第104話  斎宮の大殿祭の話

斎宮の大殿祭の話
 『延喜斎宮式』には、斎宮で行われる、あるいは斎王が関わる色々な祭祀が出てきます。伊勢神宮で行われ、斎王の参加する三節祭(三時祭)、つまり九月神嘗祭(かんなめさい)と六月・十二月月次祭(つきなみさい)は有名ですし、斎宮で行われていたことはそれほど知られていないけれど、宮廷と対応する二月祈年祭(きねんさい)、十一月新嘗祭(にいなめさい)なども祭としては有名だろうと思います。しかしその他にもいろいろな祭がありまして、今回取り上げます大殿祭もその一つです。
 大殿祭は「おおとのほがい(正確には「ほがひ」)」と読みます。大殿祭は『延喜神祇式』では、宮廷で六月に行われ、伊勢神宮の月次祭と対応する神今食(じんこじき・かむいまけ)の時に行われる祭として出てきて、また十一月新嘗祭でも行われます。その祭には神祇官の中臣(なかとみ)・忌部(いんべ)氏の官人・宮主(みやじ)、御巫(みかんなぎ)などが参加し、忌部が用意した玉を殿の四隅に掛け、御巫が米・酒・切木綿(きりぬさ)などで祓と見られる所作を行い、中臣は待機するだけで、祝詞を詠むのは忌部です。このような所作は御殿(仁寿殿=じじゅうでん)、厠(かわや)殿、御厨子(みずし)所、紫宸殿(ししいでん)など(『延喜神祇式』による)でも行われます。
 その祝詞は「天孫降臨の時、皇御孫命の御殿を立てるため、奥山の木を斎部(忌部のこと)が伐り出して山神を祀り、神聖な鋤で神聖な柱を立てて御殿を造り、虫や鳥の禍もないようにしっかりとして、木の霊、稲の霊を讃えて天皇の世の繁栄を祈り、玉や幣を忌部に渡して寿ぐ」というもので、天皇のために立てられる建物は天孫降臨以来とくに聖別されるべきなので、悪いことが起こらないように行う祭、という感じです。本来、「おおとのほがい」とは「立派な建物(おおとの)を寿ぐ宴(ほがひ)」くらいの意味ですが、『日本書紀』などに記録される限りでは、神祇官の忌部が天皇のための建物にのみ行う宮廷祭祀です。ただし内裏だけではなく、中宮でも行われたようです。
 そしてこの大殿祭がよく『斎宮式』にも出てくるのです。
 初斎院に入る時の大殿祭(野宮、伊勢斎宮も准ずる)
六月・十二月の野宮月次祭の大殿祭
 群行の際、頓宮に入る時の大殿祭
 十一月新嘗祭の大殿祭
 三時祭の離宮内院に入る大殿祭
 三時祭のあと斎宮に戻った時の大殿祭
このように、大殿祭は斎王の移動や重要な祭祀の時に行われたようなのです。
忌部氏という氏族は、斎宮でも主神司に仕えており、やはり大殿祭に関わっていたと考えられるのですが、じつはよく分からないことが多いのです。忌部(斎部)氏には斎部広成著の『古語拾遺』という氏族伝承を神代以来の物語の中に位置づけた「疑似的な歴史書」があり、その中では、中臣氏と並んで神祇を司った氏だとしています。そして、神殿を造る時は忌部氏が部民を率いて、斎斧と斎鉏を使って建築し、御殿祭、つまり大殿祭を行ってきたのに、今(九世紀初頭)は伊勢神宮や大嘗祭の悠紀(ゆき)、主基(すき)殿の造営にも関わらせてもらっていないと書いています。実際このころには、国家的な建物の造営には造宮省、造宮職、特別な造営事業には、造〇〇使、例えば斎宮の場合は、造斎宮使という臨時の機関が置かれるようになり、特定の氏族任せではなくなってきています。

