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作家略歴/作品解説

石崎勝基(三重県立美術館学芸員)

アペル,カレル (Karel Appel) 1921−

デンマーク,ベルギー,オランダの芸術家たちが第二次大戦後結成した〈コブラ〉の創始者の一人で,アンフォルメルの動きとも関わりを持つことになる。

1921年,オランダのアムステルダムに生まれる。はじめピカソとマティスに影響されたというが,1940年代末から 50年代初頭にかけて,コプラの他の画家たち同様表現主義的な作風を成立させる。児童美術を思わせるプリミティヴなイメージが,筆の動きを強調したマティエールと強烈な原色の対比で描かれる。ただし世紀初めの北方表現主義が常に暗い情念から出発していたのに比べると,アペルやコブラの画家たちの烈しさはより楽天的で乾いた性格のもので,原始的なるものの描出を目指している。以後のアペルのスタイルは一貫しており,同様の性格の彫刻も手掛けられる。1970 年代以降,画面はより平明なものとなる。 《母と子》(no.28)は1952年,コプラの解散とアンフォルメルの定着の時期に制作されたもので,日本にアンフォルメル施風を巻き起こした56年の「世界・今日の美術展」に出品された。大きく二人の人間が稚拙な形態と厚塗りの烈しい筆致で,補色である赤と緑の塊として描かれている。未分化の物質から形が生まれたばかりの,一切が烈しさの相にあった神話的な時間を再現しようとしたものと言えよう。心理の描写に主眼があったかつての表現主義とは異なり,物質としての絵具との交渉の内に作品が形成される点,戦後のアンフォルメルと一致している。

●田淵安一「カレル・アペル パリの新人2」『美術批評』45 1955.9
●富永惣一「芸術的断言―カレル・アペルについて―」『みづゑ』616 1956.11
●谷川晃一「都市の蛮人:カレル・アベル」『みづゑ』864 1977.3

アルトゥング,ハンス (Hans Hartung) 1904−

第二次大戦後の抒情的抽象を開拓した画家の一人。黒の線の運動による画風で知られる。

1904年,ドイツのライプツィヒに生まれる,35年以降パリに定住。1922年には独自に非具象に達する。滲み合う鮮やかな色の染みからなる水彩,一方インクのデッサンは水墨を思わせ,後のアルトゥングにおける線の用法が既に予告されている。30年代の作品では丸みを帯びた色面による単純な構成が主となり,その上をしばしば線が走り回ってミロとの類似を感じさせる。30年代末以降色面が地に後退するとともに,黒の線が自由に動く作風が確立される。50年代になると構成はより単純化され,黒の線は時に草叢状と化し,面に移行する傾向を示す。60年代の作品では線は糸のように細く,刻んだような白に反転し,色彩は暗く透明なものとなる。画面は極度に洗練されて耽美的な工芸と化す。こうした歩みは,やはり黒を愛用したスーラージュのそれと平行している。

《T−1948》(no.15)は1951年のサロン・ド・メ日本展に出品された作品で,白の地が見えていること,紫や青などの色画の色の薄さと水平に動く筆致が,画面に軽やかな明るさを与えている。その上を黒の線が斜めに,あるいは螺旋に運動する。マチウ(no.27)の場合と異なり,身振りの烈しさも絵具の物質感も感じさせないその線は,あくまで優雅である。その快いリズムは,アルトゥングの作品にしばしば〈音楽的〉との形容が与えられたことを肯かせる。

●アルトゥング,岡本太郎他「座談会 現代絵画の課題と方向」『みづゑ』577 1953.9
●和由定夫「ハンス・アルトゥングの抽象絵画」『みづゑ』875 1978.2

アレシンスキー,ピエール (Pierre  Alechinsky) 1927−

アペルとともにコブラの中心メンバーの一人であった。書的(カリグラフィック)な線によって画面を構成する作風を示す。

1927年,ベルギーのブリュッセルに生まれる,51年以降パリに定住。ブリュッセルの建築装飾美術学校で学んだ書籍の装丁・印刷術は,後の彼の歩みの基底となった。他のコブラの作家たち同様,具象的なイメージは必ずしも失われないが,線が主要な役割を果たす画面は平面としてのまとまりが強い。40年代末の大まかな色面による構成から,50年代前半には明るい線状の記号が画面全体を覆って抒情を醸す。50年代中葉に記号を縁どる線が強調されて木の根状のイメージが縦横に走り,60年前後以降線はよりダイナミックに,色彩はより明るくなり,同国の先人アンソールを連想させる。文人画風の線の比重が大きくなり,しばしば画面は複数のコマに分割される。

