第93話  守子女王?守子内親王?

斎宮千話一話 守子女王?守子内親王?

 斎宮について研究して30年余り、分かったことは色々ありますが、まだまだわからないこともたくさんあります。特に斎王制度も後半期に入る平安時代後半の斎王や斎宮については、不明な点が多いのです。そして研究が進むと、新たな謎を発見することもあります。今回はそういう話。
 12世紀前半の崇徳(すとく)天皇の時代の斎王に、守子(もりこ)という人がいます。後三条天皇の皇子、輔仁(すけひと)親王の娘ですから、身位(しんい=皇族の位)は女王です。
 ところがこの人は『平安時代史事典』には「守子内親王」として立項されています。その理由は明記されていませんが、解説には白河院が猶子(ゆうし)にしたとあります。猶子というのは平安時代に独特の義理の親子関係で、養子(養い子)より軽い関係(猶は「さながら」という意味)だと言われていますが、慣習なので法的な定義は残されていません。しかし、養子は姓を変える(一条天皇と藤原定子の間に生まれた敦康〔あつやす〕親王の娘の嫄子〔もとこ〕女王は藤原頼通の養女になり、藤原嫄子となる)けれど、猶子は変えない(村上天皇の皇子具平〔ともひら〕親王の息子源師房〔もろふさ〕は姉の隆姫〔たかひめ〕女王の夫の藤原頼通の猶子になったが藤原は名乗っていない)そのため、猶子はその氏のメンバーではなく、養子には親の財産の相続権があるが猶子にはない、などの違いが指摘されています。しかし『平安時代史事典』でもわからない点が多いとしており、『国史大辞典』では、源師房について『小右記(右大臣藤原実資〔さねすけ〕の日記)』が頼通の「異姓の養子」と書いている例を挙げ、養子との区別のあいまいさを指摘しています。ただ共通しているのは、権力者が身寄りの少ない親族等を猶子にして庇護する、つまり後見人になる制度で、家族として養うとは限らない、という見解です。

 さて、『平安時代史事典』によると、守子斎王を白河天皇の猶子としているのは、鎌倉時代末期から南北朝期に編纂された年代記の『帝王編年記』で、守子斎王の生きていた時代の情報ではありません。また、同時代の『一代要記』や『斎宮記』にも、輔仁親王の娘、守子内親王とされています。白河院(上皇)の猶子だから内親王と認識されていたのでしょうか。しかしこれだけでは、同時代にどのように考えられていたのかはよくわかりません。ところが崇徳天皇の時代の史料はとても少なく、公的な歴史書は存在せず、私撰のものばかりで不備が多いため、『中右記』(右大臣藤原宗忠〔むねただ〕の日記)や『台記(たいき)』(左大臣藤原頼長の日記)に書かれていなければよくわからない、というのが実情です。
 そしてこの守子斎王には面白い問題が二つあります。一つは、彼女がおそらく最も天皇と血縁の遠い斎王のひとりだったことです。崇徳天皇から見ると、曽祖父(白河院)の弟の娘=つまり祖父(堀河〔ほりかわ〕天皇)の従姉妹なのです。崇徳は鳥羽の第一子で数え五歳(実質三歳八か月)で保安(ほうあん)四年(1123)に即位し、同年に彼女が斎王になっています。子供はもちろんいませんし、妹もまだ幼かったのですが、後に斎宮となる叔母の喜子(よしこ)内親王など、他に候補者もいなかったわけではないのに、守子が斎王になっています。
 もう一つは、白河院と父の輔仁親王が不仲だったことです。白河院の父、後三条天皇は白河即位の時、異母弟の実仁(さねひと)親王を皇太弟に立てました。白河院の母は藤原氏(藤原道長の子で異母兄の関白藤原頼通・教通と仲の悪かった権大納言能信〔よしのぶ〕の養女茂子〔しげこ〕)ですが、実仁親王の母は小一条院(こいちじょういん=三条天皇皇子敦明〔あつあきら〕親王、藤原道長の圧力で皇太子を辞して小一条院を名乗る)の孫、つまり後三条天皇の母の陽明門院禎子(ようめいもんいん・よしこ)内親王から見ると兄の孫、後三条からは従兄弟の娘の源基子(もとこ)で、摂関家の血の薄い親王で、その血統を後継者にしたいという気持ちがあったものと見られます。しかし後三条が譲位後間もなく亡くなると風向きが変わります。白河は実仁親王が応徳二年(1085)に15歳で亡くなるや、翌年に息子の善仁(たるひと)親王をわずか数え8歳で即位させ(堀河天皇)上皇になります(白河院政の始まり)。これは、実仁親王の弟の輔仁親王(堀河即位時14歳)が皇太弟になること(後三条院の遺言とされる)を避けるための措置で、結局天皇の血統は白河院の系統が継いでいくことになるのです。輔仁親王は優秀な人物で臣下の信望も厚かったのですが、白河院からは冷遇され、永久元年(1113)には鳥羽天皇に代えて輔仁親王を擁立しようとした陰謀が発覚したとして二年間閉門、その後元永二年(1119)に46歳で亡くなっています。その時守子女王は数え9歳、白河院の猶子になったのはその後と考えられます。

