第94話  資房さん怒っています

斎宮千話一話 資房さん怒っています。
 歴史についての文献資料というものは、普通に考えれば古い時代に行くほど残りが悪くなりそうですが、日本史の場合、実はそう簡単ではありません。『日本書紀』に始まる国が編纂した歴史書、いわゆる「六国史」が、仁和三年(887)で終わる『日本三代実録』で途絶えてしまうからです。この事情については色々議論がありますが、近年言われているのは、天皇代々ごとに歴史を纏める必要がなくなったから、ということです。代々記である『続日本紀』(文武天皇から桓武天皇の半ばまで)、『日本後紀』(桓武天皇の半ばから淳和天皇の譲位まで)、と違い、『続日本後紀』は仁明天皇、『日本文徳天皇実録』は文徳天皇それぞれ一代の一代記になります。しかし『日本三代実録』は、清和・陽成・光孝天皇の文字通り三代にわたりました。これは清和天皇と陽成天皇が譲位して、光孝天皇が崩御したからだと考えられています。つまり歴史書の最後は、天皇が亡くなることになっていたのです。
 ところが、次の宇多天皇以降は、天皇が譲位するのが普通になり、一代の完結性が弱くなります。つまり天皇一人一人を顕彰することの意味が薄れていくのです。そのため、宇多、醍醐、朱雀朝あたりの歴史を纏めようとしたと見られる歴史書(『新国史』『続三代実録』などと通称される)の編纂は途中で放棄され、その後公的な歴史書はなくなってしまうのです。
 その結果、10世紀になると、文献資料はいわば幹を失った状況が生じます。ところが、天皇、皇族、貴族らの記した日記、そして「格」や「式」と言われる行政文書の集成、儀式次第を記録した有職故実書、各種の物語や寺社の記録、貴族や僧が編集した私撰の歴史書、公文書など、記録自体は多様化していきます。それが散発的に残っているため、各資料に当たっていかないと全体の歴史像が見えない、ということになるのです。特に斎王や斎宮については、『延喜式』の「斎宮式」以外にまとまった記録がありませんので、落穂拾いのように資料を集めていく必要があるのです。
 そうした中で重要なのは貴族の日誌です。これらは日常記録ではなく業務日誌として作られ、前例を記録するために書かれたので、タイムリーな行政記録として非常に参考になるのですが、書き手の立場や問題関心によって、取りあげる事件や内容が色々で、例えば摂関(総理大臣級)と弁官(内閣府事務次官級)では、同日の日記でも中身がずいぶん違うことがあります。そうした日記の中で、斎王について比較的情報が多いものに、11世紀の貴族藤原資房(すけふさ 1007-1057)の日記(通称『春記』)があります。藤原資房は右大臣藤原実資(さねすけ、『小右記』という膨大な日記を書き、後世の範として伝えられたことで知られる)の孫で、時の後朱雀天皇の信頼が厚く、その娘の斎王良子内親王の野宮別当(野宮で暮らす時の管理責任者)を務め、群行した時に、長奉送使(送り届ける勅使)だった父の資平(すけひら)に同行し、斎王群行の詳細な記録を残しています(映像展示『斎王群行』の元になった資料です)。そのため、伊勢にあった良子(ながこ)内親王についての記録がしばしば出てくるのです。
 今回はそんな資料を一、二件ご紹介しましょう。
 長久元年(1040)十一月二十九日、斎宮寮から申請があったと後朱雀天皇から仰せがあったそうです。それによると、蔵部司の倉が一棟焼けて、その中にあった御帳の帷(みちょうのとばり 斎王がーの昼の座である斗帳[とちょう]の周りを覆うカーテンの予備)などの雑物が焼失したということでした。

 資房はその奏上(上奏文書)を処理するため、関白藤原頼通に、斎宮担当の別当を兼ねる皇后宮大夫藤原能信(よしのぶ 頼通の異母弟)に命じて先例を調べさせ、かつ雑物を整えるように伝えます。また天皇から、その火焔は斎王の御在所に近かったとのことなので使を遣わして様子を見させたいが誰がいいかを関白に相談したいとの話があり、蔵人がよろしいのではと返事しつつ、それも頼通に伝えて、さらに能信の所に行って斎宮寮の上奏を渡しています。この後、十二月二日には蔵人頼資(よりすけ 左衛門尉の六位蔵人、清和源氏 源頼光の孫)が派遣され、天皇から関白には、絹二百疋を斎宮に奉ることが命じられています。
この件についての記事は以上のようなのですが、いくつか面白いことがわかります。まず、この蔵に御帳の帷、つまり斗帳(御帳台、展示室Tで再現しています)を囲むカーテンが収納されていたこと、つまりカーテンには予備があったのです。そして斎宮に絹二百疋が送られていることから見て、燃えた雑物は絹製品で、この蔵は斎宮内院で使う絹製品を収納していたらしいことです。当時織物はお金と同様の取引財でしたが、その主流は麻やあしぎぬ(施を糸へんにした漢字=普通の絹、程度の意味)で、絹は高級品でしたので、財源としてではなく、原材料として送ったと考えられます。とすれば、斎宮で帷や他の雑物に仕立てたということなのでしょう。しかし斎宮には織部司はありません。とすれば、その役は斎王に仕える女孺(にょうじゅ)の三等とも下等とも書かれている人たちが行っていたのではないかと考えられます。斎宮の女官の仕事を考える上で興味深い資料になります。
 次に、この倉がどこにあったか、という問題です。実は十一世紀になると、斎宮の方格街区で倉庫群があったと考えられている北端中央部の西加座北区画、下園東区画からはまとまった倉庫群のような建物はすでに無くなっています。また、この区画に倉庫があったとすれば、まず類焼を心配すべきは柳原区画の斎宮寮庁(さいくう平安の杜の正殿に当たる建物)ですが、この倉は御在所、つまり斎王の住む建物の近くにあったという事です。
 しかしこの時代の内院である牛葉東地区(現在の竹神社周辺)では、近鉄線路より北側の発掘では、焼け土や炭化物など、火事の形跡は見つかっていません。そして柳原区画の発掘成果や平安時代の貴族の邸宅の建物配置から考えると、区画の北側は実務用のバックヤード・スペースだったと考えられるので、この倉庫は牛葉東区画の中にはなかったと推測できます。さらに牛葉東区画の北側の柳原区画は、十一世紀前半にはまだ斎宮寮庁の性格を残しており、その西側の御館区画は斎宮頭(斎宮寮長官)の居館があったところなので内院用の倉はなかったと考えられます。そして柳原区画の東側の、もともとの内院だった鍛冶山西区画では、このころには全く建物がなくなっています。とすればもしかしたら、この倉はまだほとんど発掘が行われていない牛葉西区画などにあったのかもしれません。
 そして、もう一件は、この事件につき、どうも宮廷が非協力的だということです。斎宮に状況視察で派遣されることになった源頼資は、母が大病なのでと辞退しつづけ、十二月三日になってやっと出発しました。そしてこの件について軒廊御卜(こんろうのみうら)が行われ、神宮に幣を送ることに決まったのが十六日で奉幣使の出発が十九日と、どうももたもたしており、筆者藤原資房もイライラしているようなのです。
 実はこの火災の少し前、資房の神経を逆なでするようなできごとがありました。まず九月九日に内裏が焼亡しています。昨年の伊勢神宮外宮の倒壊に続く災害の続発により、十一月十日には長久と改元が行われます。

