第48話  遷宮の儀式と斎王の謎

斎宮千話一話 遷宮の儀式と斎王
 皆様ご存じの通り、先頃神宮では二十年に一回の造替、古代に始まり、南北朝時代の康安6年(1361)年以来「式年遷宮」と呼ばれてきた儀式が行われました。今回はその遷宮儀式の中で、斎王がどのような役割を果たしていたか、についてお話をいたしましょう。
 「式年遷宮」は、実は大変長い時間をかけて行われます。現在の儀式は神宮のホームページによると平成17年(2005)の山口祭、つまり用材を得るために杣山(用材を切り出す神宮の山、もともと内宮は神路山、外宮は高倉山だったらしい。現在は伐採が進みすぎたため、主要な用材は木曽にある神宮備林から調達しており、伊勢ではヒノキを育成中)に入る祭に始まるので、8年をかけて内外宮の遷宮が、そして翌年には別宮の遷

宮が行われるのです。まさに壮大なプロジェクトなわけですね。
 遷宮の規模が昔から大きかったことは、延暦23年(804)に編纂された『皇太神宮儀式帳』からもうかがえます。『儀式帳』には、このために造宮長官、次官、判官が任命され、伊勢・美濃・尾張・参河・遠江から役夫が徴発されることが記されており、遷宮が国家的事業として行われていたことがわかるのです。そして「山口祭」「正殿心柱(正殿床下にある、心御柱〈しんのみはしら〉と言われる柱。床を支えておらず、建物の一部ではない)を造るための木本祭(用材を伐採する前の祭)」「宮地を鎮謝する儀式」「正殿地を築き平らにする儀式」「御船代(みふなしろ 神体の入れ物)を造るための木本祭」など数多くの儀式が行われていたことも『儀式帳』からわかります。ただし、公的な歴史書に

はじめて「造伊勢太神宮勅使」が見られるのは仁和元年(885)のことで、遷宮はその翌年に行われました。古代の遷宮は、今よりもっと短い時間で、濃密に行われていたようです。平安時代前期の伊勢神宮についての公的な法令集『延喜伊勢太神宮式』にも、遷宮は「孟冬にこれを造り始む。神宮七院、社十二所」とあり、造営が10月に始まっていたことがわかります。
 ところで、現在は内宮・外宮の遷宮は同年に少し日をずらせて行われますが、室町時代に中断するまでは、外宮は2年遅れで遷宮を行っていました。外宮の儀式を記した『止由気宮儀式帳』によると、祭の儀式はほぼ同じ。一番大きな違いは、事業規模が全体にやや小さい、というところです。しかし古代の遷宮では、もう一つ見逃せない相違点がありました。それは斎王の参加のありかたです。

 十月に行われる、御神体を新殿に移す儀式があるお祭りは正式には「大神嘗祭」というそうです。定例の9月神嘗祭を特に大規模に行う、という意味でしょう。そして神嘗祭には本来斎王は参加することになっていました。
 ところが遷宮祭は少しパターンが違うようなのです。どうやら二つ、大きな相違点があるようなのです。
 一つ目は、斎王の参加のタイミングとその儀式です。『皇太神宮儀式帳』によると、斎王は9月15日の巳の時(午前9時〜11時)に内宮に参入し、外川原殿に待機します。例年の神嘗祭では、斎王の参宮は17日の午時(午前11時〜午後1時)に行われます。そして手輿で旧殿の門外に到り、輿を降りて参入、玉垣と瑞垣の間の東方に坐す。とあります。例年の儀式では川原殿から手輿に乗るのは同じで、第四重の東殿の座に就くとして

