第103話  守子斎王の初斎院の禊アレコレ

十二世紀の公家日記に『永昌記』というものがあります。著者は従三位参議藤原為隆で、藤原氏でも摂関家ではなく勧修寺家、つまり宇多天皇の外戚家の子孫です。平安時代、貴族の家が分化して職を持つようになる中で、勧修寺家は日記、つまり行政記録を記録する家となります。為隆も貴族としては有能で、有職故実に定評があった人のようで、『永昌記』が後世には儀式先例として重用されたものとみられます。
 さて、その中の天治元年(1124)四月二十三日に行われた、守子女王という斎王の初斎院、つまり斎王に選ばれた後、自宅から宮中に設けられた最初の潔斎場所に入る前に行う禊(ここでは「伊勢初斎宮禊」と書かれています)の記事があり、なかなか面白いので少しご紹介をいたしましょう。
 この時崇徳天皇はわずかに数え年で六歳、守子女王は十四歳だったことがわかっています。つまり天皇より年上の斎王です。そして彼女は、後三条天皇の皇子で白河院(天皇→上皇、上皇を院と称する)の弟、一時は皇位継承者と目されていた輔仁親王の娘、花園左大臣と言われた源有仁の妹です。つまり女王でもかなり血統のいい人だったようです。ちなみにその母は大納言源師忠の娘で、師忠の父は村上源氏の祖、源俊房の子、母は藤原道長の子の右大臣頼宗の娘なので、藤原道長の四世孫にもなります。有仁は臣籍に降りる以前は白河院の猶子で、リアル光源氏ともいわれ、『今鏡』などでは理想の貴族として書かれ、一説には公家眉白塗りの貴族イメージを発明した人とも言われます。しかし天皇との関係で見ると、祖父の従妹という遠い血縁です。
 さて、本題に入りましょう。

@行列の中の変な子供
 この禊の行列は、両院、つまり白河上皇と鳥羽上皇の祖父と孫が車を出して見物したことが記されています。儀式の責任者の上卿の車の後、左右衛門尉に率いられた前駈が様々に着飾って続きます。そして参議右兵衛監藤原伊通というエリートが、文のある玉帯に螺鈿の装飾のある太刀という豪華な装いで、次第使や勅別当などの実務官人を引き連れて進みます。その後が斎王の「御車」です。斎王はこの行列までは牛車、次の野宮入りのための禊から輿になるのは『延喜式』の規定通りです。糸毛、つまり撚った糸をもふもふに飾り付けた豪華な車で車副が十四人、手振十六人、取物十人などのお供に走豎(徒歩で付き従う子供の雑用係)十二人、下仕二人が付き添い、みんな糸鞋(糸飾りを付けたわらじ)をお揃いにしています。その後ろには内舎人、そして雑色四人、面白いのはその中にやたら目立つ子供がいたらしいことです。それは「忠盛の息子で院の御馬に乗っている」人で、斎王のすぐ後ろの雑色の中で特に立派な馬に乗っています。平忠盛の息子でこの時に馬に乗れる年の子だとすれば、数え七歳の清盛しか該当者がいません。そしてこの時代に院といえば年長の白河院のことを指します。平清盛が白河院の庇護を受けていたことは知られています(このあたりから清盛には白河院の落胤説があります)が、守子女王の兄の源有仁ともいろいろと所縁があったようで、ともに白河院の晩年の愛人、祇園女御といわれた女性の猶子(子供として庇護する人)になっていたともいわれています。とすれば守子と幼いころの清盛にも縁があったものとみられます。そしてこのお気に入りの清盛がいたことから見て、この雑色は白河院から貸し出されたものと考えられるでしょう。

