第110話  大河ドラマ『光る君へ』によせて(その1)

斎宮千話一話 大河ドラマ『光る君へ』によせて(その1)
 新年おめでとうございます、本年も斎宮歴史博物館をよろしくお願いいたします。
さて、今年の斎宮周辺の話題は、何と言っても大河ドラマ『光る君へ』で、平安時代が本格的に取り上げられる、ということでしょう。そこで『千話一話』も、紫式部の生きた時代の斎宮関係エピソードをいくつか取り上げてみたいと思います。
まずは、紫式部が生きていた一条天皇の時代の斎王、恭子女王について、少し気が付いたことを。
 斎王恭子女王は、一条天皇の即位に合わせ、寛和二年(九八六)に斎王に卜定され、永延二年(九八八)に斎宮に群行しました。父は為平親王です。為平親王は村上天皇の皇子、母は中宮藤原安子で、冷泉天皇(皇太子憲平親王)の同母弟。憲平皇太子は色々問題があったので、村上天皇が、即位の後は皇太弟にと思っていた人でもあります。
 ところが村上天皇の急逝によって康保四年(九六七)に冷泉天皇が即位すると、東宮は同母弟の守平親王となりました。冷泉天皇の女御には権大納言藤原伊尹の娘、懐子がおり、関白藤原実頼(伊尹の父、故右大臣師輔の兄)ら摂関家の意向が強く働いていたと考えられます。というのも、為平親王の妻は左大臣源高明(醍醐天皇の皇子)の娘だったからです。そして高明は安和二年(九六九)に為平親王を担いで冷泉天皇廃位を企てたとして、大宰権帥に左遷されてしまいます(安和の変)。そして為平親王は後見を失い、天皇候補からは外されていくのです。

 さて、為平親王には二人の娘がいました。一人は冷泉天皇の子、花山天皇の女御となった婉子女王です。しかし彼女は花山天皇がわずか三年で退位したことにより、子供を儲けないまま女御の座を退かざるを得なくなりました(その後に彼女は日記『小右記』で有名な藤原実資の妻になっています)。もう一人が恭子女王です。そして婉子女王は、恭子女王が三歳で斎王になる前に女御を降りているのですから、恭子女王とは十歳以上年の離れた姉妹ということになります。二人が姉妹だったことは、『栄花物語』にも記されているので裏付けが取れるのですが、村上源氏関係の系図では二人の母はともに源高明の娘(名不明)だとしています。高明の娘ということは、藤原道長の次妻(第二位の妻)であり、大納言能信らの母の源明子の姉妹(おそらく姉)ということになります。明子の母は藤原師輔の五女の愛宮ですが、婉子・恭子女王の母は愛宮の同母姉妹ではなく、その姉の師輔三女のようです。この人は藤原伊尹・兼通・兼家・安子の母でもあるので、兼家の子の道長から見ると叔母にあたる人、つまり恭子は藤原師輔の孫で、道長の従妹でもあったのです。
そして、一条天皇が即位した時、じつは周囲には独身の内親王はほぼいませんでした。花山上皇は男子のみ、円融上皇の子供は一条天皇一人、冷泉上皇には二人の皇女がいましたが、このころに若くして亡くなっています。つまり、恭子女王は唯一の頼みだったらしいのです。
 さて、恭子女王の群行については、当時藤原実資は天皇の秘書官の蔵人頭なのでかなり詳しく書いています。なにしろ恭子女王は数え五歳、一条天皇も数え九歳で「別れの小櫛」(博物館の映像展示『斎王群行』をご参照下さい)の儀式をしなければならないから、いわばアシスタント役が重要、そして摂政は藤原兼家で、父の師輔から九条流の故実(儀式次第)を受け継いだ立場なので失敗はできないわけです。

そのためか、実資の日記『小右記』には出発までの記事が割合に出てくるのです。しかし、伊勢に旅立ってから約20年、恭子女王のことは『小右記』にも藤原道長日記『御堂関白記』にも藤原行成の『権記』にも全く出てきません。そのため、在任期間の長さのわりに極めて記録の少ない斎王となっているのです。特に記録がなかったのは、その間に特筆すべき事件もなかったからなのでしょう。神宮側の記録集である『大神宮諸雑事記』にも一条天皇の時代には遷宮と内裏焼亡に関する記事があるだけで、斎王のことは全く出てきていませんでした。
 そして、一条天皇の時代はずっと伊勢にいて、1010年に父、為平親王が亡くなり、喪になったことで退下します。帰京についての資料は『日本紀略』(平安後期に私的に編纂された略本歴史書)には出てきますが、普通ならいつ帰ってきた、とかどこに入ったなどを記す貴族日記、例えば『御堂関白記』や『権記』にも出てきません。というのも、帰京の直後に一条天皇が急逝し、さらに冷泉上皇まで続いて亡くなるという大事件が連続していたのです。おそらくそれどころではなかったようです。
この時代には、普通に帰京した斎王は、母や姉妹が庇護していたようです。しかし彼女の場合、婉子女王はすでに没しており(喪にはなっていない)、おそらく母(源高明の娘)もすでに亡くなっていたと思われます。そのため頼りになる人は、兄弟の源憲定(従三位右衛門督)、頼定(正四位下参議)などしかいなかったと考えられます。

ところが頼定は、以前皇太子居貞親王(つまり三条天皇)の妃で藤原道長の異母姉妹の藤原綏子(やすこ)に密通して子供まで作ったというスキャンダルがあり、さらに一条天皇の女御だった右大臣藤原顕光の娘、藤原元子に通ったこともこの年に露見しているので、なかなか大変な人のようです。
ならば後見人は憲定あたりかなあとも思われます。このくらいの地位の人はなかなか記録に残りにくいので、情報が少ないのかなぁと思われます。なお、憲定は1017年に亡くなりますが、頼定は後一条朝に正三位参議にまで昇進しているので、長生きしていれば彼の庇護下に移ったかもしれません。
どっちにしても紫式部が『源氏物語』を書いていた時代に恭子女王に会えた形跡はないわけで、彼女が『光る君へ』に出てくるとすれば、まひろ(紫式部)が斎宮に行くような話が創られた時だけですね。
 さて、どうなりますか。

榎村寛之

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