斗帳です

斗帳です

天皇側近の資房としては居ても立ってもいられない気分だったでしょう。そして二十三日に、後朱雀天皇の第三皇女、祐子(すけこ)内親王に着袴(ちゃっこ ハカマを履く儀式、普通は五歳前後で行う)とともに准后(じゅごう 皇后に準ずる、という意味)の詔があったのです。
 祐子内親王は長暦二年(1038)生まれ、後に『更級日記』の作者菅原孝標女や、『百人一首』にも歌が採られた祐子内親王家紀伊(音に聞く高師浜のあだ波はかけじや袖の濡れもこそすれ)なども仕えたという大きなサロンを作り、平安後期の女性文化の発展に寄与しましたが、この時はわずか数えの三歳にすぎません。資房は、幼児に准后、つまり皇后扱いとは何だ、と不満を述べています。そもそも祐子は、生後二か月で内親王宣下を受けていたのです。
 『継嗣令(けいしりょう) 家の相続についての法律』の仕組みでは、本来天皇の子は自動的に親王・内親王を名乗れました。ところがこの時代になると、親王・内親王は父天皇に対面し、初めて宣下を受けるものになります。つまり「王」や「宮」のままで過ごす天皇の子供たちも出てくるのです。その中で生後二か月での内親王宣下は大変早いものでした。実は祐子内親王の母は中宮藤原もと子(もとこ=もとは女へんに原、近代の通称はげんし)といい、関白藤原頼通の養女です。その実の親は敦康(あつやす)親王、つまり一条天皇と藤原定子の間に生まれ、一時は皇位継承の可能性もあった第一皇子、母は具平(ともひら)親王の娘、つまり藤原頼通の妻、隆姫(たかひめ)女王の妹、純粋な皇族なのです。ところが嫄子がこの前年、次女のみわ子(みわこ=みわは示へんに某、通称ばいし)内親王の出産後に急死し、その後は頼通の手元で育てられていたのです。つまり祐子は頼通のお声がかりで准后になったと見られます。そして、第三皇女ということは、この時に第一、第二皇女が飛び越えられたのです。
 この第一皇女こそ、資房が斎宮に送っていた良子内親王だったのです。良子とその妹の娟子(よしこ・うるはしこ)内親王は皇后禎子(よしこ)内親王の娘です。良子が内親王になったのは斎王となった八歳の時、そして同年に二品の位を与えられていますから、もちろんかなり早いのですが、それを飛び越す速さだったのですね。
もともと後朱雀天皇の最初の正妻は、皇太子妃だった藤原嬉子(よしこ 頼通の同母妹)でした。しかし彼女は後冷泉天皇を出産した直後に亡くなってしまい、その後に入ったのが三条天皇と藤原妍子(きよこ 頼通の同母妹)の娘、禎子内親王で、良子、娟子と後三条天皇の母となります。つまり、妹から姪に代わり、頼通から少し遠くなってしまったので、今度は養女を送り込んだ、というわけです。そして禎子内親王は皇后に、藤原もと子は中宮にと、一人の帝の正妻が二人という事態が復活(一度目は一条天皇と皇后藤原定子、中宮藤原彰子)したのです。そして当然、宮中は皇后派と中宮派と中立派に三分されます。中宮派はいうまでもなく関白頼通とそのシンパ、皇后派は資房ら小野宮家の藤原氏と、頼通の異母弟の権大納言能信ら、そして頼通の同母弟の内大臣教通は中立派で、自らの娘の入内を虎視眈々と狙っている、というまさに百鬼夜行状態でした。資房は日記に「斎宮斎院が数年年上の姉なのに、まず妹からとは、天下の人たちは何というだろう、また神意が恐ろしい」と書き、頼通を批判しています。神宮でも内裏でも斎宮でも大変なことが起こってるのに、関白さまは自分の事ばかり!!
いつの時代にも見られる怒りだなぁ、と思うのです。
             (2021.6.29 榎村寛之)

榎村寛之

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