 さて、白河院が小一条院系の実仁、輔仁の弟たちにコンプレックスを持っていたことは十分に考えられます。じつは、彼の最初の斎王は、小一条院の孫、淳子(あつこ)女王なのです。父系で言うと、曽祖父(一条天皇)の従兄弟(三条天皇)の曽孫なので、もうむちゃくちゃ遠いのです。しかし母系で言えば、祖母の兄の孫、つまりはとこになります。これでもかなり遠いのですが、この選定には院政を行うつもりだった父の後三条や、その母で小一条院の異母妹だった陽明門院禎子内親王の意向が反映されているものと思われます。つまり白河が即位した段階で、皇太弟も斎王も小一条院系(つまり三条天皇の父親の冷泉天皇系)の皇族で固められていたので、息苦しさを感じていたとは思われます。というのも、淳子斎王が父の敦賢(あつかた)親王(小一条院は上皇格で、その皇子は本来二世王の身位だが、親王になっていた)の喪で退下した後、自らの娘の媞子(やすこ)内親王(郁芳門院〔いくほうもんいん〕)を斎王にしているのです。つまり、小一条院系から白河系へ、天皇の後継と同じことが斎王にも起こっていたのです。
 さて、守子斎王に話を戻しますと、輔仁親王の娘なら崇徳との関係はむちゃくちゃ遠くなますが、白河院の子だとすると、祖父堀河天皇の妹格で、大叔母となります。もちろんこれでも相当遠いのですが、ここに面白い文献があります。『平安時代史事典』が出たころに活字化された、関白藤原忠通(崇徳院の時代の関白、父の忠実とともに弟の頼長と対立し、保元の乱の原因を作ったことで有名)の日記『法性寺殿御記(ほっしょうじどのぎょき)』です。これは守子斎王の発遣儀式(別れの櫛がある儀式)の部分だけの逸文で、しかも忠通自筆、まさに守子斎王の同時代記録なのです。
 そしてここには、「斎内親王」と書いている箇所があるのです。このことから、彼女はこの段階で内親王宣下(ないしんのうせんげ=父の天皇が出す、子供であることを認める文書)を受けていたと思われるのです。ただしこの記録を詳細に読むと、わざわざ「輔仁親王の子」と割注をしていたり、「斎親王」と書き間違えて「内」の字を横に入れたり、「斎王」とも書いたりしており、内親王と書くことについて忠通には相当ためらいがあるようにも思えます。それでも斎王を奉納する告文(祝詞)に「斎内親王」と明記していることは重要です。つまり神様の前で「内親王」と言っているので、公的には内親王だったことは間違いなさそうなのです。