 『古語拾遺』は九世紀初頭の本ですが、他の記述から見て、八世紀末には忌部氏は神まつりに関わる氏族としては中臣氏に後れを取っていたと考えられます。中臣氏の本来の業務は祝詞を読むことで、こちらは現在の神社でもわかるように、無くなる仕事ではなく、さらに神祇官の行政事務も掌握していたので、本来ペアであった呪術的なことを行う忌部氏とのバランスを崩しつつあったのです。その中で、本来の大殿祭の意味、つまり建築から完成祭まで忌部が行うという独占が崩れたということなのでしよう。
 考えてみれば、そもそも七世紀以前の掘立柱建物と宮殿・寺院建築の瓦葺礎石立ち建物では建築としてはほとんど別物といえるほどの違いがありますし、掘立柱建物でも八世紀になれば檜皮葺という新建築が普及してくるわけで、律令制下では木工寮、さらに平安時代になると修理職といったメンテナンスのための専門部局もできてくるのです。つまり忌部氏のような伝統氏族は次第に時代遅れになるのですね。
そして『延喜式』は忌部氏の衰退が著しくなった時期に編纂されたので、大殿祭の本質が失われていたものと考えられるのです。実際、斎宮の場合でも、新嘗祭や月次祭、そして離宮院に入る時には建物を新築しているわけではありません。ならば新築祝いをする必要はないわけです。それでも大殿祭を行うのは、すでに存在する建物を「新築同様」の意識で使うため、という意味があるのではないかと考えられます。一方確実に新築の建物である野宮が完成した時には「造野宮畢祓(野宮を造りおわる祓)」なる行事が行われていて、大殿祭は明記されていません。しかし初斎院に入る時にも、それに利用される建物の祓い清めが行われ、その後に大殿祭の記述があるので、野宮でも行われていなかったとは考えにくいのです。このあたりからは、どうも大殿祭は祓という奈良時代に確立した儀礼に押されていたのではないかという気がします。
 さて、宮中では平安時代になると、天皇は内裏の西の中和院(ちゅうかいん、またはちゅうわいん)という専用の区画で新嘗祭や月次祭を行うようになります。その正殿を神嘉殿(しんかでん)といい、大殿祭はここで行われたと考えられますが、この施設にあたる建物は平城宮では確認されておらず、文献上最初に見られるのが延暦23年(804)なので、おそらく平安遷都の段階で造られたのではないかと見られます。とすればそれ以前の新嘗祭は内裏の中で行われていたものと考えられます。

 一方、斎宮には神嘉殿にあたる建物はなく、新嘗祭が斎宮内院のどこで行われていたのかはよくわからないのです。あるいは斎宮の新嘗祭は古い形を残していて、文献で「寝殿」や「出居殿(でいどの)」と呼ばれる内院の主要建物、つまり斎王が暮らし、儀式を行う所で行われ、そこを新嘗祭特別の建物としていわば精神的にリニューアルするために大殿祭が行われたのかもしれません。斎宮主神司には中臣、忌部、宮主(卜部氏から出ます)といった専門職がおり、その下に神部・卜部が配置されています。これらの人々は卜部を除き大殿祭に関わっていたことがわかるので、斎宮大殿祭の儀礼は宮中と同様に行われていたと考えられます。しかし斎宮の新嘗祭と大殿祭の行われる場所だけは奈良時代に似ているのです。
 そして斎王が神宮神嘗祭や月次祭で度会郡の離宮に行く時にも大殿祭は行われます。しかしこれは離宮に入る時ではありません。離宮の禊殿で祓をして、斎王が食事をした後に、内院の大殿祭が行われるのです。その後に斎王は内院に入って、ここでもう一度「夕膳を奉る」とあります。やはり大殿祭は内院を特別な場所にするための祭として行われており、そこで奉られる夕膳(と翌朝の「朝饌とされる食事」)には、斎王の膳と違う特別な意味があったものと考えられるのです。
 このように斎宮の大殿祭には、宮中のそれとは異なる特徴が多く見られます。あるいはそこには、平安時代の大殿祭以前の古い形が残されているのかもしれません。大殿祭はまだまだ問題の多い祭なのです。
     (2023.3.3 学芸普及課 榎村寛之)

榎村寛之

ページのトップへ戻る