第108話  多気と大淀と斎宮と

斎宮跡がある地域は、古代には何と呼ばれていたのでしょうか?
『倭名抄(倭名類聚抄)』という本には、全国の郡郷地名が掲載されており、大変便利です。編者は斎宮にも来たことがある歌人貴族の源順で、承平年間(だいたい930年代)に作られたとされています。ただし『倭名抄』には十巻本と二十巻本があり、二十巻本に郡郷名が掲載されているのですが、一説にはこちらは後補されたものだとか。
 いずれにしても、平安時代中期から後期の全国の重要地名が掲載されていることは疑いありません。
 その中で伊勢神郡については、多気郡7郷、度会郡12郷としています。そして多気郡に隣接する飯野郡は6郷になっています。しかし度会郡に関して言えば、陽田郷という郷が古写本によってはないことがあり、また正式な郷ではない駅家郷(厩を維持するために置かれた駅戸の集団)も数えられているので、本来は10郷とも考えられます。
 九世紀初頭に作られた伊勢神宮資料『皇大神宮儀式帳』には、多気・度会郡は孝徳朝、つまり645年頃に、それぞれ十郷をまとめて郡にして、その後天智朝の664年に、多気郡の4郷を分割して飯野郡を造ったと記されています。つまり、多気郡6郷、度会郡10郷という構成は、立郡以来300年以上を経ても変わっていないように見られます。対して飯野郡は櫛田川下流域の氾濫原で、また神郡ではなく公郡とされたこともあり(889年に伊勢神宮に寄進され、ふたたび神郡となります)、開発が進んで人口が増え、郷が分割された可能性があります。また、多気郡も櫛田川下流域なので、そのあたりで1郷増えている可能性があります。
 それはともかく、今日のお話は、多気郡ができた当初から、斎宮周辺の地形がずいぶん変わっているらしい、ということから思いついたものです。
 多気郡を構成する郷の中で、現在の地名と対応するのは相可(おうか)、多気(たけ)、有弐(うに)、麻績(おみ)、櫛田(くしだ)の五郷です。このうち相可は、現在の多気町多気・相可・佐奈といった、櫛田川上流から佐奈川流域の、JR紀勢本線沿いの地域と見られます。
現在多気郡の多気駅は多気町にあり明和町ではありませんが、もともと多気はたけ=竹で、明和町の竹、つまり竹川・竹村という形で古文献に現れる斎宮周辺が本来の多気だったようで、地名が動いていることがよく分かります。
そう、古代の斎宮は、多気郡多気郷にあったようです。
 そして有弐は博物館から南東3kmあたりの「有爾中」を中心とした地名、麻績は北に3kmほどの「中海(なこみ=なかのおみ)」を中心としたあたりでまずまず間違いありません。ところが櫛田は、櫛田川流域とすると、飯野郡の領域に入ってしまいます。そして、近鉄線では櫛田駅は斎宮から西(松阪方面)に二駅ですが、途中の漕代は、飯野郡渭代郷に由来する地名なのです。
 櫛田川下流域は、飯野郡では渭代郷(井手郷)・長田郷がそれにあたり、黒田郷もその可能性があります。一方多気郡では、麻続・三宅・流田・櫛田などがその可能性の高い地域です。櫛田川水系は、西の金剛川・真盛川など松阪市東部の小河川から東の祓川まで広がっており、その間を暴れ川としてしばしば流れを変えていたらしいことが、地形図や地域の伝承からうかがわれます。祓川も今は川幅数メートルですが、江戸時代には渡し船があり、それが転覆したという記録も見られるので、もっと広い川だったようです。
 さて、こうした櫛田川下流域の変化は、私たちにおやっ、と思うような古代の謎を投げかけています。

