第58話  斎王まつりによせて〜別れのお櫛のこと〜

平成27年(2015)も早いもので、もう6月に入りました。6月の声を聴くと、博物館まわりには「斎王まつり」の幟に囲まれます。6月第一土曜の夜と第二日曜は、斎王まつりの日なのです。
 この祭は本年には第33回を迎えます。地域の婦人会が代々の斎王の霊を慰めるために始めた簡素なお祭りが、行列に発展し、参加者を募り、多くの人々に来ていただく一大イベントに発展してきたものです。
 そのメインとなるのが、斎王の森の前の芝生広場「歴史ロマン広場」で行われる出発式と、博物館南側の「ふるさと広場」までの約2qにわたる斎王行列です。
 このイベントが都から斎宮に向けて行われた「群行」を模したものであることは言うまでもありません。
 さて、現実の斎王群行は、10世紀以降、その詳細な記録が儀式書などに残り始めます。最も古いのは、後の斎宮女御徽子女王が伊勢に派遣される時の記録で、『本朝世紀』という歴史書に見られる天慶元年(936)のものです。ところがこの記録には、重大な問題がありました。斎王の旅立ちに際して、天皇が斎王の額に黄楊の櫛を挿す儀式、通称「別れのお櫛」が出てこないのです。この時は、時の帝の朱雀天皇が物忌で出られず、摂政の藤原忠平が代行していたのですが、その忠平の日記『貞信公記』には、天皇に代わって櫛の儀式を行ったことが記されています。つまり『本朝世紀』は、櫛の儀式を意識的に書かなかったと考えられるのです。『本朝世紀』は平安時代末期、藤原信西によって編纂された歴史書ですが、今は一部分しか残っていません。その原資料は宮中の公的記録だった「外記日記」だと推測されています。だとすれば、「別れの櫛」は、公的な行事記録には書かない、というのが10世紀段階での「常識」だったと考えることができます。
 ではこの儀式はいつごろまでさかのぼるのでしょうか。10世紀初頭に編纂された『延喜式』では、天皇が平安宮の最も重要な建物、大極殿に出御し、斎王も殿上の座に就く、としていますので、対面の儀式はあったようですが、それ以上は「事は儀式に見ゆ」、つまり『儀式』という本に詳しく書いてある、としています。その『儀式』という本は現存しているのですが、そこには斎王発遣の儀式次第は記されていません。もっとも現存する『儀式』と、ここにいう『儀式』が同じ本なのかどうかについてもよくわかってはいません。
一方、天慶元年の天皇が出御しない形の儀式は、清和天皇の貞観三年(861)年の前例に依っていたとしています。つまりこのころまでには儀式としてまとまっていたことになります。

また、『本朝法家文書目録』という本があり、そこに『内裏儀式』という本の目次が記されているのですが、その中には「斎内親王参入伊勢式」、つまり斎王が伊勢に向かう時の儀式、という記述が見られるのです。この『内裏儀式』という本も一部しか現存しておらず、そこには斎王発遣儀式についての記述はありません。
しかし、儀式書の研究成果により、『内裏儀式』は、平安時代初期に編纂された本だわかってきていますので、9世紀初期には斎王発遣の儀式が定められていた可能性はかなり高い、といえるでしょう。
この儀式では、天皇は実に不思議な動きをします。まず、大極殿に出御する時は、天皇は、桓武天皇以来、黄廬染という黄金色の袍を着るのが決まりなのですが、この時だけば白の衣装を着ます。そして天皇の権威を象徴する座である特別の座席「高御座」にも就かず、平床の座に座り、斎王と同じ目線で対面します。そして天皇は斎王に「都のかたにおもふきたまふな」と声をかけるのです。この言葉の意味については色々と説がありますが、公的な儀式の中で天皇が特定の人に対して、これほど長い言葉をかけることは他にはありません。まして櫛を挿してやるなど、本来家臣や女官の仕事です。
これらの事実は、この儀式が天皇の公的な儀式ではなく、私的な儀式として成立したからではないか、と考えることができるように思われます。もともと天皇が斎王=娘と別れを惜しみ、その身の守りとして自らの権威を分与するかのように櫛を挿してやる、という内々の儀式として成立した(だから最初は記録にも残らなかった)ものが、公的な儀式の一部となって継承された、というものではないか、という推測が十分可能ではないか、と思われます。そしてそこには、天皇の伊勢神宮への敬意と、その伊勢神宮に仕える斎王の権威がうかがえるのです。

さて、天皇が斎王の発遣に確実に立ち会った確実な最古の例は桓武天皇です。桓武天皇は、平城京から長岡京に都を遷した翌年の延暦四年(785)に、長岡新京から平常旧京に戻りました。娘である斎王朝原内親王が、長岡京に同行せず、平城京の東郊外と見られる春日斎宮に入っていたからです。『続日本紀』同年九月七日己亥条には朝原の進発の記事があり、斎王の行列に百官が従い、大和国の堺まで見送ったとしています。しかし天皇が同行したとは記されていません。桓武はおそらく群行の出発前に対面していたものと見られます。しかし場所はあくまで平城旧京ですから、平安時代のような形だったのかどうかはわかりません。さらに言えば、平城宮と平安宮は構造が違うので、平安時代の儀式通りには行えないことは明らかです。
なお、百官や大臣以下が斎王を京域の外まで送る、という記録は奈良時代にしばしば見られますが、ここまで規模の大きな送り方は他にはありません。なお、実在の確実な最初の斎王である大来皇女については、泊瀬(現在の長谷寺近く)斎宮から伊勢に旅立ったようで、父である天武天皇と対面はしていなかったようです。
朝原内親王は聖武天皇の娘だった斎王井上内親王の娘、酒人内親王を母としています。代々の斎王の中でただ一人、祖母、母、娘と三代続いた斎王であり、特別な斎王だった人です。斎王と天皇の対面の儀式が重要視されてくるのは、まさにこの頃だったと言えるようです。
それは斎宮に方格地割が造られ始めた頃でもあり、斎王の権威がまさに目に見える形で斎宮に現れた頃だったのです。 

榎村寛之

ページのトップへ戻る