禁止事項は『延喜斎宮式』以降に追加されたものかもしれません。

 次に
六所の禁忌と内外の七言は式條のごときなり。
 六種類のタブーと内外七種類の忌詞は『延喜式』の通りとしています。忌詞は斎宮式に見られる14種類の言い換え(仏→中子、経→染紙、塔→阿良良岐〔あららぎ〕、寺→瓦葺、僧→髪長、尼→女髪長、斎〔いもひ=僧侶に出す食事〕→片膳〔かたしき〕、死→奈保留〔なほる〕、病→夜須美〔やすみ〕、哭→塩垂〔しほたれ〕、血→阿世〔あせ〕、打→撫〔なづ〕、宍〔しし=肉のこと〕→菌〔くさひら〕、墓→壌〔つちくれ〕)のことですが、六所の禁忌はよくわかりません。『延喜斎宮式』で見られる禁制は「殴闘」「修仏」「私奸(正確には偏は女二つの形)」「密婚」「火穢」などがありますが、六種にはならないようです。
 次に
鴨子を供進せず(貞観以後禁制なり)。
 鴨は水鳥のカモです。その肉は食用にされました。カモの肉は食べない、という意味かと思われますが、鳥の子、というと鶏の卵になるので、カモの卵を食べない、という意味かもしれません。当時、動物を食べることを忌む意識は貴族の間で強くなっていましたが。カモ、キジ、シギなどの鳥はそれに代わって盛んに食べられていたので、斎宮だけのタブーだと思われますが、理由はわかりません。
 これらの禁制で興味深いのは、鼓笛は斎宮では使わない、としている条文です。
斎宮に関する史料には、楽器や音楽のことがしばしば出てきます。たとえば『延喜式』では新嘗祭で禄をもらう人の中に「歌人」がみえます。延暦十八年(799)には、斎宮の新嘗祭を停止して、神宮の九月祭(神嘗祭)に「歌・舞・伎」を奏すという記事もある位ですから、斎宮でも音楽は必要だったはずです。

一方、『源氏物語』の「賢木」巻では、野宮を訪ねた光源氏の耳に管弦の音がきれぎれに聞こえる、という描写があります。また、斎王本人も音楽に秀でていることがあり、斎宮女御として知られる徽子女王は琴の名手で、琴を弾く右手をかばうあまり、普段は左手を使っていた、という逸話がある位です。また、『更級日記』には、源資通という貴族が斎宮で数代前の斎王から仕えているという老女からよく調弦された琵琶を差し出された、と記されていて、琵琶の名手が斎宮にいたこともわかります。
 ここまで書いて、おや、と思ったのは、斎宮に関わる音楽は、弦楽器や歌の記事が多く、たしかに鼓や笛は見られないのです。そもそも弦楽器に比べて、笛のような木管楽器や鼓のような打楽器を女性が演奏する、という話は古典や歴史資料の中にもあまり見られないような気がします。『源氏物語』の「若菜上」でも、女楽として紫の上や女三宮らが合奏するのは琴や箏、琵琶などの弦楽器でした。そもそも平安時代の貴族女性が笛を吹いたのかどうか、鎌倉時代に書かれた『とりかえばや物語』では、男の子として育てられた姫君が、懐妊したので女性に戻って姿を隠す時に、笛を吹けないと嘆く場面がありますが、笛は男性のものだったのかもしれません。だとすれば、日常的に、斎宮内院で男性が音楽を演奏することはあまり考えにくいので、あるいは斎宮の中では、鼓や笛がなくても案外大した問題はなかったのかもしれません。

 ところが斎宮には、笛にまつわる地名があるのです、それは「笛川橋」。笛川は、史跡の東外側を流れていた川ですが、現在は河川改修などの関係でほとんど空の用水路のようになっています。笛川橋は伊勢街道がこの川を渡る所の橋だったのですが、現在は道路を横切る溝自体が数十センチの幅で、その上は舗装道路になっているため、橋であることすらわからなくなっている橋です。
 しかしこの橋には面白い伝説があります。「笛川橋」の名は『伊勢物語』で有名な斎王恬子内親王と在原業平の密通の話に関わり、業平がこの橋の所で笛を吹いて合図をしたことに由来しているというのです。江戸時代以前にさかのぼる古い記録には出てこないのですが、密通の合図なら、以後斎宮で笛が禁止されていてもおかしくはないのかもしれません。何しろ平安時代中期には、業平と斎王の恋の話は間違いない史実と考えられていたのですから。

 

榎村寛之

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