第87話  忘井を探す その1 忘井とは何なのだろう?

今回は斎宮ファンには有名な、しかし本格的に取り上げられることが少ない「忘井」について、考えてみたことをご紹介しましょう。二回に分けますので、しばしお付き合いください。
「忘井(忘れ井)」は、鎌倉時代初期に編纂された『千載和歌集』という勅撰和歌集にある
  天仁元年斎宮群行のときわすれ井といふところにてよめる
                   斎宮甲斐
 別ゆく宮このかたのこひしきにいさむすひみん忘井の水
 という歌に基づく斎宮関係スポットです。
この忘井、実は伝承地が二か所あります。一か所は松阪市嬉野宮古町、もう一か所は松阪市市場庄町で、共に石組みの古そうな小さな井戸があります。いずれも松阪市内ですが、広域合併前は、宮古は嬉野町、市場庄は三雲町と別の町だったので、いささか張り合ってもいたようです。
 さて、どうして二か所も忘井の跡があるのか、それはそもそも忘井とは何なのか、という問題と関わってきます。現在、忘井は斎王の群行最後の頓宮である壱志頓宮と関係づけて考えられています。どちらも伝承地は旧壱志郡内です。そして「むすび」というのがある種の誓いの祭祀・儀式であると考えれば、通り道にあった井戸でちょっと牛車を降りて、なんてことは思いにくいわけで、ではやはり頓宮ということになるかと思われます。
 でも別にこの文面では、例えば勢多頓宮近くでも、鈴鹿頓宮近くでも問題はないようにも思えるのです。
 「忘れ井」の伝承地が松阪市内にあることについては、『勢陽五鈴遺響』(天保四年〔1833〕の編纂)が、「都の方」という表現から、「みやこ」という所に、都を連想させる「忘れ井」があったので、「宮古町」が故地だという説を立てているのが目につきます。この宮古という地名は、鎌倉時代の『神鳳抄』に、一志郡の神宮領として「都御厨」という名で見られるのが早い例のようで、それなりに古い地名のようです。しかし一方で、市場庄にあったとする説も、『三国地志』(宝暦十一年〔1761〕 伊勢・志摩編完成)や『伊勢路見取絵図』(文化三年〔1806〕完成)などの近世地誌に見られるなど、幅広く紹介されています。なお、伊勢参宮の総合ガイドブック『伊勢参宮名所図会』(寛政九年〔1797〕)では、市場庄の忘井を挿絵入りで紹介した上で「按ずるに、此古跡は一里ばかり西、都村という所にあり、昔斎宮の路次なり、後世此往来へ持ち出したるなるべし」、つまり「四キロばかり西の都(宮古)村にも忘井の跡があり、そこは昔の斎王が通った道筋である。。後に今の人が多く行き来する街道沿いに持ってきたものであろう」と、宮古の忘井が正しいとしています。ただし、なぜ宮古が昔の斎王が通った道筋なのかは明記していません。なお、本居宣長もそれに近い意見のようです。

このように、忘井は、その場所探しが盛んだったものの、壱志郡にあることすら意外に根拠がないのです。しかし一応そうかなと認められる証拠がありました。
鎌倉時代後期に藤原長清という遠江国出身の武家歌人が編纂した『夫木和歌抄』に、こういう歌があるのです。
 わすれ井 伊勢     従二位忠定卿
建長八年百首歌合
すずしさに付きもすみけり岩まくらこよひぞ夏をわすれ井の水
建長八年(1256)に元参議の藤原(中山)忠定(1188-1256)が詠んだ歌で、この人は藤原頼通の子、関白師実の6代の孫(頼通―師実―家忠〔花山院家を名乗る〕―忠宗―忠親〔中山家を名乗る〕―兼宗―忠定)ということです。伊勢公卿勅使にもなっていないので伊勢神宮に来たことかあるとも思えませんから、懐旧ではなく、歌枕として詠んだものと考えられます。歌枕はそこに行ったことがなくても、歌の勉強をしている人ならイメージの共有ができるスポットのことで、「忘井」は勅撰・私撰和歌集、私歌集などを見てもこの2首のほかには多分ない、という程度ながら、五十鈴川や二見や大淀ほどではありませんが、それなりに知られた程度の伊勢の名所だったと考えられます。
で、ここで「伊勢」と言っていること、東海道沿いの鈴鹿頓宮の近くならもっと歌に詠まれるだろうと考えれば、鈴鹿頓宮のある亀山市から伊勢市の間の「伊勢」地域と考えるのが妥当のように思われます(「忘井」という古跡は伊勢市内大湊町にも『倭姫命世記』にみえる水饗社の跡として残っているのですが、『倭姫命世記』には忘井という言葉はなく、後でできた伝承と考えられるため、今回は除外します)。
そして、斎王群行路では、瀬田川を渡った後の勢多頓宮や、野洲川を渡った後の垂水頓宮、鈴鹿川を渡った後の古厩(鈴鹿頓宮推定地)など、川を渡ってすぐに頓宮があるケースがしばしば見られます。これは群行が、禊をして頓宮に入るという慣習があったのではないかと思わせるものがあります。とすれば、壱志頓宮は壱志郡を流れる川の中で最大の、雲出川の南側にあった可能性が高くなります。
しかし、斎王群行路は古代道路管理の変遷によって変化していた可能性は少なくありません。亀山市の古厩周辺から古代伊勢道が南下するルートを考えた時、それがほぼ確実に通ったのは松阪市にあった飯高駅で、その駅に関する地名として駅部田(まえのへた=うまやの辺の田が転化した地名)があります。そして8世紀の幹線道路はできるだけ直線で設計されており、事実斎宮跡では幅9mの直線道路、古代伊勢道が発見されていることを考えあわせて、この2点をおおまかに直線で結ぶと、今の伊勢中川駅の西側あたりを通ります。

