第86話  「121人」の謎

「121人」の謎
本年は斎宮跡の発掘調査が始まって50年目に当たります。博物館ではその記念の展覧会として特別展「斎宮と古代国家―飛鳥・奈良時代の斎宮を探る―」展の準備を進めています。飛鳥・奈良時代の斎宮については近年著しく発掘情報が増えてきましたが、まだまだわからないことが多いのも事実。それらをすべて展示や図録でご紹介するのは当然無理なので、こちらでも重箱の隅つつき的なエピソードをひとつ。
奈良時代の歴史書『続日本紀』に、斎王の就任と伊勢派遣の記事が同時に現れる初めての例は、聖武天皇の娘、井上内親王の時です。井上は聖武が皇太子首親王だった時代、つまり彼女がまだ「井上王」だった養老五年(721)に斎王となりました。四、五歳頃と考えられています。しかし、派遣されたのは聖武即位後の神亀四年(727)です。つまり十歳前後で伊勢に来たことになります。その段階で斎宮寮の官人121人が任命されたという記事があるのですが、それにまつわる、少しマニアックなお話です。
歴史書の中で、斎宮で働く人たちの数を書いた例というのはここしかありません。わざわざ人数を書くのはその規模がこれまでになく大きかったということなのでしょう。その意味でも井上内親王が画期的な斎王だった傍証にもなる記事なのですが、問題はその数です。まず、原文は次の通りです。
補斎宮寮官人一百廿一人
ご注目いただきたいのは「官人」という表現です。十世紀初頭に編纂された律令の施行細則集『延喜式』にある『斎宮式』によると、斎宮の官人は520人とされています。一見するとずいぶん少ないように思えますが、じつはそう単純ではありません。『斎宮式』の官人には、斎宮寮の主典(さかん、第四等官)以上、つまり長上(官)と呼ばれる正規の国家公務員が26人、番上(官)と呼ばれる非正規職員が101人、命婦以下の女官が43人、その他の雑用係の下働きと見られる人が350人おり、その範囲を官人と数えているのです。この中で男性の長上と番上を足すと127人、つまり121人にかなり近い数字が出てきます。ここでいう官人は『斎宮式』の官人とは違う意味で使われていた可能性があるのです。

では、121人は男性の正規・非正規職員の数かというと、そうも簡単にはいかないのです。じつは『続日本紀』の記事については、それと関連する神亀五年(728)七月二十一日、つまり翌年の日付のある法が、律令の追加法である「格」をまとめた『類聚三代格』という書物の中にあります。この格は、斎宮寮官人の官位相当と定数を定めたものと見られており、斎王が置かれるたびに再置されていた斎宮寮の官人身分が、ここではじめて定まったと考えられています。といってもこの部分は欠損が多く、最もよく残っている東北大学図書館の狩野文庫に入っている16世紀頃の写本(通称、狩野文庫本類聚三代格)でも欠落があり、わからない所があるのですが。
この官符では、斎宮寮と主神司・舎人司・織部司・膳部司・炊部司・酒部司・水部司・殿部司・采部司・掃部司・薬部司の11司の長上官と伴部といわれる各司の専門作業職(殿部とか水部とか)の人数がかきあげられていますが、残念なことに膳部だけが書き落とされており、全体数はわかりません。しかしその総数は135人、うち長上官は23人(こちらには欠落はないようです)です。つまりこれだけでも『続日本紀』や『斎宮式』の数より多いということになります。そしてここには、門部司と馬部司が載っていないのです。このことから、当時この二つの司はなかったのではないかという説もありますが、警備と移動・運搬手段の確保は斎宮では必須でしょうから、伊勢国府や軍団から力を借りない限り、なかったとは考えにくく、この官符が文官の人事に関わるもので、武官の人事は別に出されたと見るのが妥当ではないかと私は考えるのですが、そうすると『延喜兵部省式』に、斎宮寮門部司は長上2人、門部16人、馬部司は長上1人、馬部4人とあるので、なお20人程度は増えるのではないかと思われます。また、平安時代には主神司は神祇官に直属するので、斎宮寮に属するのは12司になっています。そして『延喜斎宮式』の官人総数には飼丁、つまり馬部司に仕える馬飼が入っているので、門部司・馬部司の人数も入っているものと考えられます。
このように考えて『続日本紀』『類聚三代格』『延喜斎宮式』を比較すると、斎宮の「官人」はそれぞれ、121人、140人+20人=160人前後、127人−主神司官人13人(類聚三代格による)=115人程度になるのです。

このように、『続日本紀』と『類聚三代格』では意外に人数に違いがあります。そして『斎宮式』に見られる下働き、とくに将従と呼ばれる召使的な人たちが奈良時代にはどのくらいいたのかで、斎宮の規模はかなり変わってくるのです。
そして大きな問題として、斎王に仕える女官のことがあります。8世紀から9世紀にかけて、斎王が暮らした内院と見られる区画はかなり拡大されています。もちろん斎宮は斎王の生活や儀式をサポートする女官がいないと動かない組織ですから、奈良時代でも相当な数の女官がいたはずです。例えば、昨年度、一昨年度の調査で確認された飛鳥時代の初期斎宮の脇殿ではないかと見られている長大な建物も、女官の待機・執務のための建物だったのかもしれません。しかし『続日本紀』と『斎宮式』を比べる限り、おそらく121人には女官は入っていません。真の斎宮の規模については、まだまだ検討すべき問題が多いのです。
また『類聚三代格』に見られる「織部司」は平安時代の斎宮には見られず、蔵部司の誤植と考えられていますが、中央では大蔵省に織部司・縫部司が属し、縫殿寮とは別に置かれていました。もしかしたら織部司が物品の保存管理もしていたのかもしれません。奈良時代の斎宮において大規模で企画的な倉庫区画は、奈良時代末期に方格街区(方格地割、碁盤目状の区画)が作られるまでは確認されていない(飛鳥時代の遺構には倉庫的な建物群が見つかっています)ので、この点についても早急に判断するのは難しいのです。もしも蔵部司が奈良時代に織部司と呼ばれていたとすれば、織り手や縫子の女性の女性の管理を行っていた可能性もあるのです。
 斎宮が飛鳥から奈良時代にかけて急速に拡大され、おそらく780年代くらいに計画的な大規模区画が造成されはじめることは、発掘調査からほぼ明らかになっています。しかしその事実と、残された文献とを照合すると、その具体的な様子にはまだまだ謎が残されています。わかりきっているような史料でも、細かく見ていけば、検討していく課題はいくらもある、というお話でした。

榎村寛之

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