第14話  こんなところに業平の子孫

    「在原氏の亡息員外納言四十九日のために諷誦を修むる文」
 『朝野群載(ちょうやぐんさい)』と『本朝文粋(ほんちょうもんずい)』という二種類の史料に、このようなタイトルの文章が載せられています。諷誦は「ふうしょう」または「ふじゅ」と読み、声に出して読むということです。『朝野群載』とは、12世紀前半、算博士三善為康(1049-1139)という博学の人によって、公私の名文を収集、分類して作られた、いわば文章用例集のような本、『本朝文粋』はこれも博学で知られる儒者(儒学の教えを説き、研究し、実践する人)、右京大夫藤原明衡(989?-1066)の編による日本史上最高級の漢詩文集です。
 この文章は漢字150字あまりからなり、中身は「在原」某という貴族が、亡くなった息子の四十九日のために整えた追悼文です。といっても作者は、『本朝文粋』によると大江朝綱なので、依頼されて作ったわけですね。この参議大江朝綱(886-958)もまた学者や書家として、平安時代漢文学に興味のある人には有名な貴族です。そしてその内容は、在原某という人のモノローグになっています。日付は天慶六年四月二十二日、西暦943年のことです。
 さてそこで、おや、と思ったわけですね。この時期の在原氏といえば、せいぜい五位止まりのいわば衰退氏族、ところがその息子が員外納言、員外とは定数外のという意味なので、権大納言とか権中納言とかいう高位の貴族になっている在原氏とは誰だろう、とね。
 で、本文を見ていきますと、員外納言という人は、病気になった時に落飾して僧になり、まもなく亡くなったらしいのです。そして依頼者の「妾」は「愛子」のために大変嘆き悲しんだのです。ここでは「妾」は「めかけ」ではなく「わらわ」と読むべきなのですね。そして、「人はみな短命を嘆くのに、私一人が長寿を憂う」としています。つまりこの依頼者の「在原氏」とは、息子の員外納言より長生きをした、その母なのですね。
 とすると、この息子は在原氏ではない、ということになります。
で、『公卿補任(くぎょうぶにん)』の出番です。天慶六年四月二十二日の四十九日ほど前に亡くなった権納言はいないかな・・・。
 と、ドンピシャ大当たり。同年三月七日が命日の、
 藤原敦忠さん三十八歳
 おおっ、斎王雅子内親王の恋人だった人ですよ。
 つまりつまり、この「在原氏」とは、谷崎潤一郎の『少将滋幹の母』のモデルになった人ではないか、ということなのです。
 ここで関係者を整理いたしましょう。
 在原業平(825-880)には棟梁(むねやな?-898)という長男がいました。『公卿補任』によるとその娘が藤原敦忠の母になった女性です。つまり業平の孫。ところが『尊卑分脈(そんぴぶんみゃく)』には敦忠の母親は本康親王の娘康子女王と記されており、両説が対立しているのです。しかし少なくともこの史料から見て、在原氏説はかなり動かしがたいと見られるでしょう。
 で、この業平の孫は、お祖父さんに似て大変な美人だったらしいのです。父の棟梁は、とうりょうという名に負けたか、五位で終わった平凡な貴族人生だったのに、娘の彼女は大納言藤原国経(828〜908)に見初められ、妻となりました。藤原国経といえば、業平の恋人藤原高子の兄弟で、関白基経の弟。はやい話が『伊勢物語』の「芥川」で鬼にみせかけて高子を取り戻した藤原兄弟の一人だとされている人、つまり彼女にとってはお祖父ちゃんの仇敵の一人で、『今昔物語』によると八十才と二十才というスーパー年の差カップルだったらしいのです。でも二人の間には息子もできて、それなりに幸せでした。

 ところがそこに割り込んだのが基経の長男、菅原道真を失脚させたのでも有名な左大臣藤原時平(871-909)、国経邸での酒宴の引き出物に「わが家のどんな宝でも」と口を滑らせたのを幸い、彼女をもらって帰ったと『今昔』は記しています。そして生まれたのがこの藤原敦忠(906-943)。一方、父の元に残された息子、藤原滋幹が成長して母と再会するというのが『少将滋幹の母』のラスト。『続群書類従』雑部にある『世継物語』という本では、彼女は時平の妻となっても国経のことを偲んでいた、とされています。
 こんな数奇な人生を歩んだ彼女ですが、このころにはすでに国経は亡く、時平も早世、兄弟で唯一名を残した中古三十六歌仙の一人、在原元方(生没年不詳、国経の養子とも)も五位程度の下級貴族にすぎません。そんな境遇で晩年に一人息子に先立たれた悲しみにうちひしがれ、故人の袈裟を布施として寺に納めるため、彼女が大江朝綱に依頼したのが、この諷誦だったようなのです。
 そう思ってみると、「人みな短命を以て歎きとなし」という一説は、業平の辞世とされる「かねてより行くべき道とききしかど昨日今日とは思はざりしを」を彷彿とさせます。作者の大江朝綱は大江音人の孫、音人は実は阿保親王の子とも言われており、業平の母親違いの兄だった可能性があります。つまり依頼者と作者は祖父同士が兄弟だったかもしれないわけですね。ならば意識もしていたかもしれません。
 こうして見ると、この文は、二重三重に在原業平と関係しており、いわば業平と藤原敦忠の橋渡しをしているように思えてくるので不思議です。
 この諷誦は『朝野群載』などに採られたくらいなので、広く知られたものだったようです。あるいは、当時藤原師輔(もろすけ)の妻となっていた元斎王・雅子内親王の目や耳にも触れていたかもしれません。どんな気持ちで聴いていたのでしょうね。

 では最後に私なりの書き下しを。

   敬白
     諷誦を請う事
     三寶と衆僧に御布施す法服一具
 右、員外納言病を受く時、風儀変じて俗累を脱し、終命の日、雲鬢を落として空王に帰す。よって此方袍の具をフげて、彼の円照の庭に捨てん。妾少しく所天に後れ、独り血涙を眼泉に流し、老いて愛子に哭す。誰か紫笋を雪林に抽さんや。人皆短命を以て歎きとなし、我独り長寿を以て憂いとなす。もしすみやかなる死あらば、あにこの悲しみに逢はんや。灯前裁縫の昔は龍尾の露を曳き、涙底染出の今は鷲頭の風に任す。魂魄霊あらば、この哀贈を受けよ。請う所件の如し。敬白す。

(大意 権中納言敦忠は病となった時に世を捨てて、命の尽きる日に髪を落として僧の姿となった。そのため、この法衣を寄進しようと思う。私は生き残ってしまったために、老いて愛し子のために慟哭している。二十四孝の孟宗が母のために雪の竹林で筍を探したような孝行をしてくれる人はもういない。世間では短命を嘆くが私は長寿を憂えている。もし速やかに世を去っていたならば、こんな悲しいことに逢うこともなかっただろう。灯の前で子供のために着物を縫ってやった昔は龍の尾が引きずる露のように記憶に残っているのに、涙にくれる今は、飛翔する鷲の頭が切っていく風のように空しい。死者の魂魄にもしも霊があるのなら、この哀しい贈り物を受け取ってほしい。)

 おそまつでした。

(学芸普及課 課長 榎村寛之)

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