 《夜》(no.31)は,1955年彼が書道の映画を撮影するため来日した際,二科展に出品された。この時期のアレシンスキーにあって書への関心は,アルトゥング(no.15)やマチウ(no.27)のような運動する線としてではなく,記号状の短い線によって画面を埋めていた時期のモンドリアンやクレー,あるいは後のジャスパー・ジョーンズ(no.45)に通じる,非焦点(オール・オーヴアー)な平面構成に生かされている。黒の地をいまだ形にならない白い線が均一に分割していく。垂直水平に抑えられた中での線の動きが,静謐な内の囁きを感じさせる抒情的な作品である。

●エドゥワール・ジャゲール「エクリチュールの線影―アレシンスキー論」末松正樹訳『みづゑ』604 1955.11
●アレシンスキー「日本の書道」『藝術新潮』72 1955.12
●ピエール・アレシンスキー「時間と線」『藝術新潮』122 1960.2
●アレシンスキー『自在の輪』叢書創造の小径 出口裕弘 訳 新潮社1976

近藤竜男 (Kondo Tatsuo)  1933−

明度が変化する単色の画面を対角線で区切った一連の作品で知られる。いわゆる色の場による絵画(カラーフィールド・ペインティング)とも単色(モノクローム)絵画とも異なる,その微妙な空間は「抽象の印象主義」(中原佑介)とも評される。

1933年,東京に生まれる。55−56年,機械の部品を思わせる形態をダイナミックに配した,シュルレアリスムの影響を示す抽象作品で画歴が始まる。50年代後半から60年頃にかけて形象は分解され,画面も整理されていく。61年渡米,以後ニューヨークを中心に活動する。63年頃より小画面をつなぎ合わせた作品,65−66年には彩色した立体を手掛けたという。67年には画布の前に物を吊し,同時にその影を描き込んだ作品を制作した。69年から対角線のある単彩の連作を開始する。74年には画面に垂直の帯を配した作品や,絵肌のマティエールに変化をつけた作品も発表されたが,82年の個展では対角線による構成のヴァリエーションに集中した。87年の個展では,対角線に弧を付した作品が発表される。

《三本の対角線:グレー》(no.92)は82年の個展に出品された作品で,イメージも形もない画面に濃淡の推移によって平面ならぬ茫漠とした光に浸された空間が暗示される。自らは明度が一定である対角線の帯は,周囲に応じて転調するかのように錯覚させつつ,画面の骨格の役割を果たすと同時に,垂直水平に比して斜めであること自体が孕む多義性及び深みへの傾向が,空間の広がりを保証する。パネルの繰り返しによって生じるリズムは,画面の完結性を相対化しながら,時間の周期を生み出している。

●近藤竜男「埋められない空白のなかで」『美術手帖』344 1971.7
●早見尭「反構成的〈構成〉への姿勢」『美術手帖』495 1982.4
●『近藤竜男展』図録 南画廊 1974 同東京画廊他 1982 同東京画廊他 1987

シケイロス,ホセ・ダヴィ・アルファロ (Jose David Alfaro Siqueiros)1896−1974

リヴェラ,オロスコとともに現代メキシコの壁画運動を代表する画家の一人。 1896年,メキシコ北部のチワワに生まれる。彼の画家としての経歴は,亡命,入獄などを含む政治活動と一体となっている。1920年代初頭に始まる壁画運動は,芸術を大衆のものにするという主旨のもと,スペイン侵入以前の美術や大衆美術の導入,明確なメッセージを持ち,シュルレアリスムから取り入れられた寓意的な図像,量感を強調した人体のデフォルメ,激しい色彩,誇張された遠近法などによって,烈しい表現主義的な様相を呈していた。画面をはみ出るようにして視る者に直接訴えかけようとするその特性は,常に通俗化への危険を孕みながら,自家中毒の傾向が強い現代美術の中で異彩を放っている。シケイロスは運動中,最もダイナミックな作家であった。

シケイロスの描く世界において,人間像を巡る系列と並んで,自然を主題とした作品群も決して小さくはない位置を占めている。1955年の制作になるこの《絵画》(no.34)は,右上から左下になだれ落ちる流れのみで画面を覆い,殆んど非具象と化しているが,朱を中心に焦茶,灰色などによる濃厚で溶かし合うかのような色彩と平滑な絵肌は,シケイロス特有の熱気を発している。単なる風宗でも抽象でもない,生ける自然のダイナミズムを表現しようとしたものであろう。

