第21話  良子の妹、賀茂斎院・娟子内親王

 斎宮歴史博物館、秋の特別展は『賀茂斎院と伊勢斎宮』と題して開催いたします。
 本年は薬子の変(平城太上天皇の乱)から1200年目にあたります。平安京の守護神、賀茂の神に仕える賀茂斎王、つまり斎院はこの乱をきっかけに置かれたという説が有力なので、この展覧会を開催するはこびとなったものです。
 さて、賀茂斎院についての詳しい話は展覧会と図録に譲ることとして、ここでは一つ面白いエピソードを紹介いたしましょう。
 平範国という貴族の日記『範国記』(京都大学蔵)の長元九年(1036)十一月二十八日条に、
 「斎宮斎院の卜定のことあり、予、大学頭義忠朝臣に仰せて、二宮の御名の字を勘申せしむ。」
 と、後朱雀天皇の女一宮と二宮が伊勢斎王と賀茂斎王になった時に、諱(いみな)【正式な名】を付けた記録が出てきます。
 この時に定められたのが、
 一宮の御名は良子 良の字は長と読む
 二宮の御名は娟子 麗と読む
 という名なのです。
 つまり、ここで選ばれた斎院は、映像展示『斎王群行』、そして斎王かみしばい「ながこひめの斎王えにっき」シリーズのヒロイン、良子内親王の妹なのです。そしてこの史料から「良子」は「ながこ」、「娟子」は「麗」の訓読みが「麗しい」ですから「うるわしこ」と読んだと考えられるわけですね。「明子」と書いて「あきらけいこ」と読む例もあるわけですから、「うるわしこ」でも不思議ではありませんが、ほんとに日本人の名前は読みにくい。

 さてこの娟子内親王、長元5年(1032)年の生まれで、斎院就任が4才。母が良子と同じく皇后禎子内親王、三条天皇の皇女です。そのため、彼女の亡くなった時の記録を残す『少外記重憲記』(『大日本史料』所引)には、良子内親王にも関わる貴重な記録があります。
 まず彼女が誕生したのは、中宮大進橘義通の宅だということです。中宮大進は中宮職の次官ですが官位相当は従六位上、しかし義通は後一条天皇(後朱雀天皇の兄)の乳母子ですから、それほど低い位とも思えず、平安時代末期にはよく見られた大夫進(五位で大進を勤める人)なのかもしれません。しかしいずれにしても、普通は里に下がるはずの中宮が中宮職の職員の自宅を里第にするのは異例だと思われます。そして実はこの中宮は禎子ではありません。良子、娟子を産んだ時には後朱雀はまだ東宮(皇太子)なので、中宮職は、後一条天皇の中宮藤原威子に奉仕する機関だったと考えられます。
 じつはこの時、禎子の父、三条天皇はとっくに鬼籍に入っており、彼女には実家というほどのものがありませんでした。彼女の後見とすれば、母の異なる兄の小一条院敦明親王か、こちらもすでに故人になっていた母・藤原妍子(1027年没)の実家である摂関家の関係者ということになるのです。そして中宮威子は妍子の姉妹なので、どうも後見者は威子ではないかと思われるのです。禎子内親王と摂関家は後朱雀天皇の即位(1036年)後にだんだん関係が悪化していったと言われていますが、その背景には威子の死去(1036年)があったのかもしれません。
 娟子の出生にこのような背景があったとすれば、良子の誕生も、同様に中宮職関係者の私宅だった可能性があるように思われます。
 また、東宮敦良親王からは「紅御袴一腰」が送られており、これは由緒があるとしていますので、良子誕生の時にも同様の贈り物があったものと見てよいでしょう。紅の袴は成人女性の印とされたようなので、健やかな成長を願うものだったと考えられます。

