第62話  野宮を探した話

 5月のとある1日、お休みをいただいて野宮に行ってきました。といっても、京都の嵯峨野にある野宮神社ではありません。奈良市内の野宮なのです。ご同行いただいたのは斎宮の普及啓発に大いなる力を発揮しているボランティアグループ、斎宮紙芝居「かわせみ座」(斎宮千話一話第19回「かわせみ君ときつね君」参照)の皆さん。
 数年前、奈良市内に野宮という名前の神社があるが、斎宮と関連するのではないか、というお話をさる方からいただきました。すぐそばを川が流れていて、禊もできそうな環境だったよ、という話で、それ以来気になっていたのですが、そのままにしていました。そのことをかねて話していたかわせみ座の皆さんに、是非見に行こうと勧められ、ついに研修を兼ねて実地調査をすることになったのです。
 インターネット時代というのは本当に便利。西の京の薬師寺近く、という手がかりから、野々宮天神社という名前がすぐに明らかになりました。ただ、天神社ということで、祭神は菅原道真、つまり平城京より新しい時代の人で、祭られた経緯や置かれた時期は不明。その上、平城京の地図に落としてみると右京六条三坊、薬師寺が右京六条二坊なので、まさに薬師寺の西隣の区画となるのです。平安京では野宮は占いで定められ、多くの場合、京の郊外に置かれます。最も多かったのが嵯峨野です。京内はちょっと考えにくいか。
 しかし、実はそうでもないのです。現在野宮と伝承されている神社は京都市内に三箇所あり、うち二箇所は、有名な嵯峨野の野宮神社と、やはり嵯峨野の斎宮神社ですが、もう一箇所は西院駅(阪急電鉄など)の近くにある西院野々宮神社です。倭姫命と平安京遷都の後の最初の斎王、桓武天皇皇女の布勢内親王をお祀りする伝承地で、側を天神川という川が流れていて、禊もできないことはありません。そしてここは平安京右京四条三坊にあります。もちろん伝承地にすぎないのですが、野々宮天神社とはたった二条の違い、京内だからと言って無視できるわけではありません。
 さて、西の京駅から一行は西を目指して歩き出しました。一坊分なので道路幅を見込んでも500メートル程度、すぐだなぁと思っていたら、これが意外にだらだらした上り坂で、結構しんどい道なのです。それでもどうにか見つけました。野々宮天神社。

野々宮天神社

野々宮天神社

 奉納されている江戸時代末期の灯籠を見ると、野々宮という小字(あざ)らしい記載があり、野々宮はこのあたりの地名だったようです。持参したタブレットで調べてみると、薬師寺周辺には天満宮・天神社が十数カ所もあります。それぞれの神社の創建年代は不明ながら、旧薬師寺境内にある養天満宮などは鎌倉時代と言われているようです。考えてみればこのあたりは菅原氏の大もと、土師氏の本拠の一つ、後世に天神信仰が盛んになっても不思議ではありません。とすれば、野々宮の地名が先にあり、薬師寺周辺に天神さんが置かれた頃に、野々宮にも置かれたから野々宮天神、なんてことも考えられます。
 天神社はうっそうとした木立に囲まれ、丘の中腹にとりのこされた森、という感じになっています。神社の傍らを流れている小川を見に行くと、護岸工事が進んでいて風情はないながら、水は意外に澄んでいて流れも早く、悪くない感じです。と、メンバ−の一人が不思議なものを発見、それは「離宮ヶ丘町」という看板でした。ここの住所は奈良市六条町、離宮ヶ丘町ってなんだ、そもそも離宮ってなんだ・・・。

離宮ヶ丘?

離宮ヶ丘?

 ここでまたタブレットが大活躍します。それによると、六条町になったのはいわゆる平成の大合併の時で、その前にはこのあたりは離宮ヶ丘町と言ったらしいのです。そしてこのあたりには孝謙天皇の「瑠璃宮伝承地」なるものがある、というのです。
 そんな離宮聞いたことがない。少なくとも奈良時代の歴史書『続日本紀』にはない。
 というわけで、まずは道行く人に聞いてみたのですが、誰も知らない。そこで検索して記念碑と看板の写真を見つけ出し、近くを探してみたのですが、まったくわからない。普通ならこれで諦める所ですが、斎宮にかける情熱が人一倍のかわせみ座に押されて、ネットで見つけた写真と見学記にあった略地図とタブレットのマップ機能を頼りに探すこと数十分、野々宮天神社から北に数百メートルの所にある東西道路(おそらく五条大路のなごり?)の南側に、ほんの小さな、公園とも史跡ともいえない坪庭のようなスポットを発見した時は驚いたし嬉しかったです。その看板がこれです。