A時間を図る機械 
その後に所衆(お供)、行具(大盤や水樽の入った唐櫃とあります)、膳部(食事係)が続きますが、興味深いのはこの後です。漏刻器が出てくるのです。漏刻器とは簡単に言うと水時計で、いくつもの箱を一定の速度で水が落ちていく時間から、現在時刻を割り出す道具です。『延喜斎宮式』の初斎院式の調度には漏刻は見られず、本館天野学芸員の御教示によると、おそらくこれが天皇行幸以外で出てくる唯一の漏刻を持参する例ではないかということです。ところがこの時には、あるべき順番に漏刻が来なかったようなのです。そして「行鼓」もなかったことを著者の為隆は不審がっています。行鼓は時間に合わせて全体に知らせるための太鼓だと考えられるので、本来斎王の行列には、振り子時計のように、時間を刻むある時期から初斎院行列には漏刻と時間を告げる太鼓がセットで同行するのが決まりだったのが、この時は守られていなかったようなのです。。
だとすればなかなか面白いことになります。
 これより約85年前、伊勢に群行した斎王良子内親王についての日記『田中本春記』は斎王群行の唯一の詳しい記事なのですが、先日斎王紙芝居かわせみ座のIさんとやりとりしていた中で、例えば斎宮到着の日には、巳の刻に一志頓宮出発、未の刻に飯高河で禊、酉の刻に櫛田河で禊、戌の刻に斎宮到着と、かなり時間に細かいのです。太陽の位置からざっと判断していたのかなあと思ったのですが、じつはこの日の天気は雨、しかも旧暦九月二十八日なので今なら十一月三日。もう酉の刻(17時〜19時)半ばならかなり暗く、まして戌の刻(19時〜21時)なんて、かなり夜遅くまで時間を書いていることに改めて気づいたのです。月のない雨夜になぜ時間がわかるのか。どこにも出てこないけど、もしかしたら斎王群行でも漏刻は持って行っていたのではないかしらと思うわけです。天皇行幸で、あるいは宮中で時間を知る時に使われるだけだった漏刻が、もしかしたら斎宮でも使われていたのかもしれません。
 この後に典侍と斎王の乳母の車(その前駈の中には中宮六位進通憲、つまり後の信西入道もいます)、さらにその後ろには女房たちの車などが続き、打出(御簾の脇から見せる袖)らしき女房の装束の記載もあり、華やかなさまがわかります。

B何を見せびらかしているんだ
 しかしその一方で、筆者為隆はいささか怒っています。
「そもそも行列の中に樋台の彫木と称するものを行列させている。これはどんなものだろうか。後日の失敗のもとになる。整っていないので特に示唆しておく」という感じです。これはどういう意味かというと、彫木は『斎宮式』に初斎院の調度の中で「雕木」として見られるものと同じと見られます、それが「樋台」とも呼ばれているもので、見苦しいと怒っているのです。 
 じつはこれは、携帯用トイレなのです。そんなものをそれとわかるような形で見せびらかすように持ち歩いていたので、為隆は怒っているわけですね。ところでこの記述からも面白いことがわかります。雕木は彫木つまり「刻まれた木」という意味で、何かを彫刻した木製品という感じの言葉です。そして『斎宮式』では、「雕木」は「大壺」とセットになっています。壺がしばしば携帯用便器の役割を果たしていたことは他の資料からもわかります。一方雕木は、『延喜式』の「内匠寮式」に、長さ一尺七寸(約50cm余)、幅一尺三寸(約40cm)、高さ一尺一寸(約35cm弱)とあり、ここではそれとは別に樋というものが用意されています。樋は高さ九寸(27cmほど)、経九寸五分(30p弱)とあります。つまり大きさから考えて、雕木は、その中に樋を置いて用を足すための腰掛のようなものではないかと考えられ、大壺は収容して処分する時に使ったかと思われます。その様が見苦しくないように、雕木は木製にして彫刻をほどこしたのかもしれません。つまり厳密には、雕木とは携帯用トイレを隠すものだと考えられます。
 おそらく当時、雕木など使う人はごく限られていたので、行列担当者も気が付かなかったのでしょう。しかしいくら彫刻した木製品とはいえ、見る人が見ればその用途はわかってしまうわけで、為隆がご機嫌斜めなのももっともかもしれません。
 このように、一つの斎王関係記事からも、当時の社会の色々な特徴が垣間見えて面白いのです。12世紀でも斎王の行列は、規模は小さいものの、天皇行幸を思わせる華やかさがあり、最高権力者である白河院の肝いりで行われていたらしいことがわかります。しかしその形はかなり崩れてきており、本来あるべき漏刻がなかったり、見せてはいけない雕木が披露されていたりなど、儀式としては大きなミスがところどころに見られました。そして守子女王は崇徳天皇より年上で、天皇はほんの子供なので、むしろ白河院との関係から斎王に選ばれたような感じがします。天皇の名代としての斎王の意味も次第に変わってきているような、12世紀とはそんな時代なのです。
 なお、樋台の彫木についての考察は、寺田綾「日本古代の排泄観念と樋洗童に関する一考察」(『白百合女子大学児童文化研究センター研究論文集』14 2011年)の指摘に基づいています。平安時代の排泄観念やケガレ意識に興味のある方には刺激的な論文なのでネット検索してお読みください。全文公開されています。
    (2022.12.11 学芸普及課 榎村寛之)

榎村寛之

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