第65話  出雲鰐淵寺と朝熊山金剛証寺と斎宮と

 平成28年特別展『古代の出雲』、おかげさまで好評開催中です。この展覧会では、弥生時代や古墳時代、あるいは飛鳥奈良時代の文字通り「原始・古代」と言われる時代の出雲だけではなく、「古代の出雲」が後世にどのようにイメージ化されていったか、という紹介も行っています。
 その中で、平安時代の出雲文化の代表としてご紹介しているのは、出雲市にある鰐淵寺の文化財です。この寺は、出雲大社の丑寅、つまり東北の鬼門の位置にあたる鰐淵山の中にあります。鰐淵山は、山岳仏教の修行の場として、平安時代の今様(流行歌)を集めた『梁塵秘抄』にも見られる山です。この山に、浮浪山鰐淵寺という寺院が、平安時代に開かれました。比叡山の延暦寺と同じく、天台宗の寺院で、まさに「出雲の比叡山」という雰囲気のある荘厳な山岳寺院です。そしてこの寺の僧は、出雲大社の大きな祭で神前読経、つまり本殿の前で経を読み上げるなど、深く関わっていました。平安時代から鎌倉時代にかけて、出雲大社は神仏習合の神社に変化しつつあったのです。
 鰐淵寺では、牛頭天王や蔵王権現など、神仏習合の神々も祭られていました。牛頭天王は、祇園社の神で、平安時代以来、陰陽道の神として広く信仰された神様です。この神さまについては、蘇民将来の神話で広く知られていました。この神話は、鎌倉時代に編纂された『日本書紀』の注釈書『釈日本紀』に引用された『備後国風土記逸文』に最も古い例が見られる神話で、ざっとこんな内容です。
大晦日に旅していた「武塔神」が宿を取りはぐれ、ある土地の物持ち「巨旦将来」に宿を借りようとするが断られ、隣家の貧しい兄「蘇民将来」を頼むと快く泊めてくれた。恩義を感じた武塔神は、茅の輪を腰に下げることを教えて、後にこの地域に流行病を流行らせて、蘇民将来の子孫以外を全滅させた、というものです。
この武塔神はスサノヲノミコトと同じ神と書かれ、また、陰陽道の信仰では、牛頭天王として広まりました。そのため、「蘇民将来子孫」は、流行病避けのおまじないとして全国に広がり、松阪より東の伊勢・志摩地域でも、一年中玄関などに掛けるしめ縄に、「蘇民将来子孫家門」と書いた木札を下げているものがよく見られます。一方出雲でも、スサノヲノミコトが出雲神話と関わりの深い神であったため、牛頭天王が出雲大社の鬼門で祭られるようになり、ついには出雲大社の神自体も、鎌倉時代以降に、スサノヲノミコトだと信じられるようになったようです。この展覧会では、その信仰を象徴するものとして、平安時代後期の三面六臂(腕は欠損)の牛頭天王像を紹介しています。

鰐淵寺根本堂 鰐淵寺常行堂と摩陀羅神社
鰐淵寺根本堂 鰐淵寺常行堂と摩陀羅神社

また蔵王権現は、奈良時代の山岳修験者、役小角(えんのおづぬ)、伝説化されて役行者(えんのぎょうじゃ)と呼ばれた人物が吉野金峯山で感得した神と言われ、山岳仏教で広く信仰された神です。鰐淵山には蔵王宝窟という洞窟があり、修行の場となっていました。その蔵王宝窟で見つかったのが、今回展示している石製経筒です。
経筒とは、平安時代後期、末法思想の影響で、後世に自らが書写した経文を伝え、極楽往生を祈願するために造られた一種のタイムカプセルで、土中などに収めたものです。普通は銅製または陶器製のものが多く、石製は極めて希です。柔らかい素材を選んでいるとはいえ、石ですから大変な労力で造られたもののようで、しかも表面には銘文が刻まれていて、仁平三年(1153)年に蔵王宝窟に納められたことが分かっています。面白いのはこの仁平三年という年号です。
経塚は奈良県の大峰山頂に11世紀初頭、藤原道長が築いたものが最古の記録で、同じ頃に熊野市の花の窟についても「いほぬし」という増基法師の旅行記で、岩場に経典を納めている様子が記されています。そして伊勢地域を代表するのが朝熊山金剛証寺の経塚です。この経塚は伊勢神宮の神官たちが造営したもので、保元元年(1156)などの銘文の入った経筒や多くの宝物が出土し、国宝に指定されています。
この経筒の年号は、鰐淵寺の石製経筒の年号と三年しか開きがありません。そして金剛証寺は、伊勢神宮の鬼門封じの寺として信仰を集め、そこでまつられている雨宝童子は、アマテラスオオミカミと同体の神と信じられ、伊勢での神仏習合の象徴にようになっていました。金剛証寺は真言宗(後に臨済宗)の寺院ですが、鰐淵寺と金剛証寺、出雲大社と伊勢神宮は、極めてよく似たポジションにあったのです。
このように、平安時代後半には、スサノヲノミコトやアマテラスオオミカミのような記紀神話の古代の神と、仏教が積極的に結びつき、伊勢でも出雲でも新しい古代イメージが形成されていたのです。
 しかしその潮流からどうやら乗り遅れてしまったらしいのが斎宮です。源平の合戦の時代には斎王が15年も置かれないということがあり、その頃に、今の竹神社の位置に在ったらしい斎宮内院も廃絶してしまったようなのです。古代から変わらない形でアマテラスオオミカミに仕えてきた斎王が、時代の変化についていけなくなる、斎宮の廃絶へのスタートとなるのが、どうやらこの時代、出雲や伊勢で経塚が造られる時代だったといえるのではないかと思います。斎宮は神様の変化とともに、衰退に向かっていったのです。

榎村寛之

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