 『伊勢物語』の主人公、在原業平とされる「昔男」が、斎宮から尾張国(愛知県西部)に向かった時に船に乗った「大淀の渡り」は、この連載でも何度かふれてきた斎宮の名所ですが、この大淀津がどこの郷に属するのかがわからないのです。
 大淀はその名の通り、淀み、つまり入浜のラグーンにできた港だと考えられます。それは現在の大淀漁港の北西、大淀西海岸ムーンビーチキャンプ場の西側の笹笛川沿い、今は大堀川新田と呼ばれているあたりに広がっていたものと考えられています。ところがこの笹笛川は斎宮跡の東側の低湿地を貫流する川で、櫛田川水系ではありません。祓川水系の河口域にある港は、『万葉集』や『日本書紀』などに見られる的形(まとかた)(的方)です。しかし的形もどの郡に当たるのかはよくわかっていません。
 例えば、『倭名抄』に、近代になって邨丘良弼という学者によって付けられた注では、大淀は麻績郷に属しているという記述を引用していますが、『三重県の地名』(日本歴史地名体系24 、1983年)では、大淀周辺に有爾町野という小字があることから、この地域も有弐郷に属したかとする、といった具合です。
もともと港は色々な人たちが出入りする所で、港湾都市になる可能性が高い地域です。そのため、学術的な言い方をすると、どこにも属さない無主、無住の地として始まったのかなとも思われます。とすれば、大淀が有名な地名なのにどこの郷かはわからない、という説明はつきます。現在も大淀は山大淀、東大淀、三世古(中大淀)の三地区からなり、東大淀は伊勢市、つまり度会郡に属しています。まさに神郡の境界線にある港ということができそうです。
しかしそれだけでは面白くないので、一つ仮説を。
『延喜式』の「斎宮式」に見られる、斎宮祈年祭に班幣、つまりプレゼントを受ける多気郡の神社の中に、大與杼社という名を見ることができます。おおよどのやしろと読め、大淀にあった神社だと考えられます。ところがこの神社が、同じ『延喜式』の神名式、つまり全国で祈年祭に班幣を受ける神社のリストでは、竹大與杼神社、すなわち竹の大淀神社となっているのです。
 この「竹」と付くのは、「多気郡の」の意味とも理解できますが、『斎宮式』では竹上社、竹仲社、竹佐佐夫江社、大與杼社の名が、また『神名式』では、竹神社、仲神社、竹佐佐夫江社、竹大與杼神社の名が見られます。つまり、竹(上)社・(竹)仲社・竹佐佐夫江社、竹大與杼神社の括りができるのです。
多気=竹の名は『儀式帳』に見られる「五百枝刺竹田国」に由来しています。その地域支配者が竹連で、その祖先の吉比古が倭姫命の巡幸の時、佐々牟江行宮に現れたとしています。これはあくまで伝説ですが、佐々牟江、つまり笹笛の地の神社が「竹佐佐夫江」社としていることは十分気を付けておくべきことだと思います。竹に上社、仲(中)社があるなら、当然下社もあるべきで、それが竹佐々牟江社・竹大與杼社だった可能性が高いのです。とすれば、竹佐佐夫江社、竹大與杼社はともに、江と淀の社、つまり同じ港に関係した社だったと見ることができます。鎌倉時代の『倭姫命世記』では佐々牟江と大淀を別の場所にしていますが、『儀式帳』には大淀は出てきません。あるいは本来、大淀は佐々牟江の別名だったのかとも思われるのです。
 そして、このよう考えれば、祓川の下流域から大淀浦の西側にかけての一帯は、本来竹連の支配領域に属し、麻績郷でも有弐郷でもなく、竹連が支配する多気郷に属していたという見方もできるのではないかと思うのです。
 竹連、あるいは竹首と言われる氏族はこの地域の有力氏族だったと考えられますが、多気郡の郡司として記録されている者はいないようです。あるいは竹氏は、斎宮から大淀の、斎王の禊のルートを確保する氏族で、祓川河口(現在の明和町下御糸、北藤原あたり、ただし古代には海岸線はもっと内陸だったかもしれない)に隣接する港湾の整備と維持管理を請け負っていた、斎宮に直属した地域勢力なのかもしれません。
 大淀と斎宮は『伊勢物語』でも知られる縁の深い地域ですが、今回の秋の特別展「海の祈り―海浜の神社と伊勢神宮―」では、はじめて大淀の祇園祭を取り上げます。現代大淀の地域文化も、ぜひお楽しみください。




榎村寛之

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