第105話  斎宮と大高さんの関係

斎宮と関わりのある苗字といえば、斎宮の藤原さん、こと斎藤さんと、あちこちで言いまくっているうちにだんだん有名になってきて、本名(旧姓)が「サイトウ」さんの壇蜜さんをプロジェクションマッピングのイベントにお呼びしたり、近鉄のラッピング電車の斎王イメージモデルになっていただいたりと、近年では色々な機会に使われるネタになりました。
 そして今回は、斎藤さんの他にも斎宮に関係する苗字を見つけた、という話。
 先日、福岡市で、世界遺産「宗像・沖ノ島」の指定五周年を記念したイベント「ハルカムナカタキャンペーン」の一環として行われた「ハルカ・ムナカタ座談会」に参加してきました。その時に「静岡県富士山世界遺産センター」の代表として登壇されたのが大高さん、そしてファシリテーター(司会進行役)も九州国立博物館の大高さん、つまり大高さんが二人参加されていたのです。それだけなら「ふーん」、という話なのですが、お二人はかなり興奮されていたのです。曰く「大高さんが二人並ぶことは初めてだ。」
 大高さんってそんなに珍しい苗字だったのか・・・。
 総体に日本人は、よほど珍しい苗字でないと、苗字が同じということで親近感を持つことは少ないようです。例えば、佐藤さんや田中さんは同姓だからといって特にシンパシーは感じないと言います。しかしこの時は違いました。二人の大高さんは、富士山の大高さんが静岡県、福岡の大高さんは秋田県のお生まれだそうで、全く関係はありません。しかし面白いのは、子供のころは周りには大高さんが多かったのに、外に出てからはほとんど大高さんに会ったことがない、という同じ経験をされていたのです。だから余計に盛り上がったのでしょう。(ちなみに私は榎村という姓に出会うと興奮する方なので、大高さんの気持ちはわかります)

 さて、で、お二人とお話しているうちに、驚いた話が出てきました。どちらも、「うちは高(こう)氏の子孫らしい」とおっしゃるのです。高氏といえば、足利家の執事として活躍した家で、高師直は大変有名です。弟とされる高師泰、伊勢国守護になった高師秋などその一族とともに、南北朝時代の前半に大活躍をした有力武士で、足利家の執事として政治力を奮い、戦にも強く、文化人としても一流、しかもこの時代としては先例にとらわれない先駆的な考え方の持ち主で「ばさら大名」と言われた人ですね。『太平記』などでは徹底的に悪役として書かれており、赤穂事件を『太平記』の世界に置き換えた、歌舞伎や文楽でおなじみの『仮名手本忠臣蔵』では、幕府の筆頭権力者で、吉良上野介に擬せられています。
 しかし高氏の一族は観応の擾乱(足利尊氏・直義兄弟の対立に始まる内戦で、南北朝の戦いだけではなく、尊氏が南朝に付いたり、直義が南朝に付いたりと勢力関係が猫の目のように変わる内戦期間、師直と直義の対立が発端になっている)の中で滅ぼされてしまい、その子孫は歴史の表舞台から消えてしまいます。だから悪役に書きやすかったのかもしれません。
 ところが高氏の子孫は地方に土着していて、上に「大」をつけて「大高」氏を名乗ったというのです。つまりお二人の大高さんは高師直の一族の子孫だというのですね。
 さて、高というのは珍しい苗字ですが、実はもともとは「高階」氏です。高階氏は実在のたしかな最初の斎王、大来皇女の異母兄、天武天皇の長男の高市皇子の子孫です。平安時代になると氏の姓を一文字で書くのが流行った時期があり、藤原→藤、在原→在、菅原→菅などと表記されるのですが、どうも高階氏も高と略して、それがやがて苗字になっていったようです。有名な所では、『百人一首』の「忘れじのゆく末までは難ければ今日を限りの命ともがな」の作者、儀同三司母(ぎどうさんしのはは)、つまり関白藤原道隆の正妻で藤原定子、伊周の母は高階貴子(たかしなのたかこ)で「高三位」と呼ばれていました。
 そして、これも有名な話ですが、平安時代後期、おそらく12世紀初めころまでには、高階貴子の祖先の高階師尚が在原業平と斎王恬子内親王(つまり『伊勢物語』の斎王)の隠し子の子孫、つまり高階氏は斎王の子孫だ、だから師尚の子孫は伊勢神宮に顔向けができない、という言説が信じられるようになっていました。そして高階氏はこの師尚の系統しか残らず、現存する高氏の系図でも、師直の先祖をずーっと追いかけていくと師尚に行きつくようです。
 つまり、文人としても優れていた高師直は『伊勢物語』くらいは知っていたでしょうから、「俺は斎王と在原業平の子孫」という意識を持っていたのかもしれず、その子孫の大高さんは、斎宮と関係があるかもしれないのです。というわけで、シンポジウムの事前ミーティングの場は、二人の大高さんと斎宮の話を絡めて大いに盛り上がったのでした。
 というわけで、全国の大高さん、あなたのお家が高師直の子孫という伝承をお持ちなら、斎宮と関係するのかもしれませんよ。