一方、12世紀の公卿勅使の参宮ルートを見ると、壱志頓宮はたしかに雲出(雲津とも)川を渡った(長治二年には船で渡ったとしている、なお、弘長元年の記録では、斎王群行の時は浮橋を掛けるとしている)後に入ったと書いている例が多いのですが、面白いのは、壱志駅が海岸近くであるという描写が多いことです。この時期の公卿勅使は、亀山市の鈴鹿頓宮を出た勅使は、現在の紀勢本線沿いに津市に抜けて、海岸線を下って伊勢市に向かっていたようです。そして伊勢中川駅の東側には、小舟江、小野江、島貫、香良洲など河口部を思わせる地名がそこここに見られ、昔の海岸線が今よりかなり内陸部に寄っていたことをうかがわせます。
さて、もう一つ考えておくべきは、忘井の形です。今のこされている忘井は掘り抜き井戸に石組みを施したものですが、平安時代後期の街道筋に江戸時代のような整備された井戸があったとは思い難いのです。、おそらくもとは泉水、つまりこんこんと湧き出る泉だったのではないかと考えられます。そうした泉が人の寄り場になっている例は『常陸国風土記』久慈郡山田里条や、『出雲国風土記』嶋根郡条にある邑美の冷水などがあります。壱志の忘井もそうした場所で、斎王群行の際にはそれを取り込む形で頓宮が造られたのだとすれば、忘井の正体は、今現地に残された石組みの井戸のようなわざわざ掘った井戸ではなかったのではないかと考えられます。
とすれば、11世紀の壱志頓宮は、伏流水が豊かな雲出川右岸(南側)氾濫原に属する微高地に沸いた泉、すなわち忘井を取り込む形で、その周りに臨時に置かれていた可能性が高いと思われます。
現在は、雲出川河口には香良洲という大きな島ができて、川の流れも大きく変わってしまったものと思われます。、忘井と呼ばれた自然の泉がどこにあったのかは、もはやわからなくなっているのでしょう。鎌倉時代以降この地が歌枕とはならなかったのもそうした変化のためではないかと考えられます。しかしその場所をあえて推定すれば、伊勢中川駅周辺から旧伊勢街道が走っていた肥留町、尾上町周辺までの雲出川右岸にあったのではないかと見られます。ただし忘井が常に壱志頓宮の基準になっていたわけではなく、それは平安時代後期の一時期のことではなかったかと考えられます。
では、現在の市場庄と宮古の忘井はどういうものなのでしょう。これについても明確なことは言えませんが、市場庄の忘井が伊勢街道沿い、宮古の忘井が長谷街道沿いにあることは注目すべきでしょう。これらの古跡は、地誌編纂が盛んになった江戸時代後期に、伊勢の歌壇にもかかわった当時の知識人たちが現地比定を行い、人の往来の多い街道の近くに充てて、斎宮の故事を広く知ってもらおうとしたものではないかと考えられるのです。その意味で、どちらの古跡も壱志頓宮故地とはそれほど離れていないでしょう。どちらにしても、江戸時代の斎宮研究の成果であり、いずれも非常に価値のある古跡だと思えるのです。

榎村寛之

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