第12話  『伊勢物語 狩の使と斎宮』の少しマニアックな楽しみ

 『伊勢物語 狩の使と斎宮』という展覧会を開館20周年、国史跡指定30周年記念の特別展として開催しています。文献・絵画・考古の三つの視点から『伊勢物語』の斎宮関係の章段をご紹介しようという試みです。
 この展覧会の準備を通じて実感したことは、「『伊勢物語』って、鎌倉時代の人にも古典やったんやなぁ」ということでした。
 私たちはなんとなく、古典という名で、『伊勢』も『源氏』も『枕草子』も『平家物語』も『徒然草』も、場合によっては、『好色一代男』も『南総里見八犬伝』も括っているように思います。
 しかし現実には、鎌倉時代の貴族にとっても、『伊勢物語』は注釈がないと読めない本でした。まさに古典だったことがよくわかります。特に斎宮を媒介にするとそのことがはっきりするのです。
 鎌倉時代の斎宮の実態は、発掘調査ではまだ具体的にわかっていません。
 斎王制度は、平安末期、高倉天皇の時代の惇子内親王が承安二年(1172)に斎宮で急死した後、次に選ばれた功子内親王が治承三年(1179)正月に野宮から退出します。ところがその年の十一月には平清盛による後白河法皇を幽閉するクーデターが起きて、その翌年には安徳天皇が即位して福原に遷都、一方以仁王の令旨を受けて源頼朝、義仲が挙兵。その翌年には、平宗盛をトップとする平氏政権が成立するものの福原から京に還都し、平清盛も死去します。さらに寿永二年(1183)には平氏の都落ちとともに安徳天皇は西国に逃れて後鳥羽天皇が即位、つまり天皇が二人いる状態となります。そしてこの間は斎王すら置けないのですが、文治元年(1185)、壇ノ浦の合戦で平氏が滅亡した後、後鳥羽天皇が即位すると、ようやくその代の斎王が選ばれるのです。
 この間に西行法師が来て、築地などわずかに残った斎宮のありさまを見て

 いつかまたいつきの宮のいつかれてしめの内にやちりを払はむ

と詠んでいます。西行が見たこの斎宮は現在の竹神社の位置にあったのではないかと推定されるのですが、文治元年以後の斎宮内院は別の所に営まれたらしく、よく分かっていないのです。
 また、斎王の儀礼についても、この中断期間中にかなり分からなくなっていたことが、藤原(九条)兼実の『玉葉』に記された、斎王発遣儀礼の混乱ぶりからもうかがえます。
 こうした時代に、藤原定家が『伊勢物語』の古写本の校合を進めて、私たちの今読める形の『伊勢物語』が出来上がりました。つまり今の『伊勢物語』は、「作者不明、藤原定家編」というのが正しいわけですね。
 ところがその定家ですら、『伊勢物語』の時代の斎宮の確たる情報をどの程度知っていたかははなはだ心許ないわけです。
 そして定家以後、さらに斎宮が衰退し、ついになくなってしまう時代の斎宮についての知識となると更に心許ないことになります。
 つまり「『伊勢物語』が古典化する時代には、斎宮の正しい姿はわからなくなっていた」ということなのです。
 従って、鎌倉時代から室町時代に編纂された伊勢物語注には相当なものがあります。例えば、冷泉注(定家の子孫の秘伝だと称する注)と言われる『伊勢物語知顕集』などの古注では、『伊勢物語』の作者は伊勢(875年頃生・938年頃没)で、業平(825年生・880年没  計算があいません)の最後の妻であり、斎王を手引きした女童「よひと」の成長した姿だ、とする説が語られています。また、「狩の使」は、神宮に捧げるための使だとしている本もあり、『伊勢物語懐中抄』では、「斎宮なりける女(『伊勢物語』の原文ではこう表現されている)」と「昔男(同)」があったのは斎宮ではなく「つきよみの宮」だとしています。こうなると、「斎宮」という言葉が、斎王と斎王の宮殿の両方を指すという基本的な知識すらわからなくなっていたのではないか、と勘ぐりたくなります。

 鎌倉時代や室町時代のこうした意識は、有職故実の先例主義とは異なり、多分に直感的なもので、実証的という感覚とは大きくかけ離れたものでした。
 そうした中で、正しい斎宮の姿は急激に忘れられていったのではないかと考えられます。少なくとも、近世初頭に描かれた(ということは、室町後期の情報を元にして構図が決められた)嵯峨本では、斎宮はどんなところかは全くわかりません。また、現存する斎宮関係最古の絵画情報である『異本伊勢物語絵巻』(模本 東京国立博物館蔵 原資料鎌倉時代成立)では、斎宮は門や回廊や築地のある寝殿造り風の建物で描かれていますが、柱の下には礎石があります。
 つまり、平安時代の斎宮についての情報の多くは、鎌倉時代にはかなり失われていたのではないかと思われるのです。そうした中で『伊勢物語』の理解は進められて行きました。従って、そこで語られた斎宮とは、元の斎宮の姿とは大きく異なるものとなっていきました。
 こうした斎宮の衰退の結果、「伊勢」が作者だから『伊勢物語』だとする説や、伊勢は「男女」の意味だとする『伊勢物語髄脳』などの説を生んだのではないかと思います。そして現在に至るまで、『伊勢物語』の題名の由来がわからない、ということになったのでしょう。
 ところが発掘調査では、九世紀後半、つまり、もともとの『伊勢物語』の作者が「斎宮」という文字を書き下ろした時点での斎宮の姿が明らかになったのです。
 それは直線道路で区画された巨大な「街」でした。
 伊勢物語の原文では、「斎宮なりける女」は、「人目しげければえ会はず」つまり人目が多いので男に会うことができなかった、としています。このフレーズは重要で、これこそが当時の斎宮と『伊勢物語』の作者を結ぶ唯一の言葉、つまり狩の使が訪れたのが、発掘調査で明らかになった「規模の大変大きい斎宮」だったことを示す証拠となるのです。『伊勢物語』の作者―それが誰かは分かりませんが―が「斎宮」と書いた時、その頭の中にあるのは、数百人の人間が関わる広大な行政施設だったに違いないのです。
 ところが、鎌倉時代以後の伊勢物語読者にはこれが伝わらず、その時代その時代の『伊勢物語』の読み方が形成されていきました。そして能や浄瑠璃、歌舞伎にも『伊勢物語』は取り入れられるようになりましたが、その中で注目されたのは、東下りや二条の后、つまり京、鎌倉、江戸などを連想させるような所を舞台にした物語だったのです。
 そしてこの認識は現代にも続いています。つまり私たちの『伊勢物語』の読み方は、鎌倉時代以後の読み方に強く規制されており、それは『伊勢物語』を古典として読んでいた人たちの視線を共有するものなのです。
 そんなことを考えさせる展覧会としても『伊勢物語 狩の使と斎宮』は企画されているのです。

(学芸普及課 課長 榎村寛之)

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