 つまり彼女は白河院の娘、内親王として伊勢に向かった体裁なので、後世「守子内親王」として書かれているのです。しかもこの日記によると、忠通は斎王発遣儀式について白河院から後三条天皇の先例を習っています。つまり白河院も大変力を入れていたことがわかるのです。
 鎌倉時代に書かれた説話集『十訓抄(じっきんしょう)』には、彼女の野宮に、生活管理の責任者の勅別当藤原宗忠(当時大納言)、守子の兄弟の内大臣源有仁(ありひと)など、大臣たち「さるべき人」が集まって管弦をして、斎王は御簾の内で女房に琴を弾かせ、宗忠が催馬楽を唄い、有仁が琵琶を弾くというの華やかなさまが記されています。大臣級の貴族が野宮に集まるという記録は他にはほぼ見られないので、天皇との関係が遠いにもかかわらず、彼女が大事にされていたことは間違いありません。これはやはり白河院の後見が大きくものを言っていると考えられます。
 彼女の異母姉妹の怡子(よしこ)内親王は、崇徳朝後半から二条朝にかけての賀茂斎院で、やはり白河の猶子になり女王なのに内親王と記録されています。また同母姉妹の仁子(ひとこ)女王は崇徳即位の際の褰帳女王(けんちょうのにょおう=高御座のカーテンを引き上げて新天皇を見せる係の女王)、彼女の姉妹はみな崇徳に縁があります。白河院が彼女らを抜擢したのは、幼帝崇徳天皇を権威づけるためだったようです。当時、王権としては輔仁が正統という感覚が未だあったので、その子供たちを崇徳に奉仕させるのが白河院のねらいだったようにも思えます。
 そして白河朝から白河院政期間の斎王は、媞子内親王の後も、堀河朝の善子(よしこ)内親王、鳥羽朝の姰子(あいこ)内親王と白河院の娘が続きます。当然天皇との関係は姉妹、伯叔母と遠くなるのですが、実質的な権力者だった白河院の娘だったことから、院の強い思い入れがうかがえます。そして守子「内親王」はその最後の一人なのです。

 臣籍に下り、源氏になった親王が皇籍に戻った例はありますが、王や女王が親王や内親王になるのは、親が天皇になった場合のみで、猶子から昇格の前例はおそらくありません。白河院は身位の制度を曲げてまで「内親王」を作ったのです。そこまでして自らの息のかかった天皇には斎「内親王」を付けたかった、ということなのでしょう。白河院にとって斎王の権威はそれくらい重要であり、同時に輔仁系の女王も自らの傘下に取り込む必要があったのだと考えられます。
 崇徳天皇の母、藤原璋子(たまこ=待賢門院〔たいけんもんいん〕)は白河の娘分として育ち、孫の鳥羽天皇に嫁いだ人で、白河とスキャンダルの噂がありました。「崇徳院の実の父は白河院だ」「少なくとも亡くなるころには、鳥羽院は崇徳院の父は白河院だと信じていた」などする研究もあるくらいです。その真偽はともかく、守子「内親王」の斎王就任は、白河と崇徳の関係の深さを示す事実といえるでしょう。
 しかし白河院が亡くなると、待賢門院の失脚、崇徳天皇の退位、崇徳院の弟、近衛(このえ)天皇の即位による崇徳院政不成立など、鳥羽院による崇徳院外しは露骨になり、帰京した守子内親王も表に出る機会がなくなり、兄弟の内大臣有仁にも子孫がなく、彼女の後見も乏しかったと推察され、記録が少なくなってしまいます。
 鎌倉時代の文献には、彼女は伏見斎宮とも書かれています。その名が晩年の隠棲地によるとすれば、鳥羽に設けられたという白河天皇陵の近く(実際の場所は不明、現在の陵墓は江戸末期に再治定されたもの)で過ごしたから付いた名かと思われます。
 そしてもしも・・・もしも白河院が崇徳天皇を自分の子だと思っていたなら、守子内親王は義弟の斎王になった、ということにもなるのです。白河院と縁が深く、その曽孫の斎王となった守子「内親王」は、院政期の二重三重のカーテンに包まれた謎の多い斎王です。

(斎王以外の女性の読み方は『平安時代史事典』に準拠しました)

榎村寛之

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