●北川民次「シケイロス 人と作品」『みづゑ』582 1954.2
●利根山光人『シケイロス』ファブリ世界名画集57 平凡社 1970
●「シケイロス展」図録 東京セントラル美術館,兵庫県立近代美術館 1972

シュヴィッタース,クルト (Kurt Schwitters)  1881−1948

ダダの運動に参加した作家の一人だが,他のグループからは孤立してハノーヴァーで活動していた。独自のコラージュによるその作品を〈芸術〉たらしめんとした点でも,反芸術的な方向を進めた他のダダイストたちと異なっている。

1887年,ドイツのハノーヴァーに生まれる。初期の絵画は表現主義やキュビスムに影響されたものであったが,1918年以降,〈メルツ〉がその製作の中心となる。これは紙屑,木片,布切れなどの廃品を貼合わせるもので,〈メルツ〉の語は偶然コラージュの表面に現れた〈コメルツ〉の後半から名付けられた。偶然に選択された屑はものとしての存在を主張する一方,構成要素として画面の中に場所を与えられ,そこに独自の抒情が生まれる。構成主義や友人アルプの影響を受けつつ,メルツはコラージュ,絵画から建築〈自宅),彫刻,音声詩,雑誌にまで拡大され,第二次大戦後のアッサンブラージュやオブジェを先駆けた。

死の前年に制作された出品作(no.14)は典型的なメルツ・コラージュで,郵便物や広告,模様紙などが切ったり,手でちぎったりして貼合わせられている。作品のタイトルである「ミランズ・パーク」の語も逆さで中央左下に見える。色彩は抑えた調子に統一され,紙片の形も直線的なものが主となった構成主義的な清澄さ,それに〈もの〉が引きずってきた含み(コンノタシオン)が溶け合って,作品に静かな詩情を与えている。

●「特集 クルトシュヴィタース」『みづゑ』670 1961.2
●乾由明「クルトシュヴィッタースと… 廃品のイリュージョニズム」『美術手帖』325 1970.3
●『シュヴィッタース展』図録 高輪美術館,西武美術館 1983

スーラージュ,ピエール (Pierre  Soulages) 1919−

かつての幾何学的抽象に対して,第二次大戦後の抒情的抽象を代表する作家の一人。シュナイデル,アルトゥング(no.15)とともに黒の使用で並び称せられたが,シュナイデルの烈しい動勢,アルトゥングの優雅な線と異なり,スーラージュの建築的な空間は構成主義に接近する要素も備えている。

1919年,南フランスのロデスに生まれる。この地方に豊富なロマネスク美術が彼の出発点となっていることは,本人も認めるところである。初期の風景画で既に,葉の落ちた樹のある冬景色を好んで描いたという。1946年から画面が非具象になり,骨太な黒の書的(カリグラフィック)な線によって記号が形作られる。40年代末から線はより太く,地の比重が少なくなり,建築的構成が重視される。50年代末になると黒はもはや線ならぬ面と化し,より自由な動きを示す一方,地の色彩は鉱物的な透明さを得る。60年代末以降,黒の面は流れるような処理を施され,より静穏な構成が達せられる。

《絵画》(no.46)はしばしば〈建築的〉と評された時期の作品で,黒の線,というより板と呼べるような面が垂直水平に配されて重厚な画面をなしている。手の直線的な動きを示す筆致や随所に混じられた斜線によって生動感が与えられる一方,黒の線=面が画面上に積み重ねられていること,さらにその下に輝くような白の地が見えることが,作品の目的が,平面にできる限り即した形での空間の構成とそこに充ちる光の描出であることを物語っている。

●座談会「青とパリの画壇」『墨美』76 1958
●P.スーラージュ「わが創作の秘密」吉川逸治訳『藝術新潮』99 1958.3
●寺田透「抽象絵画の本ものと贋もの」1,2『藝術新潮』153 1962.9/154 1962.10
●「スーラージュがルーヴルで語る─ピエール・シュネーデルとの対話」辻佐保子訳編『藝術新潮』161 1963.5

田窪恭治 (Takubo Kyoji)1949−

概念芸術(コンセプチュアル・アート)もの派によって日本の現代美術に大きな里程標が設けられたところから出発して,70年代以降の新しい地平を切り開きつつある作家の一人。

