第107話  神島と海のまつり

斎宮千話一話 107話 神島と海のまつり
 本年秋の特別展は「海の祈り」です。三重県で「海に関わる」所は限りなくありますが、伊勢湾上に浮かぶ神島はまず外せない所です。展示資料に関する調査に行った時のこぼれ話をひとつ。
 神島といえば、太陽信仰と関わるのではないかといわれる、正月元日早朝に行われるゲーター祭りが有名ですが近年は休止状態になっています。しかし二月に子供ゲーター祭りとして行われているのが心強い限りです。そしてこの島で外せないのは十二月八日の事おさめで流されるヤリマショ船です。これは男性二人ほどで持てる舟にカヤの束と賽銭と米をまとめた、島の人々からのお供えをたっぷり積み込んで海に流す、まさに祓の祭りなのですが、その船には「牛頭天王」と書かれた赤い旗が立てられます。
 おそらく室町時代に書かれた『簠簋内伝(ほきないでん)』という、暦に関わる書と言われる陰陽道系の本の中では、牛頭天王は大晦日に嫁とりに行く途中、宿を取りはぐれて蘇民将来(そみんしょうらい)という人の家に一泊し、その恩義によって、その村を滅ぼす災難から逃れさせたといいます。この話の中では、プロポーズの相手は「頗梨采女(はりさいじょ)」という竜宮の姫となっており、牛頭天王は竜宮に向かっていたということになるのです。
 ならば牛頭天王の旗を立てた舟は、本来竜宮に向かっていたのでしょう。三重県では、二見浦の松下神社が牛頭天王の聖地とされ、また斎宮の近くでも、牛頭天王を祀る祇園祭は盛んに行われています。特に明和町大淀での祇園祭は、山車を舟に乗せて港内を一周するという、愛知県の船を浮かべる祇園祭として知られる津島天王祭とも関係しそうな海の祭になっています。もちろん神島でも天王祭は七月に盛大に行われ、段ボールで作った手製ボート、ダンボートの競争が行われるとのことです。やはり牛頭天王の信仰はあちこちで海への信仰と重なっています。

無題 無題
無題 無題

そしてこの地域に共通するのは、年末に「蘇民将来子孫の家の門」と書いた木札を下げた注連縄を取り換え、一年中玄関先に飾るという風習です。大晦日に牛頭天王に見てもらい、翌年の災いを避けることを願うかのように。
 このように、伊勢志摩地域には牛頭天王信仰が生きていて、それが竜宮に関わる信仰と結びついていたらしいことがわかります。中でも神島のヤリマショ船には、蘇民将来の信仰が、今でも濃厚に息づいているようで、それはいつも海と共存して生きる人たちの、海難よけの信仰と深くかかわっているのでしょう。
 さて、神島の港で、自然石を並べたような不思議な石組を見つけました。八代神社で聞くと「荒神さん」を祀る場で、正月などの節句や祭りに必ずお供えをするとのこと。大きなアワビの殻もあり、ネットで調べると、六月に行われるアワビの「御供(ごく)あげ」の日には、ここと竜宮にアワビを捧げるとのことで、それって荷前(のさき、初物を神様に捧げる儀式)だなあと思いました。
さて、この荒神の自然石、明らかに波に削られたもので、ひょろりと背が高くて、なんだかそこにたたずんでいるような風情があります。連絡船の波止場廻りで二か所発見し(あと一か所あるらしいです)、一つは「捍海塘碑」とある石碑と戎神(えべっさん)の石像と並んでいます。ここはもともとの漁協の跡地とのことで、捍海塘とは「防潮堤」の中国的な言い回しのようです。つまり港の改修記念碑で、本来の港の中心だった所に荒神さんも祀られているようでした。

無題 無題
無題 無題

 さて、この不思議な自然石で思い出したことがあります。『日本文徳天皇実録(にほんもんとくてんのうじつろく)』、つまり六国史(りっこくし)の五番目にして、九世紀の文徳天皇一代の歴史書の斉衡(さいこう)三年(八五六)十二月戊戌条に、常陸国で起こった出来事として書かれている不思議な記事です。
 鹿島郡の大洗磯前(おおあらいいそざき)海岸で、夜に海が光り、朝になると海辺に二つの一尺(三十センチ余)の石があった。さらに翌日には小石が二十ばかり石の左右に落ちていた。この石は坊さんの姿に似ていて、目も鼻もないような形だった。そしてある人に神が憑いて、「我はオオナモチ・スクナヒコナの神で、かつてこの国を作り東の海に去ったが、今また人々を済度するために帰ってきた」と託宣した。
というもので、この神は『延喜式』では「大洗磯前薬師菩薩明神社」として祀られています。坊さんのような神さまということで、平安時代に見られた、坊さんの姿をした神像の「僧形八幡神像(そうぎょうはちまんしんぞう)」のように、オオナモチ・スクナヒコナ、つまり大国主命と少彦名命が仏教に帰依して薬師菩薩として帰ってきた、と理解されたようです。
さて、神島の荒神さんは、もちろん神様の場所も時代も神様の名前も違いますから、同様に考えることはできません。しかし面白いのは、えべっさんと並んで祀られていることです。もともと戎(恵比寿)とは夷、つまり異人であり、海の向こうからやってくる神として信仰されていたものです。それが転じて、記紀神話で海に流されたヒルコと同一視されたり、海岸に流れ着く色々なものをエビス神として祀ったりしていたようです。
そしてこの「荒神さん」の石は、たとえて言えば「ゲゲゲの鬼太郎」のねずみ男のような、布をすっぽりかぶって顔や体を隠した人の姿にも似ているように思えるのです。これは浜辺に打ち上げられていた石で、来訪神、つまり海の向こうから来た人型をした神として祀られたのではないでしょうか。

無題

無題

少し前の第二百話で、斎宮跡にあった庚申さんが「幸神さん」であり、サイノカミ、つまり境を守る境界神ではなかったか、ということを書きましたが、神島のサイノカミは、海の向こうからやってきて、幸神さんから荒神さんとなり、今も港を守っているのではないかなと思った次第です。
『日本書紀』の垂仁天皇紀の伊勢神宮成立記事に、「常世の波の敷浪寄する国」、つまり遠い海上の理想郷から波が寄せてくるという伊勢南勢地域、伊勢湾の向こうから波のよせる大淀の浦で、斎王も禊をしていたという伝統的な信仰の形が、竜宮信仰や蘇民将来伝説の形をとってこの地域では現在も息づいているようです。
(2023.8.9 榎村寛之)

榎村寛之

ページのトップへ戻る