瑠璃宮の説明看板

瑠璃宮の説明看板

 この解説によると、瑠璃宮は天平勝宝四年(752)に孝謙天皇が置いた離宮で、平安遷都の後は衰退したが、薬師寺の管理下に置かれていたとあります。出典は何かしら?
 『続日本紀』天平勝宝元年閏五月二十三日に「薬師寺宮」という離宮が出てきます。瑠璃宮は薬師寺の別名(ただし奈良時代に名乗っていたという確証はない)でもありますから、あるいは薬師寺宮の跡のことを後世瑠璃宮と言ったのかもしれません。しかし薬師寺宮は聖武天皇の時代にはあった宮なので、天平勝宝四年造営には合いません、また『新日本古典文学大系 続日本紀』の「薬師寺宮」の注では、『薬師寺縁起』に見られる「辰巳二丁別院」、つまり薬師寺境内の東南、つまり平城京右京六条二坊の中にあった離宮としています。なお、『続日本紀』の天平勝宝四年条には離宮の造営記事はありません。
 残念ながら伝承の根拠は今の所不明なのですが、瑠璃宮伝承地が、野々宮と同じ右京六条三坊の中にあったのは重要なことです。瑠璃宮の跡から東を見ると、住宅の間に、奈良市外から東の山々まで一望できる景色が覗いていました。ここは景勝の地らしいです。
 そしてもう一つ、地図を見ると、野々宮天神社から見て瑠璃宮跡と反対側に「大池」と呼ばれる池があるのですが、どうもこれが『万葉集』に見られる景勝地「勝間田池」のことらしいのです。入江泰吉の写真で広く知られるようになった「薬師寺の東塔・西塔が見える池」それがこの大池なのです。

 さらに、奈良文化財研究所のホームページから当たってみると、平城京右京六条三坊は、まだ2回程度しか発掘調査は行われておらず、明確な都市的な遺構は未発見、ただ、瓦を含む層があるので、近くに瓦葺きの建物があったらしい、としかわからないようです。
 そして平城京の地形図から等高線を見てみると、野々宮天神社のあたりは東の生駒山系から張り出してくる丘陵の東端で、標高75m程度のゆったりした丘の中腹、という感じです。この丘陵は平城京右京六条二坊の東端で急な坂になり、標高55mほどの平地(薬師寺の標高はこの位です)に下ります。だらだらした坂道はここなのです。つまり自然林を整理すれば、比高差20m、五階建て位のビルから奈良盆地を見下ろせるような景観が楽しめるわけです。こういう所は田地に適さないし、都城として開発しても住みにくいでしょう。しかし離宮にはいい所だろうと思います。
 さて、ここまで調査して、気がついたことがありました。それは、天皇のための園地と野宮の関係が浅くない、ということです。養老五年(746)、聖武天皇(当時は皇太子首親王)の娘、井上王は、元正天皇二人目の斎王となり、そのまま聖武天皇の時代の斎王、井上内親王となりました。その斎王就任の直後に入ったのは、平城宮の北側、松林宮という園地の中にあったと見られる「北池辺新宮」です。つまり、松林の豊かな園地の池の畔に野宮にあたる新宮が造られたというわけです。この状況と、瑠璃宮が置かれるような景勝地で勝間田池が側にあり、京内とはいえ未開発だったこの地域に野宮が置かれても不思議ではないように思えます。

瑠璃宮の碑

瑠璃宮の碑

 さて、もしもこの「野々宮」に何らかの根拠があるとすれば、それはどの斎王の野宮なのでしょうか。孝謙天皇の代には「小宅女王」という斎王がおり、次の淳仁天皇の時には「山於女王」または「阿倍内親王」という斎王がいたと平安時代後期以降の文献に見られます。いずれも名前は『続日本紀』には出てきませんが、淳仁朝に斎王がいたことは『続日本紀』から確認でき、孝謙朝の斎王についても実在は間違いのない所です。薬師寺周辺が離宮的に扱われるようになったのは聖武天皇の頃だとすれば、井上内親王の次の斎王、県女王なども候補に考えられます。あと、平城京から旅だった最後の斎王、朝原内親王(井上内親王の孫)の可能性だってあるのです。
 もちろん特段の根拠がある話ではありませんが、遠く薬師寺の塔が見える、離宮が置かれた景勝の地に瀟洒な野宮が造られ、勝間池に注ぎ込む小川で、奈良時代の斎王が禊をしていた、なんて考えるのも楽しいことではありませんか。

斎王が禊した川?

斎王が禊した川?

 最後に調査に多大なご協力をいただきましたかわせみ座の皆さんに感謝して、長舌の講釈をおひらきといたします。

榎村寛之

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