1949年,愛媛県今治市に生まれる。田窪の活動はまず,71年から始まる〈イメージ裁判〉と銘打たれた一連の個展を中心としたイヴェントで幕を開ける。そこではイメージ裁判の名の通りイメージというものが持つ,己の外へ出ようとする指示性を批判しようとしたものと思われる。74年の『美術品陳列会』,76−77年の“Pack Event”でイヴェントに用いた小道具をケースに収めて展示したのも,今度はイヴェント自体が持つ意味性を皮肉ったものであろう。こうした芸術と日常を巡る概念芸術的な取り組みを経て,78年以降古木材と金箔を用いた作品が制作される。80年の金箔をかぶせた柱に手や足の跡を刻んだもの,82−84年の古材の金箔を着せた部分と蜜(ロウ)を塗った部分が対比された平面的なレリーフ,86年の個展では空間が取り入れられ,また古村そのものの比重が大きくなるなどの変化を示しつつ,金の持つ意味性と木のものとしての存在が戯れている。

《黄昏の女たち(83−1)》(no.105)は舟型に枠取りされた一連の作品の一つで,超越性をも安ピカをも暗示する金と,拾われてきた古材の時間を沈澱した〈もの〉の現実感とが緊張関係に置かれながら,木の不規則な形と直線の対比を,壁龕を連想させる正面性の強い枠の内に平面として完結させることによって,意味性を宙吊りにした,金でも古材でもなく〈造形作品〉としての存在感を祝る者に印象づけている。

●千葉成夫「田窪恭治個展 無を提示する行為」『みづゑ』860 1976.11
●「作家訪問 田窪恭治─自身からの逃走」『美術手帖』522 1984.2
●『田窪恭治展』図録 フジテレビ・ギャラリー 1984 同1986

ピニヨン,エドゥアール (Edouard  Pignon) 1905−

マルシャン(no.25)やサンジェ(no.24),クートー(no.26)とともに1950年前後サロン・ド・メの代表的な画家として日本では紹介されたが,彼ら同様その折衷的な甘さが批判されることになる。

1905年,北フランスのビュリ=レ・ミイヌに生まれる。まず坑夫として,以後兵役をはさんで転々と職を変えるかたわら,絵を描き続け,1932年サロン・デ・ザンデパンダンで初めて作品を公にした。初期の作品は,キュビスム的な処理を示しているが,その大まかな形態分析は友人ピカソの影響とともにアンドレ・ロートやジャック・ヴィヨンのようなキュビスム後衛とのつながりを感じさせる。1940年代後半になると,平面化の傾向が進み,それとともに色彩の調和が顧みられ,マティスの影響を示す。1950年代前半以降,線はよりダイナミックに,色彩の対比は強くなり,時に画面は殆んど非具象の柏を呈するが,その場合でも具体的な主題への関心が失われることはない。

《オスタンド港の防波堤》(no.23)は,1951年サロン・ド・メ日本展に出品されたもので,47年以来のオスタンド港を描いた一連の作品の一つである。この連作では単純化,平面化の傾向が最も推し進められ,港の風景と人物は一見して捉えられないまでに直線と弧に還元されている。線のリズムによる構成とグレーから濃褐色に至る抑制された色調は,力強いとは言えないにしても,フランス独得の瀟洒さを示している。

●和田定夫「現代フランス画家論5 エドワール・ピニヨン」荻須高徳「ピニヨンのアトリエ対談」『みづゑ』552  1951.8
●植村鷹千代「ピニヨン」『美術手帖』84 1954.8
●『エドワール・ピニヨン展』図録 西武百貨店 1971

マチウ,ジョルジュ (Georges  Mathieu) 1921−

運動としてのアンフォルメルの推進者の一人。ラゴンによれば「抽象芸術のサルバドール・ダリ」である。

1921年,ドーヴァー海峡に面したフランスはブーローニュ=シュル=メールに生まれる。1940年代なかば,滲んだかのような色の染みに不定形な線を配し,緊張した不安感を漂わせた作風を経て,40年代末にはマチウ独自のスタイルが確立する。平坦な単彩の地に,数色で烈しい動きを伴う線描が施される。速筆の署名を思わせるその記号はしばしば東洋の書と比較されたが,そこでは既存の意味や形を廃し,新たな意味や形がそこから生まれるべき,意味にも形にもなる以前の原記号が求められたのである。他方烈しい身振りによる制作は公の場で演ぜられ,唐代の撥墨家を想起させつつ後のハプニングを先駆けた。展覧会の組織者,理論家としても活躍した。しかし作品そのものは均整の働いたもので,60年代なかば以降,紋章風の工芸的なものに硬直することになる。マチウ自身,図案をタピスリー,ポスターなどに用いている。

