第35話  小さな大発見−ひらがないろは歌の墨書土器 その1

 今年一月、斎宮から、大きなニュースが全国に発信されました。
平安時代後期の「いろは歌」を書いた墨書土器の発見です。
発見から半年展示をして、色々なご意見を頂き、4月29日(日曜)にはシンポジウムも行われ、5月6日(日曜)一時撤収と、ようやく一区切りついてきました。詳しい研究発表は報告書などで行いますが、千話一話では、いろは歌墨書土器の何が面白いのか、について、2回に分けてご紹介しようと思います。
「いろはにほへとちりぬるを わかよたれそつねならむ うゐのおくやまけふこへて あさきゆめみしゑひもせす(色は匂へと散りぬるを 我が世誰ぞ常ならむ 有為の奥山今日越へて 浅き夢見し酔もせす)」
七五調四句、今様風とも言われるリズムで、同じ音は一度しか使わない、というルールでつくられた歌謡がいろは歌です。その成立は、今様風のリズムが現れる十世紀前半以降と見られており、とくに貴族子女の教養書として、色々なデータを暗唱しやすいように配列した『口遊』(源為憲著 970年成立)が、
「たゐにでて なつむわれをぞ きみめすと あさりおひゆく やましろの うちゑへる子ら もはほせよ えふねかけぬ(田居にでて 菜摘む我をぞ 君召すと 求食り追ひゆく 山城の 打ち酔へる子ら 藻葉干せよ 得舟繋けぬ)」
という、あまり意味のよくわからない歌をとりあげているので、これ以降の成立と考えられています。
さて、現存するいろは歌の最古のものは『金光明最勝王経音義』、つまり金光明最勝王経という経典の音読について解説した本の冒頭に書かれているものです。しかしこれは、万葉仮名、つまり漢字の音を借りて「以伊呂路波八(イイロロハハ)」のような形で書かれています。私たちが知っている「いろは」とは少しイメージが違います。

実はいろは歌は「諸行無常 是生滅法 生滅滅已 寂滅為楽」という仏教の教えに基づく歌だという説があり、読経のための音韻を学ぶために創られたのだとも考えられています。つまりもともとは仏教思想を反映したもので、経典と同様に漢字で書かれるべきものだったようなのです。ちなみに『金光明最勝王経音義』の末尾には「イィロォハァニィ」と、カタカナで母音を後に付けた「いろは歌」が書かれています。カタカナは漢文の語尾を補足する字としてつくられたと考えられており、やはり漢字と縁が深いようです。
しかし私たちに身近な「いろは」は、ひらがなで書かれたものではないでしょうか。
1140年頃、『色葉字類抄(いろはじるいしょう)』という日本語辞書がつくられました。この辞書は、現代の辞書が「アイウ」や「ABC」の順で項目を立てるように「いろは」を巻頭文字としています。これ以後、「いろは」は物事に順序をつける、今で言うインデックスのように使われていきます。また、「学問のいろは」「恋のいろは」のように、あることについての「ほんの入り口」の意味で「いろは」という言葉が使われるようになります。こうした「いろは」には、ひらがなの「いろは」が似合います。昔はお習字の最初も「いろは」だったのです。
しかし、最初にひらがなで書かれたいろは歌、というものの上限はこれまであまりわかっていませんでした。『色葉字類抄』でも、見出し語として使われたのは漢字の「伊・呂・波」でした。ひらがなのいろは歌の上限となる資料は、岩手県平泉町の志羅山遺跡で発見された12世紀後半の木簡程度だったのです。
ところが今回発見された「いろは歌」は、11世紀末から12世紀前半頃の「かわらけ」と呼ばれるタイプの土師器皿に書かれたものでした。斎宮ではかわらけはほとんど使い捨ての土器ですから、製作年代とほとんど変わらない時期に字が書かれたものと見られ、確認されているひらがなの「いろは歌」としては最古のものとなります。皿の内側には「ぬるをわか」、外側に「つねなら」とひらがなと判読できました(「つねなら」は字画が少なく、なお検討を要するかと思います)。縦6.7センチ、横4.3センチ、高さ1センチの小さな土師器皿の破片に書かれており、土器全体を復元した大きさは、推定直径約9センチ、高さ約1センチで、割合に小さく、文字もまた、細い筆による、繊細な美しい手です。
そして大変興味深いのは、この「いろは」が、続け字ではなく、一文字一文字書かれていることです。本来ひらがなは続けて書くために出来たことばで、いろは歌もまた、通して意味のある「歌」です。ところがこの墨書土器は「いろは歌」なのに、ひらがな文字を一つ一つ確認するように書かれているのです。もしかしたら書き手は「いろは」を歌ではなく、習書、つまり字のサンプルとして書いていたのかもしれません。だれかに、習書のお手本として書いてやったと考えることもできるのです。
この墨書土器は、斎宮内院内の北部にあった溝から出土しました。現在、竹神社という神社になっている森、江戸時代には「旧地の森」また「野宮」の名で呼ばれた森の北端部だった所です。その北側の柳原区画に平安時代の建物を再現する史跡整備の一環で行われた発掘調査で、内院の中を区画する平安後期の溝が発見されたのです。そしてこの溝からは、まるで土器で溝を埋めたかのような、膨大な土師器の皿、いわゆるかわらけの破片が出土しました。数万点はあろうかという土器の破片を地道に洗い、整理し、破片をつないでいく気の遠くなるような作業の中から、ひらがなを書いた複数の破片が見つけ出され、さらにそれを根気よく接合した結果が、最古のいろは歌墨書土器という大発見につながったのです。出土から発見までは、1年以上かかっていました。
このあたりから出土する土師器には、太いものや細いもの、一文字を書いたものから手慣れた続け字まで、様々な筆跡のひらがなや墨痕が見られることが以前から知られていました。しかしその判読は極めて難しく、内容や用途も分からなかったのです。それが今回、初めて意味の通るものが見つかり、習書の可能性が俄然高くなりました。これまでも、斎宮に仕える人たちが字の練習をしていた、という可能性は言われていました。しかし「いろは歌」のようにたいへん有名なものや、一文字一文字を丁寧に書いたものが見つかったのは初めてで、かなりの驚きです。さらにこの字は筆の細さや字配りの繊細さから、それなりの身分や教養のある人が書いた物と見られています。そして出土場所が内院であることを考慮すると、斎王の身近に仕えていた女性の手による可能性も考えられるのです。

榎村寛之

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