第68話  謎の「御館」の碑

斎宮千話一話 謎の「御舘」の碑
 斎宮跡は史跡公園として、最近著しく整備されてきました。一昨年開園した「さいくう平安の杜」の平安時代の復元建物三棟をはじめ、さまざまな施設や空間が史跡内に次々とお目見えしているのです。
 こうして斎宮跡の景観が変わっていく中で、よく知られていなかったものが再発見されることが稀にあります。今回はそういうお話です。
 近鉄斎宮駅の少し北、歴史体験施設「いつきのみや歴史体験館」と休憩施設「いつき茶屋」の間に、「斎王御舘の碑」と呼ばれる石碑が昔から立っています。この碑は近代の斎宮の顕彰遺産として貴重なものなのです。
 明治時代、近代国家は天皇を中心とした政治体制を固めるため、全国各地の天皇や皇族に関わる伝承地の顕彰を盛んに行いました。斎宮関連では、斎宮で没した隆子女王の墓探しが行われ、明和町馬之上にある現在の場所が、今は日本遺産にも入っている「隆子女王墓」と認定されたのはこの時期でした。そうした政府の動きは、この地域の斎宮に対する愛着心を揺り動かしたようです。もともと江戸時代にも、斎宮関係の地名が多い所として知られていたのですが、そうした場所を明確にして、斎宮のことをより広く知っていただこうという活動が地域からも出てきました。地域の有志により、1903年(明治三六)に斎宮旧跡表彰会という組織が作られ、史跡内格地に建碑運動が起こったのです。この「斎王御舘の碑」には、経緯も建立年も刻まれていないのですが、こうした顕彰が行われた時期に建てられたものではないかと考えられます。
 現在、「御舘の碑」のあるあたりは、広場としての再整備が進んでいます。そしてその過程で、これまでほとんど注目されてこなかった、もう一つの「御舘」の碑がはっきりわかるようになったのです。
 この碑は「いつき茶屋」の裏あたりにある、と言われていたのですが、当時は野原になったような状態で、どこに碑があるのか、じつは斎宮に勤めて三十年になる私にも、よくわからないままでした。ところが今年、この地域を耕して菜の花の種を蒔いたところ、その菜の花畑の中に、この碑が浮き出すように現れてきたのです。

新発見の「御館」の碑 斎王御館の碑
新発見の「御館」の碑 斎王御館の碑

 この碑は高さ50センチもない小さなもので、「御舘」と書いているだけの簡単なものです。建立年月日も建立者も、刻銘がありません。字体も達筆というより、事務的な雰囲気のものです。
つまり何の色気もない石碑なのです。それこそ小字の名前を書いて立てただけ。しかしこういうものも逆に珍しいのです。
 というわけで、由来も建立者もはっきりしない石碑なのですが、少しだけ考えるヒントがあります。斎宮が国史跡指定を受けた頃に明和町が出版した『郷土史に見る斎宮』(明和町 1978年)に掲載されている『斎宮村郷土誌』(原本1930年刊行)には、御館について
「小字の中央水田の中に、今も猶、御館跡と稱して、一塊の土饅頭を遺存してゐます」
としており、これが「御舘」の碑の建っている場所とも考えられます。さらに同書では、1881年(明治一四)に、永島雪江、乾覺郎、北野信幸という郷土の旧家当主や神官の三人が発起人となり、斎宮復興運動を起こしたこと、1903年に「齋宮舊蹟表彰會」を結成して建碑運動を行い、1918年(大正七)には斎宮跡についての嘆願書を内務大臣宛てに出しています。そこでは、斎王御館の遺跡を始め宇田明神、笛川、鈴池、有明池、木葉池、呉竹の藪、蛭の沢花園に標石を建てたとしています。
 さて、現在この中で国史跡斎宮跡の中に確実に残っているのは「呉竹の藪」の石碑です。そして同じく史跡内には、ここには見られない「紅葉森」の碑があり、その達筆の筆跡は「呉竹の藪」の石碑によく似ています。また、史跡の外側にも「宇田明神」の碑があり、やはりよく似た筆跡です。

 これらのかなり立派な筆跡の石碑が1903年頃に建てられたのだとすれば、最も立派な「斎王御舘の碑」もこの時期に建てられたと見るのがおそらく妥当でしょう。とすれば、新発見の素朴な「御舘」の碑がそれより新しいとは考えにくい所です。ならば小さい方の「御舘」の碑は、1881年の斎宮復興運動の遺跡なのではないか、とも考えられます。
 決定的な証拠はありませんが、「御館」の碑については、一応そんなことが言えそうです。
 しかしそれにしても、斎宮跡には、多くの先人たちが関わってきたのだなぁと改めて思います。斎宮には多くの人たちの思いが今も眠っているのです。

斎宮呉竹の藪の碑

斎宮呉竹の藪の碑

榎村寛之

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