《青と赤》(no.27)では,青を僅かに混じた黒の地に赤と青を主にした線が烈しく走っている。線の動きの烈しさをそのまま身体の身振りの烈しさと感じさせる点,作品としての止揚が不充分と見なされ,また或る中心から周囲にバランスよく延びる線の動きには,名人芸的な身振りが顔を出している。しかし未分化の空間に亀裂が生じ,存在が分節化するさまを表したものと解せられるその画面は,フォンタナ(no.52)とも比較することができよう。

●G.マチウ 聞く人・今井俊満「書道との対決」白井浩司訳『藝術新潮」94 1957.10
●滝口修造「ジョルジュ・マテユー」『三彩』92 1957
●滝口修造「記号について2」『みづゑ』622 1957.5

マルシャン,アンドレ (Andre Marchand)  1907−

20世紀美術を作り上げた巨匠たちと戦後の新しい動きとの間にいた中堅画家の小人で,現代美術がもたらしたものとフランス美術の伝統を綜合しようとした。

1907年,南フランスのエクス=アン=プロヴァンスに生まれる。故郷の巨匠セザンヌに感化された初期を経て,1950 年頃までのマルシャンの画風は,ピカソの影響を示す単純化された形態を中心に,マティス風に平面化された画面のもので,第二次大戦中の作品の沈黙の内の緊張感が戦後になるとより穏和なものになる。1950年代以降,具象的な要素と抽象的な要素の重ね合わせが計られるが,装飾化してしまうことが少なくない。終戦後にはピカソの後継者とみなされたともいい,日本でもサロン・ド・メを代表する画家として広く知られていたが,時代を生き永らえることはできなかったようだ。

《日光浴》(no.25)は,1951年のサロン・ド・メ日本展に出品されたもの。朱の輪郭を施した黒の人物はこの時期のマルシャンの作品にしばしば現れ,ピカソに由来するものであろう。背景はグレー,青,緑の色面に抽象化されているが,その分析は犀利なものとは言い難く,人物と背景も平面として一体になっていない。良かれ悪しかれこの時期の中堅画家の限界,そしてフランスならではのモダンで節度ある魅力を示している。

●アンドレ・マルシャン「眼 マチス訪問記」市原豊太訳『藝術新潮』8 1950.8
●荻須高徳「アンドレ・マルシヤン会見記」『みづゑ』546 1951.4
●津山 昌「個我意識の限界─マルシャンの絵について─」『美術批評』35 1954.11

リオペール,ジャン=ポール (Jean−Paul  Riopelle) 1923−

アンフォルメルの運動に参加した代表的な画家の一人。濃密で多彩な色彩が万華鏡のように散らされた画風で知られる。

1923年,カナダのモントリオールに生まれる,47年以降パリに定住。シュルレアリスムとその自動記述(オートマティスム)の理論への関心からアンドレ・ブルトンに接近するが,やがてそこから離れる。46年には色の染みによる抽象的な画面を制作している。40年代末,チューブから直接画布に絵具を塗り付ける技法は既に成立しているが,この時期の画面全体に散った荒々しい色の塊は,50年頃からより細かいモザイク状のものとなり,その上をやはり多色の細い線が非焦点(オール・オーヴアー)に走って,ポロックとの類似を感じさせる。しかしポロックと異なる点は,その濃密な色彩である。50年代中葉から色のモザイクは再び大きくなるが,板状のものとなって平面性に即している。 50年代末画面は烈しさを増し,60年代末にはその中から具象的なイメージが復活してくる。やはり濃密な色彩の上に黒い線が花模様のように散る水彩の他,彫刻も制作している。

《絵画》(no.37)では赤,緑,黄,青などの厚いモザイクがパレット・ナイフで画面に散乱させられており,その上を細く長い線がやはり無統一に走っている。混沌たる様子はしかし,特定の焦点が無いためにかえって画面に平面としての統一感を与え,色と色とを交響させる。ポロックのやはり非焦点(オール・オーヴアー)な作品に比較すると,線より色の比重が大きい分,色彩の濃密さが孕む探さの暗示が平面としてのまとまりを弱めているとも言えようが,その深みと平面との緊張がめくるめく眩惑をもたらすのである。

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