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斎宮歴史博物館 > 斎宮跡の発掘 > 斎宮跡調査と保存のあゆみ > 三重県斎宮跡調査事務所開所から斎宮歴史博物館開館まで(昭和54年度から63年度まで)

三重県斎宮跡調査事務所開所から斎宮歴史博物館開館まで(昭和54年度から63年度まで)

 史跡指定後、三重県は、明和町との役割分担のなかで、計画的な発掘調査を行い、出土品の保存展示施設の整備、遺構の復元等を行っていくこととなりました。昭和54年(1979年)、三重県教育委員会による面的な計画発掘調査が、はじめて下園・御館・柳原の3地区で開始されます。
 昭和54年4月、発掘調査、保存啓発の基地として小さな展示施設を併設した県立の斎宮跡調査事務所が開設されました。さらに学会を代表する研究者によって組織された「斎宮跡調査研究指導委員会」が斎宮跡の調査研究・保護について指導・助言を行うこととなり、斎宮跡の発掘調査体制が整いました。
 発掘調査は、中町集落北側の地区を対象に重点的な調査が行われました。この期の調査成果として特筆されることは、史跡中央部から東部にかけて、幅約12メートルの道路に囲まれた一辺が約120メートル四方の碁盤目状の区画(方格地割 ほうかくちわり)が東西5列、南北4列にわたり存在することが明らかになったことです。光仁朝から桓武朝にかけて整備されたと考えられるこの整然とした都市的空間は、長岡京や平安京の造営にかかる設計思想とも関わり、共通する歴史的背景のもとで出現したものと認識されるに至りました(後に木葉山地区で八脚門跡〈はっきゃくもんあと〉が発見されたことにより、最大で東西7列の規模が確認されることになります)。こうした奈良時代後期から平安時代を通しての斎宮寮の全体イメージが早い段階で把握できたことは、その後の発掘調査の進展に大きく寄与することになりました。
 一方、出土遺物では、史跡西部の中垣内地区で実施した第30次調査で、県内2例目となる三彩陶器片が確認されたほか、『延喜斎宮式』などの文献に記載されている斎宮寮13司の存在を裏付ける墨書土器「寮□」、「水司鴨□」、「殿司」などの発見、奈良時代前半の須恵器の供給元を特定する根拠となった「美濃」刻印陶器の発見などがあり、考古資料と文献とを融合させた研究が進みました。また、史跡中央部から東部において、多量の土師器(はじき)、灰釉陶器(かいゆうとうき)、緑釉陶器などを一括で廃棄したと思われる土坑や井戸が相次いで確認されました。この一括出土遺物は、遺構・遺物の時期を決める根拠となる斎宮跡の土器編年基準のもとになりました(2001年改訂)。
 最初の史跡整備は、昭和57年度と61年度に「斎王の森」周辺で、掘立柱建物、井戸、道路などの遺構表示を中心とした整備がモデル的に実施され、昭和62年度には古道沿いの塚山地区でも同様の整備が行われました。

斎宮跡調査事務所
斎宮跡調査事務所

土器一括廃棄の土坑(SK2650)
土器一括廃棄の土坑(SK2650)

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