第47話  竹川古里という地名

 斎宮歴史博物館のある所は、三重県多気郡明和町竹川、といいます。この竹川とは、斎宮跡の西限を流れる「祓川」に当たる川の古名と考えられています。このあたりの川はかなり流路を変えていると考えられますが、おそらく最も斎宮に寄った川、つまり多気郡に寄ったの川を竹川と言ったのでしょう。
 さて、現在の博物館のあたりは竹川でも北の端の方になります。実際の竹川の集落は博物館より600メートルほど南、近鉄線のなお向こう側を走る旧伊勢街道北側のブロックにあたります。このあたりは近世でも領地が入り組んでいて、竹川村は神宮領、街道を挟んだ南側は金剛坂村といい、紀州藩領になっていました。
 道一本挟んでいるだけで村も支配地も違うと、例えばこんなことが起こります。『明和町史』によると、寛保元年(1741)に竹川村と金剛坂村で争論が起こったのですが、この時は竹川村から神宮領代官所に訴え出て、神宮代官から、金剛坂村が属する、紀州藩の出先の田丸領内の大庄屋に書状を送るという手続きが取られています。さすがにこれでは面倒すぎたのでしょう、寛政十年(1798)には、斎宮村と隣接する鳥羽藩領馬之上村で訴訟が起こった時は、山田奉行所に訴え出ましたが、結局内々の話合いですませています。山田奉行所は現在の伊勢市に置かれ、神宮領を支配していましたが、このような地域への介入もできたので、複雑に入り組んだ地域支配のバランスがとれていたようです。
このような、道一つ隔てて所属が変わる、という複雑な村落のあり方の背景には、竹川村も金剛坂村も、移転、あるいは拡張して伊勢街道沿いに出来た集落だという歴史的な経緯があるのではないかと思われます。

 斎宮歴史博物館の少し南の地域の小字名は、古里といいます。斎宮跡の発掘はこのあたりで始まり、斎宮との関係が明確ではなかった頃は、「古里遺跡」とも呼ばれていました。この古里は、「竹川古里」、つまり竹川村の旧地だった、という所から来ているようです。この「古里遺跡」では、道路遺構、奈良時代の遺構とともに、鎌倉、室町時代の遺構や遺物も見つかっており、斎宮衰退後も集落があったと考えられます。そして地域の伝承では、現在の伊勢街道は蒲生氏郷が松阪に入ってから付け替えられたもので、もとは古里のあたりを通っていた、ということです。ならば鎌倉、室町時代の遺物はもともとの竹川村に関わるものかもしれません。
 博物館の南側のふるさと広場と、斎宮駅北側の芝生広場を結んで、まっすぐに進む道があります。半分だけ石敷きのように舗装され、半分が地道になっている道路です(平成27年度に幅9mの古代伊勢道として再現されました)。この道は奈良時代の官道で、その延長はまさに古里遺跡の中で確認されています。つまり竹川古里とは、奈良時代以来続く道の両側に形成された集落、つまりもともと街道筋の集落として誕生したため、街道の変更によって移転を余儀なくされたのではなかったか、と考えられるのです。
 そして古里遺跡から出土している遺物の中で興味深いのは、底部に墨書で花押、つまりサインのようなものや文字を描いた椀です。この椀は釉薬のかかっていない、簡素な作りの土器で、通称「山茶椀」と呼ばれ、11世紀末期頃から作られるようになったことがわかっています。つまり平安末期の頃に、文字を操れる程度の教養を持った人たちがこの地域に住んでいたのです。街道沿いで文字の書ける人がいる所となると、普通の集落とは考えにくいでしょう。
 近世の竹川村と斎宮村の境界あたりに立つ斎宮小学校では、校舎の建て替えにより、平安時代後期の門(四脚門)が発見されており、当時の斎宮の遺跡が、平安時代前期の方格地割(碁盤目状の区画)より広い範囲に展開していることが指摘されています。とすれば、斎宮小学校まで徒歩十分位の位置にある古里遺跡に住んでいた識字層の人々が、斎宮とも無関係な暮らしを送っていたとは考えにくいでしょう。斎宮と平行する時期に、都と伊勢を結ぶ街道沿いに、斎宮の北側に隣接するように「竹川」と呼ばれる集落ができていた。それが今の竹川村の発祥なのだということができるのではないかと思われるのです。
 現在、古里を通る道は博物館南側の芝生広場の中をカーブしながら東西に走る形で再現され、西の端は切り通しを抜けて田園風景の中に降りていきます。この切り通しの南側には、竹川村の鎮守社、八王子社があった森が残されており、竹川の集落と竹川古里をつなぐように残されています。この八王子社は、江戸時代以来、『延喜式』に見られる竹神社に比定されていましたが、近代の神社統合で廃され、今は旧竹神社跡の石碑が残されています。
夏の昼下がりの竹川古里は広々として気持ちのいい所です。


榎村寛之

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