第100話  そんなこんなで200話

 斎宮千話一話、100話目です。
前身の『斎宮百話』から通算すると200話目。もともと『百話』を達成したところでおしまいにするつもりだったのが、当時の同僚だった某学芸員に、続けたらどうですかと提案され、まあいいけど、と言ったら『千話一話』の名前を付けられ、またぼちぼちと書き出した、という感じで今に至ります。
 百話を書き出したのがもう20数年前なので、まだブログという形態が世間に出回り始めた頃のことです。そして長い年月が過ぎ、今ではSNS上ではツイッターやLINEなど短い文章が流行りで、ブログは時代遅れになっているようです。その中で2000〜3000字前後のネタをつらつら書いてきたので、まあ世間に背を向けた企画ではあるわけです。おまけに『千話一話』には質問や感想はもとより「いいね」機能もないわけで、果たしてどのくらいの人に見ていただいているのかよくわからない、という、いわば手探り状態で、ごくたまに「読んでいますよ」と言われて驚く、というくらいしか楽しみがありません。
 まあ、ほとんど自分の心覚えのための書き物です。
その中でも、改めて見返していると、自分の問題関心の変化が見られて面白いなと思います。斎宮百話の最初の頃は、展覧会、大型の事業、イベントなどに関連した情報が多く、博物館としての情報発信の場になっていました。『斎王群行』江刺ロケ報告などは今では書かないだろうし、ある意味貴重な記録になっています。一方第80話くらいからは、ちょっとした蘊蓄が増えてきて、新たに気付いたことや新発見史料など、ある意味学術的内容が増えてきています。その分更新のペースが遅くなり、『斎宮百話』が平成13年(2001)から平成20年(2008)まで足かけ8年かかったのに対して、『斎宮千話一話』の100話は令和4年(2022)まで、足掛け15年かかっています。ほとんど忘れた頃に更新されている感じですが、その分内容は新鮮なもの?になっています。
この15年の間に取り上げた内容で印象に残っているのは、明和町安養寺跡、松阪市朝見遺跡など斎宮周辺の古跡・遺跡、日本遺産関係地の紹介や、斎宮「御館」の碑などの斎宮顕彰遺跡、斎王の身体に関わる占い、最後の斎宮頭平親世の話、「いろは歌」墨書土器、『伊勢物語絵巻』や『伊勢新名所歌合』の中でのちょっとした発見、『古今貞女美女図鑑』など斎宮廃絶以後の文献の中の斎宮について・・・かなりの部分はほぼ新発見と言っていいような小ネタです。その中には深めて論文や本の一節にしたものもいくつかありますが、一つ一つが斎宮についての新しい情報で、さらに磨いていく必要があります。最近では、インターネットラジオFMGIG「遊ぼう!伊勢斎宮 歴史の泉」でも取り上げており、多くの人のお耳に触れることでさらに新しい情報が入ってくるといいなあと思っています。

というわけで、『斎宮千話一話』200回を記念して、独自ネタをひとつ。
インターネットラジオを収録している「斎宮すたじお」は近鉄斎宮駅の南東、伊勢街道沿いの古民家を改装した施設ですが、この斜め向かいに庚申様の石の祠があります。新しいものですが、青面金剛像もお祀りしています。それが、1935年に刊行された明和町商工会編『斎宮村郷土誌』によると、どうやらもともとはもっと西南にあり、近代の雑信仰排除の中で無くなって、現在地に引き取られたようです。そして本来は「幸神」と書いて「こうしん」と読ませていたようなのです。
 さて、私は「幸神社」という神社を知っています。それは京都市上京区幸神町寺町通上る西入303、具体的には、京阪電鉄出町柳駅から相国寺の間、さらに言えば京都御所の北、もひとつ言えば、平安京一条大路の外側ということになります。そしてこの神社は「さいのかみ」と読み、塞の神、つまり境界を守る道祖神の役割を果たしていたのです。とすれば、斎宮の庚申ももとは境界祭祀の神だったのかもしれません。
 そして『斎宮村郷土誌』では、今の斎王の森を斎宮内院とする御巫清直『斎宮寮考証』(『神宮神事考證』所収)の説に基づいて斎宮の東西領域を推定し、その東西の外側(南東、南西)に境界神である幸神が置かれたのだとしています。
 極めて興味深い指摘ではあるのですが、斎王の森を斎宮内院とする御巫説は発掘調査によって現在では否定されています。そこで、御巫作成の「斎宮寮廃蹟図」を再確認すると面白いことがわかってきました。これは御巫の現地踏査や聞き取りに基づいて、幕末の斎宮現地図に多くのデータを落とし込んだものなのですが、その中で「庚申」は斎宮村の南側(現在の近鉄の南側を走る県道より南側)、竹神社の東南200mくらいの所と、そこからさらに東に300mほどの所の二か所、祠や小さな森の絵で描かれています。それは現在の認識でいえば、斎宮の方格街区の南端ぎりぎりのあたりと考えられる所で、斎宮の区画の南東外部ではなく、南限の可能性が高いあたりです。そして「斎宮すたじお」前に移設されていると考えられる西側の庚申祠はこの絵図には記されていません。しかしこの二つの庚申から西に500〜600mほど行ったあたりに、やはり祠と小森のような絵が描かれています。その立地は二つの庚申とほぼ平行しているようです。そしてその近くと推定されている所から、8世紀末期〜9世紀前半と推定され。斎宮南限の手がかりとなる八脚門が発見され、現在「八脚門広場」として公開されているのです。この祠が庚申だとすると、三点の庚申は、方格街区の南限の境界を表しているのかもしれません。
 方格街区の北端、西端、東端はそれぞれ現存する道路跡とほぼ一致することが確認されています。しかし南端は街道沿いに江戸時代から市街地化が進み、さらにその南側は低湿地だったようで、斎宮跡でも最も実態がわかっていません。しかしこうしたちょっとした発見を積み重ねていくと、発掘調査と相まって、平安時代の姿に迫れるかもしれないのです。
 というわけで『斎宮千話一話』第100話、通算200話目もまた斎宮跡に関わる小ネタをお送りしました。こんな発見をしたら、また書き連ねて行こうと思います。
 さて、どこまで続けられますか。
      (2022年7月12日 学芸普及課 榎村寛之)

斎宮すたじおそばの庚申祠 赤い〇が現代の庚申祠、青い〇が江戸時代の庚申さんr推定地
斎宮すたじおそばの庚申祠 赤い〇が現代の庚申祠、青い〇が江戸時代の庚申さんr推定地

現在の八脚門広場

現在の八脚門広場

榎村寛之

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