 そして長元9年11月28日に斎王となった後、12月6日に内親王となります。これは良子と同時で、この時、外戚卿相、つまり関白藤原頼通以下の上級貴族が、内裏紫宸殿の西脇にあったという弓場で奉慶、つまりお祝いを申し上げたとあります。内親王宣下の祝いの史料もなかなか珍しいものですが、斎王になった祝いではなく、内親王宣下の祝いというのは少し面白い所です。厳密にいうと、この二人には数日だけ、良子女王、娟子女王で斎王だった時期があったことになるからです。本来なら斎王卜定と同時か、それ以前に済ませておきそうなものなのですが、5才と7才の少女が内親王になるのは、斎王就任などの事情がないと不自然という意識があったのかもしれません。さらに斎王に選ばれた時には祝いがされていないというのもなかなか意味深長なものがありますね。
 このようにして賀茂斎院になった娟子内親王ですが、寛徳2年(1045)に後朱雀天皇の崩御により退下します。そののちどこに居たのかは明らかではありませんが、姉の良子とともに陽明門院の号を受けていた母・禎子内親王の元にいたものと思われます。『栄華物語』は、この頃の良子、娟子姉妹について「わさとのおとなのうつくしう、ささやかなるにておはします。御かたちとも、いとめてたくおはします」と、大人びた雰囲気と繊細な美しさを讃えています。
 ところが、天喜5年(1057)、26才の時、娟子は突然参議で左近衛権中将を兼ねていた源俊房に降嫁します。当時俊房は3才年下の23才。村上天皇の皇子、具平親王の孫にあたりますが、父の師房は藤原頼通の猶子、母は藤原道長の娘の尊子という摂関家に近い人物です。それにしても斎王の夫としては少し若い感じがします。
 じつは『今鏡』によると、「長月のころ、いつこともなくうせ給にければ」、つまり、宮から突然いなくなり、「三条のわたりなる所にすみ給なりける」と、三条のあたりに隠れ住んでいたのを見つけられたというのです。つまり二人は駆け落ちしたらしいのですね。

 どうも人の扇に俊房が字を書いたのに娟子が書き添え、お互いに書き足して歌にしたのがきっかけというらしいのですが、面白いのは『今鏡』が、この二人の恋について、「夢かうつつかなる事もいてきて」「をひいたしたてまつりて」などといった表現を使っていることです。前者は『伊勢物語』第六十九段で斎王とされる女が在原業平とされる男に送った「君やこし我や行きけむ思ほえず夢かうつつか寝てかさめてか」の歌を、後者は第六段で男が藤原高子とされる女を「からうじて盗み出でて」の場面が、女を負ぶって逃げたと認識されていたことを想いおこさせます。どうも俊房の行為は、業平に見立てられているようですね。
 これより早く、三条天皇の娘・当子内親王に藤原道雅が通い、三条天皇が激怒した時にも、『伊勢物語』に似ているが、こちらは元斎王なのにという風評があったことが記されています。斎王との恋というと、『伊勢物語』はやはり第一に思い出されるエピソードだったことがわかりますね。
 さて、娟子はそののち俊房との仲を認められたようで、先ほどの降嫁という形でこの事件は落着します(皇太子だった弟の尊仁親王、後の後三条天皇はなかなか許さなかったようですが)。『今鏡』は「もろともに心をあはせ給へれはにや有けん」、つまり二人が心を合わせてこの失踪事件を企てたのだろうとしています。『賀茂斎院記』は、この振る舞いから「狂斎院と号す」としていますが、当子内親王の事件以降、元斎院の内親王の恋や結婚が考えにくかったこの時代に、まず失踪という形でまずカミングアウトして、そのまま一途に恋を貫いたのですから、大したお姫様、だと思います。今なら「情熱斎院」という所でしょうか。
 この娟子内親王、「ながこひめの斎王えにっき」の次回作「二人の斎王」に出演し、斎院時代の秘められたお茶目なエピソードを披露いたします。初公開は平成22年10月11日、三重県生涯学習センターでの講座「賀茂斎院と伊勢斎宮」の中で、かわせみ座が公演します。どうぞお楽しみに。
 
 それにしても、ある朝起きたら妹がいなくなっていたと知った良子内親王は、さぞびっくりしたことでしょうね。

(学芸普及課 課長 榎村寛之)

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