第70話  斎宮の馬 二景

 斎宮跡は台地の上にある遺跡です。こういう所の遺跡では木製品や骨などはほとんど見つかりません。土中の細菌や、酸性の強い土により、たいていの有機物が分解されたり溶かされてしまうからです。そのため、斎宮ではこれまで木簡が一点も見つかったことがありません。しかし全く見つからないかというと、そうでもないのです。見つかる可能性があるのは、井戸の跡を底まで掘りきった時、その底に溜まった水の中です。空気に触れず乾燥もせずパックされた水中、それは木製品だけではなく、いろいろな有機物が分解されずに残る絶好の空間なのです。
しかし斎宮跡の井戸は大変深く、水脈に当たるまで4〜5メートルほど掘らなければなりません。井戸の形を残したまま、周囲の壁が崩れないように保全しながら掘るのは大変難しくかつ色々なリスクを伴うので、滅多に行えません。その中で第61次調査(いつきのみや地域交流センター・明和町観光協会から道路を挟んですぐ東側の現場、方格地割の東から3列目、北から1列目、西加座北区画、9世紀前半には倉庫群があった区画です)で発見されたSE4050という番号を振られた井戸は、比較的浅かったこともあって底まで掘り上げ、多くの良好な資し料が発見されました。残念ながらここでも木簡は出土ませんでしたが、斎宮では極めて珍しい遺物が発見されました。馬の歯です。これは平安時代の斎宮では唯一といえる生きた馬に関する資料なのです(奈良時代の斎宮の馬についての遺物としては、第137次調査、博物館南側の旧竹神社跡で見つかった金銅製の馬具(馬に装着する革帯を飾る金具)があります。『斎宮百話』第29話「出ました出ました!」を御覧下さい。
http://www.bunka.pref.mie.lg.jp/saiku/hyakuwa/journal.asp?record=29)

 井戸から馬の歯が出た、というのは、別に馬の歯だけを井戸の中に投げ込んだわけではありません。もともと馬の首を斬って井戸の中に投げ入れたもので、頭全体は骨まで腐ってしまい、歯だけが残ったものと見られています。このような馬の死体を泉、井戸、滝壺や淵に投げ入れる呪術は各地に伝承例があり(筒井功『殺牛・殺馬の民俗学−いけにえと被差別−』 河出書房新社 2015など)、雨乞いの方法の一つだとされています。水を穢して水を司る神を怒らせようというのです。このような儀礼に使われるということは、斎宮では馬が特別なモノ
として扱われていたことの証しでもあるのです。
 斎宮寮には馬部司がありました、もともと宮中には馬寮という馬の管理をする役所があり、その斎宮版です。斎宮ではたくさんの馬が飼われていて、神宮との行き来や、都や伊勢国府との連絡用に使われていたので、それを飼う役所が必要だったのです。斎王の群行の際には「御馬」二頭が用意され、おそらく非常用ですが、斎王の馬もいたのです。神亀五年(728)に斎宮寮とその下部機構の十一司について官位相当制を定めた官符(命令書)が出されましたが、その中には馬部司と門部司が見られません。そのため、当時この二司はなかったのではないかとも言われますが、この二司は武官なので、文官の十一司とは別に扱われたと考えられ、この時期にはすでにあったものと見ていいと思われます。実際、都からの斎王群行や伊勢神宮への参宮などには馬は必需品で、斎宮で飼われていなかったとは考えにくいのです。実質的な最初の斎王と言われる大来皇女の歌にも
 見まくほり我がする君もあらなくに 何しか来けむ馬疲るるに
という歌があり、比喩的とはいえ、斎王の帰京に馬が重要な役割を果たしていたことがよくわかります。平安時代前期の斎宮の基本的な法律書『延喜式』の神祇式の斎宮の項目、いわゆる『延喜斎宮式』項には、斎王の群行に先立ち、斎宮寮の頭(長官)、女官の長の命婦にそれぞれ馬四疋、それ以下の人々にも番上(非常勤職員)に至るまで馬が与えられていたことが記されています。もちろんすべての馬を斎宮で飼ったわけではないでしょうが、馬はそれほど重要な輸送手段だったのです。

そういう重要な馬の首を斬って井戸の中に投げ入れるのは、それ以上に重要な「いけにえ」として扱われたことを示しているのです。
 さて、斎王の御馬は、斎王が群行する時に、いわば非常用の乗り物として用意されるわけですから、群行が終われば用が無くなるのでしょうか。どうもそうではないらしいという文書が残っています。
 現在、宮内庁書陵部が所蔵している壬生家文書という古文書群の中に、斎宮寮が発給した文書、斎宮寮解(さいくうりょうのげ)が、一点だけ残されています。これは全国で、というより世界中でたった一点残された、斎宮寮から出された文書として知られている貴重なもので、一昨年(2015年)の特別展『よみがえる斎宮』で展示しました。
 その文書の中身が斎王の御馬に関わるものなのです。その内容はざっとこんな感じです。  
    斎宮の規定によると御馬が死んだら替わりがいただけることになっています。その御馬二疋のうち左馬寮から送られた鹿毛の一疋が去年11月14日に死んでしまいました。先例の通りお送り下さいますよう依頼の文書件の如し。
 この文書には天喜二年(1054)四月十六日の日付が入っています。つまり斎宮ではこの時代でも二頭の御馬が飼われていて、わざわざ鹿毛(茶褐色の毛)だったとしているので、一頭は鹿毛でなければならなかったのでしょう。とすればもう一頭は白毛なのか葦毛なのか、興味が湧きます。現在の神社でも神馬は白が好まれますから、清浄を尊ぶ斎宮も白がよかったのかもしれませんね。そして斎王の御馬だからいい馬でなければならず、そのへんの馬を替わりにすることはできず、わざわざ都で、いい馬を集めて管理している馬寮に依頼している所が、ただの馬ではなかったことを示しています。
 おそらく斎王が八月の晦日と十月の晦日、大淀の海に禊に行く時や、伊勢神宮の三節祭(九月神嘗祭、六月、十二月月次祭)に参加する時の行列にもこれらの馬は私用されたのでしょう。首を斬られて捧げ物にされた馬と、斎王の乗用になっていた御馬、斎宮の馬にもいろいろな人生ならぬ馬生があったのです。

榎村寛之

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