います。第四重の東殿とは斎王候殿(現在の四丈殿)とも言われるもので、やはり玉垣と瑞垣の間にあるので、あるいは同じ動きだったのかもしれません。
 やがて太神宮司(宮司)が太玉串と蘰木綿(かずらゆう)を捧げて第三御門に到り、斎王に従う女孺がこれを斎王に渡します。神宮の遷宮にも深く関わった建築史の大家、福山敏男氏の研究によると、第三御門は外玉垣御門のことのようで、例年の神嘗祭でも、この内側で斎王へ太玉串と蘰木綿が捧げられます。ただし宮司から受け取るのは斎王に使える女官のトップ、内侍(命婦)です。
 そして斎王は蘰木綿を身に着け、太玉串を捧げ持ち「拝み奉り給ふ」、つまり神を拝礼するとあります。神嘗祭においても、斎王は内玉垣御門を入って四度拝(再拝両段)と呼ばれる特殊な拝礼を行うので、基本的には

同じ事を略式で記していると考えていいと思われます。神嘗祭ではその後、太玉串を瑞垣御門の西の辺に立てるとあり、おそらく遷宮祭の時も行っていたのでしょう。ここまでの儀式のありかたには、それほど差はないようです。
 しかし、例年の神嘗祭では、この後、祝詞の奏上や奉幣が行われ、その間斎王は斎王候殿にて待機していますが、遷宮祭では大きく違います。斎王の拝礼の後、祝詞や奉幣は行われず、やがて斎王は、度会郡の離宮に退出してしまうのです。そしてこの後、斎王は遷宮関係の儀式には参加しません。遷御、つまり神体を移す儀式が行われるのは16日の夜ですが、その日に斎王は、外宮の神嘗祭に参加しているはずなのです。つまり、遷宮のクライマックスには斎王は神宮にいなかったと考えられる

のです。
 例年の神嘗祭では、一日目(内宮では16日)の深夜と早朝に朝夕大御饌と呼ばれる神様の食事が捧げられ、二日目(17日)に斎王の拝礼や奉幣が行われます。
 一方遷宮の時には、16日に遷御が行われると、その後で「湯貴を供奉する」としています。「湯貴」とは貴いものという意味ですが、この場合、朝夕大御饌のことと考えられます。つまり朝夕大御饌は例年通り16日に行われるのです。
 ではその後にもう一度斎王は内宮に来るのでしょうか。『皇太神宮儀式帳』は湯貴より後のことは記していません。普通に考えればあってもおかしくなく、近代に神宮が発行した神宮概説書『神宮要綱』(1928年)にも、遷宮の後に奉幣儀があったことが記されています。しかし、『神宮要綱』には、この奉幣は永禄遷宮、

つまり永禄六年(1563)に再興された外宮の遷宮から始まったのだとしています。つまり古代には遷宮の後の奉幣は無かったというのです。
一方、平安時代後期に成立したと見られる、神宮の記録書『太神宮諸雑事記』には、延暦四年(785)の遷宮が風雨のため18日に行われ、斎王も参加したことが記されています。ところが斎王は、翌日には離宮の豊明、つまり宴に参加して、そのまま斎宮に帰ったとしているのです。これが悪天候で延期になった結果なのか、やはり斎王は内宮への再度の参詣はしなかったのかは、この時期の『諸雑事記』の記事の信ぴょう性とともに、なかなか判断がつかない所です。
いずれにしても、遷宮祭祀における斎王の最大の任務は、旧殿に対して最後の拝礼を行うことだったことは間違いないようです。

 そして二つ目の問題点は、外宮の遷宮祭に斎王は参加していたのか、ということです。『止由気宮儀式帳』にも遷宮行事についての項目がありますが、それによると、9月13日、14日は正殿の装飾に費やされ、15日には遷御が行われます。内宮に合わせるのであれば、14日に斎王が旧殿に拝礼をするはずなのですが、どうやらそれについての記述はないようです。外宮の遷宮の後でも湯貴が供奉されるとはありますが、やはりそれ以上の記述はありません。どうも外宮の遷宮祭に斎王が参加していたとする積極的な証拠はないようなのです。しかし、そう考えると遷宮というきわめて重要な年の神嘗祭には斎王は参加しなかった、ということになり、これも不審な所です。
 このように、いわば天皇の代理として伊勢に来ている斎王なのに、遷宮の関係については、意外にわからないことが多く、これからの研究課題となっているのです。

榎村寛之

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