なお、お二人は「大高と言えば大高源吾くらいしか有名人がいない」とおっしゃっていました。大高源吾といえば赤穂浪士の一人で、「大鷲文吾」の名前で『仮名手本忠臣蔵』にも出てくる有名人です。
浅野家に仕えたキャリアはそれほど長くありませんが、文人としても知られ、講談などの世界では、吉良邸討ち入りの日を決定づけた茶会の開催日を探り当て、松尾芭蕉門下の宝井其角とも親交があり、討ち入りの直前に「年の瀬や水の流れと人の身は」「明日待たるるその宝船」という歌のやり取りをしたなどのエピソード(実際はフィクションらしいのですが)が講談や新作歌舞伎でも語られています
 大高源吾も高師尚の子孫なら、「大鷲文吾か高師直を討ちに行く」とした『仮名手本忠臣蔵』の設定はなかなか皮肉に読めるなあ、と思ったのですが。インターネットで調べてみると、大高氏には三通りくらいの血統があり、どうも大高源吾は、秋田の大高氏の出身ではあるけれども、前九年の役で源義家に滅ぼされた奥州安倍氏の子孫とする伝承がある大高氏のようで、高階氏系の大高氏だという記述は出てきませんでした、残念。
 余談ですが、斎宮の立地する三重県多気郡明和町は、赤穂浪士とちょっとだけ関係があります。明和町役場の近く、馬之上という所に潮田家という旧家があります。その地にある、近代に治定された斎王隆子女王の墓の申請から顕彰や管理にも関わってきたという由緒の家なのですが、もともとは室町時代の伊勢国司氏、北畠教具の次男、大河内親郷に始まり、江戸時代に馬之上村の庄屋になったという家伝があります。そして『明和町史』などによると、この家の分系から赤穂浪士の潮田又之丞が出ているということです。というわけで、潮田又之条に加えて大高源吾と、二人の赤穂浪士と明和町との関係が言えるかな、と期待したのですが、こちらはなりませんでした。
さらに余談。伊勢守護になった高師秋は、伊勢国の支配をめぐって北畠教具の曽々祖父の北畠親房と戦っています。北畠氏は村上源氏の源師房の子孫、つまり長元四年(1031)に内宮の六月月次祭で託宣を行った(長元の託宣)斎王、嫥子女王の弟の子孫に当たります。嫥子女王は帰京後、関白藤原頼通の弟で関白を継承した藤原教通の継室になった人で、摂関家の一門ともいわれた村上源氏の家の確立に関わる重要人物といえます。
高氏と北畠氏の主戦場は多気郡内の神山城(JR参宮線の多気駅近く)など、多気郡近辺でした。
 まあ、それがどうした、という話なのですが、いわくのある斎王の関係者の子孫という意識を持っていたかもしれない人が斎宮の周辺で戦っていたのが少し面白かったので。
      (2023.3.17 学芸普及課 榎村寛之)

榎村寛之

ページのトップへ戻る